漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

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ブックフェア開催

北部ののどかなキブツ、南部の砂漠に囲まれた町、そして足どり軽いテルアビブ。イスラエルで過ごす生活空間としては三箇所目で、どこもほとんど全くと言っていいほど別の顔を持っているのだけど、共通していいなと思うのはこの半年あまり晴れの日が続く乾季。スコーンと抜けたような青空に深い青色をした地中海、もうそれだけで充分!

歩く人達の服装が最近一気に軽くなり、Tシャツに短パン、ワンピース、足はもちろんサンダル、と夏の到来を目で実感。そんな上昇ムードの中で、ヘブライ語ブックフェアという本のお祭が始まった。テルアビブでは市役所前の大広場に出版社がブースを出してジャンジャカ売り出すのだが、昨年は物件巡りのために乗った不動産屋の車から眺めていたことを思い出す。あの頃は実際以上に遠くに見えたお祭ムードの空間も、今では通勤路となって軽く覗いてみる。と、すぐ近くのカフェの店員が「アイスカフェの試食だよ」と小さな紙コップを配っているので一つもらう。立ち止まって周りを見るとかなりの人が集まってきている。オレンジがかった空を背景に、屋外に並べられた本を手にとるのはとても気持ちがよさそうだ、全部読めそうな気もしてくる。

そんなブックフェアの開催を記念して、ハアレツという結構インテリの人達が読むとされている三大紙の一つの新聞では、記者に代わって売れっ子イスラエル人作家が政治も社会もそして天気予報までを書くという粋な演出がされた。特定のページだけではなくて、フロントページから何から何まで。天気予報を作家がどうやって書くんだ?とめくると、詩人が「夏」という詩を書いている、や~粋だ。

我らがエトガー・ケレット(参照:村上春樹!)が一日編集長ということで国防相に直撃インタビュー、というのが一面を飾っている。 読んでみる

大物デヴィット・グロスマンも麻薬常習少年の厚生施設を訪問した時の様子を、これまた読ませる。読んでみる


いずれも目の前の人物やその口から発せられる言葉に可能な限り接近しようとする力なのだろうか、新聞の役割である情報よりも、その情報を伝える文体が織り成す物語性にグイグイひかれる。

その勢いで、連続更新!

一年が経過したんだな

俳句コンテストは本日10日で終了ですので投票まだの方は是非ぜひ。

赴任して1年が経過したものの、赴任当初最初の二ヶ月くらいはアパート探しで身も心も縛られていたので、本当に新たな地で生活を始めたなと実感し始めたのはこのアパートに引っ越して以降。その引越しからも一年が経ちそうで、改めてアパートの契約を結んだ。

日本では甲と乙が順番に出てくるあの借家契約書を一字一句読むことなどなく、「ここに署名を」と言われたとおりにスラスラと名前を書くだけなのだが、ここでは一字一句をめぐり、時にギリギリとすり合わせながら契約書を作成していくので本当にエネルギーが求められる。ちょっと大げさかもしれないけど、身も心もすり減らす、そんな思いをするのがこのアパート契約。だと少なくとも私たち夫婦は本当に身をもって経験をしているので、今のこのお気に入りのアパートに住み続けるためにも、去年大家と作り上げたあの契約書の内容で居住期間だけ延長したい、とただその一心で大家に連絡した。

「お前達がここにいる限りずっといていいぞ」と期待以上の返事に家族で大喜び。家賃も据え置き!「居住期間を明記した追加事項を用意しているから火曜日夕方に来てサインしな」と言われて事務所へ。ベルを鳴らしながら、急に一年前にサインをしに来た時のことを鮮明に思い出してドキドキとしてきた。期間延長だけと言っても、契約書にサインをするという緊張感は変わらない。サインをしてしまったらもうお終い、あとにも先にも引けない。「ほら、ここに書いてあるじゃないか」と実は大変な内容を見落としてしまったんではないか、と考えれば考えるほど不安になる瞬間があったが、大家とその後築いてきた信頼関係を思い出して、「よし!」とサイン。その瞬間、めでたく残りの期間もここに住むことができるという安心感がジワジワと広がってきた。

一年前と自分は何も変わってないけど、ここでしっかりと地に足着いた生活を送るようになった家族としての成長はかなり大きなものがある。小さな家族の大きな成長をした一年だったのだな、と振り返るとジンワリと強いものを感じた署名だった。

テルアビブ大学学生による俳句コンテスト

もう一年か~、としみじみ感じながらテルアビブ大学俳句コンテストのお知らせです。
http://www.taujapanese.com/haiku/

その情景を想像しながらウフフと笑えるものもあれば、あれ、こんなの去年もなかったかな熊が登場するの、となかなか味があります。

マスク

先日少しだけ一時帰国をした。第一に成田に到着するやマスクをしている人たちが普通になっている光景に驚いた。イスラエルは随分早い段階から新型インフルエンザ感染者が確認され、しかも、この国土の狭さ(ほぼ四国)と人口(ほぼ700万強)からすれば7人というのは日本の比ではなくかなり多いと思うけど、マスクをする人など見かけない。そもそも、日本だと風邪をひけばマスク、花粉が飛べばマスクなわけで、日頃からマスクに対するハードルが絶対的に低いから、マスク一つでは比較は出来ないだろうけど、何だかマスクなしだと危険に晒されているような変なプレッシャーが成田にあることは間違いないと思う。

そういえば、こちらの新聞では、まだ日本が感染国ではないにもかかわらず、新型インフルエンザの記事を飾る写真として、成田に到着した乗客全員がマスクをしている日本の写真が使われていた。確かにあんな光景は世界でもきっと珍しいんだろうと思う。情報伝達手段としては不適切だけど、確かにフォトジェニックではある。こっちでは、感染者が「バリバリ元気だぜ!」と顔写真つきで新聞に出るし、さっさと退院するし、あっさりしたものだ。

イスラエルへの入国の際、パスポートコントロールのブースの下に「過去7日間にメキシコに行った人は申告してください」ときっと発生直後に出したんだろうな、という張り紙があったけど、新型インフルエンザのためにいつもと違うなと思うのはそれくらいだった。入国審査員はだれもマスクなどせずスタンプを押していたし、全くいつもどおり。いったいあのマスク騒動は何だったんだろうか?と思いながら久しぶりにのんびり週末。

イスラエルと日本の大型連休

イスラエルに来て一年が経とうとしている。「お~、久しぶり!」とイスラエル人の旧友や知人に何年ぶりかにテルアビブの街のど真ん中でバッタリ会うことが一ヶ月に一度はあるんだけど、なぜか日本人に会ったことはない。が、ようやく今日初めて目にした。遠くからでも、お、なんかちょっといつもとは違うアジア人だな、人と人の距離のとり方も、お互いの話し方なんかからもピピンと感じるな、と思った通り、近くに「○○トラベル、聖地巡礼の旅」と書いてあるミニバスを発見!「あ~、ゴールデンウィークだからか!」と思わず膝をたたいた。

こちらイスラエルは4月8日の過ぎ越し祭から29日の独立記念までの怒涛のお祭続きだったので完全に「連休後」のムード、改めて5月5日という日付にそうか、と何だか遠いことのように思う。ネット時代の今では距離感覚がつかみにくいことが多々あるけれども、共有する時間がズレていると実感すると妙に遠く感じるものだ。プロ野球の結果も、豚インフルエンザの感染者数も、数値的な情報はほぼライブで更新して共有できるけど、数字にはなりえない呼吸と同時に分かり合うものは遠くにいるとやっぱり分からないものだ。WBCの結果は知っていても、僕はその興奮をまだ感じることができていない。友人が全ての試合を録画したビデオを送ってくれたのでこれから見るのが楽しみだ。

さて、僕はかれこれ長いことイスラエルには関係しているけど、娘が幼稚園で習ってくる歌なんかはこれまで全く触れる機会がなかったのでとても新鮮。昨日などは「あおとしろ~、わたしのはた♪」とヘブライ語で口ずさんでいてドキリとした。

イスラエルは独立記念に向けて、もうこれでもか!という位の国旗をあちこちに掲げる。学校やバス、会社、そういう「おおやけ」の場所ならまだしも、マイカーやアパートのベランダなど「こじん」の場所に掲げる様子はいつ見ても驚くし、日本で長く生活したものの感覚にはどうしても馴染まない。1993年に私が最初に体験した独立記念の頃は、イスラエルとアメリカ二つの旗を車にたなびかせて走るのがやけに多かったことを記憶しているけど、数そのものは今もあの時も多かった。

娘の幼稚園の中にも「当然」国旗がいくつも掲げられていて、二本の線と星はお絵かきの題材にもなっているし、着ていく服も青と白、否が応でも身近なものになるのだ。そして、歌。私の旗は青と白なのだ。「私たち」と「わたし」が巧みに絡み合う瞬間、そんな独立記念日が4月29日、今も名残惜しむようにあちこちに青と白がはためいている。

娘の「あおとしろ、わたしのはた」の写真は船長ブログ

フィールド・オブ・ドリームスのような空間でのプレーは本当に気持ちがいい、でも、やっぱりスポーツは勝たないと面白くないのだ。勝負事は勝ってナンボであって、特に今のように日々の練習が実を結ぶ、という試合までのプロセスも楽しめるわけではない本番勝負では、勝たないとしょうがない。

う~ん、そんな煮え切らなさを感じながらも、仕事を終えた後、一週間に一度、ナイターで一ゲームプレーする、そんな贅沢な趣味に体が随分と慣れてきて、ガシガシと軋まなくなったのは嬉しい。あとはスピード。頭は反応するのに体がワンテンポ遅い、この筋肉の鈍さを戻せれば何とか満足できるプレーができるかもしれない。とにかく基本的な体力が復活してきて日常生活にもかなりハリが出てきたのは嬉しい限りだ。

ソフトボールをするようなイスラエル人は大半以上が米国出身。その中でも宗教的な人々が多いので、帽子を取ると頭にキッパをしていたり、腰の辺りにチョロチョロとツィツィットと呼ばれる宗教家が身につけるチョッキが出ていたり、絶対にイスラエルでしか見れない「プレーヤー」を目にすると今でもちょっとワクワクする。そんな楽しみもイスラエルでのソフトボールにはある。

試合が終了するのはいつも夜11時15分。それから夜のお祈りをする宗教的な選手達。暗闇に野球のユニフォームを着た大の大人達がエルサレムの方を向きながら頭を前後に揺らす姿に、僕はかなり興奮する。長年野球をやってきたが、こんな場面は一度も見たことがない。

最近、政治的には、首相やその周辺が、和平プロセスに向けてまずは「ユダヤ人国家イスラエル」としての国家の定義を認めよ、とは言っているものの、そもそもユダヤ人ってだれよ?ユダヤ教徒?といっても僕の周辺にはそんな宗教的な人たちはいない。ソフトボールの試合で僕が体験しているのは、かなりマニアックなイスラエルの空間なのだ。試合中は完全にアメリカ英語。話題はMBA。イスラエルにいるのにアメリカ体験、なんてのはやっぱりオマケみたいなもので、スポーツは日本であろうとイスラエルであろうと、勝たないと意味がないのだ。

フィールド・オブ・ドリームス

イスラエルで野球?ソフトボール?
イスラエルの人気スポーツを知る人はまず信じられない、僕もそうだった。
スポーツ紙を独占するのはサッカーとバスケで、テレビ中継のスポーツもサッカーとバスケ。グローブもバットを売っているスポーツ店など見たことがない。

留学してたころ、NY出身の友人ダニ(カメラマンとしての作品はこちら)が「TSUYOSHI SHINJOは日本でも人気あるのか?」とふとしたことから話題が野球になって、「なんでその名前を?」「俺は子どもの頃からメッツのファンだから」とあれよあれよと、「ソフトボールのリーグがあって俺もやっているけど、一緒にやるか?」と、ダニと一緒にプレーしたことがあった。

35を過ぎて、年齢と体力を考えると、もう一度野球やるなら今のうちだな、と思うようになり、今シーズンから再びダニと同じチームで白球を追うことにした。
プレーボールは夜9時、一週間に一度、仕事が終わってからユニフォームに着替えて球場に向かう気分は何とも言えない。

球場に入りボールを握ると気分は高校生なのだが、気分と体力の距離がまだ遠い、ものの、これまで二試合を終えて随分と戻してきた、と少なくとも自分ではいい感触を得ている。

何より、生活の中に野球があるということは僕にとっては自然であり、生活そのものがグッと熱くなるのがたまらなくていい。青春、と言えばちょっとクサイけど、投げて、走って、打って、ヨッシャ!と握りこぶしをつくり、アチャー、、、と天を仰ぎながら、もう味わえないかもしれないと思っていた湧き上がるような感覚を全身で感じることは最高だ。

そして、イスラエルで白球を追うことの楽しみはその球場。今プレーしているのは二つの球場なのだが、どちらも球児魂をくすぐる。下は7年前の留学時代の写真だけど、今も走り回っている球場は同じ。ここでのナイターは、まさに『Field of Dreams』そのもの!(懐かしの劇場予告)

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村上春樹氏イェディオット紙インタビュー

随分時間がかかってしまいましたが、ようやく村上春樹氏がエルサレムに来たときのインタビューの訳ができたので以下掲載します。長文ですが、よかったら読んでください。どうやら、インタビューと言うよりも、写真を撮りながらの会話をインタビューにしているようで、記者が事前に用意した内容に村上春樹氏の言葉を差し込んでいったという印象をうけるのですが、いずれにしても、いかにしてイスラエルで村上春樹氏が受け入れられて、いかにして村上春樹氏がイスラエルまで来たのか、ということを感じられる興味深い内容になっています。


                     大物作家、イスラエルにて
2009年2月15日付け
イェディオット・アハロノット 別冊 24Hours;4-5

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 日本人の著名な作家村上春樹氏は、ガザの厳しい映像を目にしてエルサレム賞の辞退をほぼ心に決めた。しかし、何度も悩んだ末、とにかく訪れることを決断した。「イスラエルには僕の読者が大勢います。彼らと語りあうことは僕の義務なのです。」単独インタビューで村上氏は、日本文化と欧米の境界に生きる自らの人生について語り、インスピレーションを得る源となる内面に広がる暗黒の領域をさらけ出し、なぜそれほどまでに走ることに熱中するのかを明かした。
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 エルサレム賞受賞のため第24回国際ブックフェアに向かうべきか、村上春樹氏は何度も悩んだ。欧米で最も成功した日本人作家と言われる村上春樹氏は「イスラエルがガザで攻撃を開始した瞬間から、この賞の受賞辞退を考えた」と告白する。「私たちはテレビを通してガザの様子、破壊行為、子ども達、そして死者の映像を目にしました。あまりに多くの無実の人が、罪ある行為により命を落としました、老人や女性、それに子ども達がです。私たちは、あなた方にはあなた方の理由があることを知っています。そして、ガザからイスラエルに向かってロケットが発射されていることも知っています。しかし、これはバランスの問題なのです。あなた方は巨大な軍事力を備えていますが、彼らにはそれがないのであって、そこが問題なのです。報復の度合いがあまりに大きすぎるのです。これは私だけの考えではなく、日本にある一般的な考えです。私たちは、イスラエルを非難しているのではなく、その行為のみを非難しているのです」

  約二週間前、「パレスチナの平和を考える会」と呼ばれる団体が、ホームページ上に公開文書を掲載してエルサレム賞受賞の辞退を求めた時、村上氏の悩みはさらに大きなものとなった。同団体は「私たちは非常にショックを受けている」と述べると共に、「私たちは、イスラエルがガザで1300人以上の尊い命を奪い、500人の重傷者を含む5300人以上の負傷者を出し、大勢の人々の生活を破壊しつくすという戦争犯罪を犯した直後のこの時期に、世界的に著名な小説家であるあなたが、イスラエル外務省、エルサレム市が全面的にバックアップする公的行事であるこのブックフェアに参加され、エルサレム市長から「エルサレム賞」を受賞されるということの社会的・政治的意味を真剣に再考されることを強く求める(ヘブライ語該当部分を同団体サイトから引用)」と村上氏に対して受賞の辞退を求めた。また、公開文書の中では、「パレスチナ人全体がアパルトヘイト政策の犠牲者」であり、「彼らの「社会における個人の自由」はイスラエルによって徹底して抑圧され続けているにもかかわらず、「社会における個人の自由」への貢献を讃えること」が今回の受賞理由であることはさらに懸念されるべきことと述べている。他の複数の団体もその呼びかけに応じたために、日本において特に若者の間で多くのファンを持つ村上氏は、憎悪のメッセージを浴びることとなった。
  「彼らは、僕がこの賞を辞退すると聞けばとても喜んだでしょうし、賞を辞退し、彼らが僕に拍手を送るということで終わらせることが、僕にとっては最も簡単な選択でした。しかし、僕は、とにかく来る決断をしたのです」と明かす。「僕は作家です。作家の役割は、人間の魂について書くことですが、政治的課題もその人間またその魂が生きる世界の一部です。受賞を辞退することは否定的なメッセージです。すなわち、安全で、都合のいい内面の世界に僕が閉じこもるということです。僕にはここイスラエルに多数の読者がいますし、ここに来て直接顔を見て語ることは僕の義務なのです。それは作家としての僕の責任の一つです。本当のところ、僕は賞そのものには関心がありません、それは、一枚の紙とメダルにすぎません。僕の読者がいなければ、いくら賞を受賞しても意味がないのです。彼らは、書くことにおける僕のパートナーであり、僕は彼らに敬意を示す必要があるのです。」

頂点に立つ
  村上春樹氏と陽子夫人は、一昨日エルサレムに到着した。村上氏との単独インタビューは、長旅の疲れが取れた後、(訳注:国際的な文化的催しを開催したり、作家や芸術家が滞在する場所として有名な)ミシュケノット・シェ・アナニムのゲストハウスで行なわれた。村上氏はベランダに出て撮影したいと申し出たカメラマンの要請を快く引き受け、エルサレム旧市街を背景にカメラの前に立った。氏は、今夜、国際会議場でニル・バルカット・エルサレム市長から賞を手にする。「式典では、イスラエルの読者に向かって、僕の心の内にあるものを語ろうと思っています」と誓う。

(記者質問)今後の不安はありませんか?
  「日本では、僕が授賞式に出席すれば、僕の本の不買運動を起こすと言った人々がいます。僕はそのようなことが起らない事を願います。」
  ドヴ・アルフォン(審査委員長:ハアレツ氏編集長)、ドゥボラ・ギルラ(ヘブライ大学)そしてエトガー・ケレット(作家)で構成された審査員会は、今年のエルサレム賞に20作品が40カ国語に訳されている村上春樹氏を選出した。審査委員は「氏の人間に対する愛情、ヒューマニズム、また、芸術的な完成度に対する審査員の理解に基づき」全会一致で決定したと受賞理由を説明する。また、「彼の小説では、この現実世界とは別次元に流れているもう一つの世界で起こる常識から逸脱した出来事を、アンチ・ヒーロが一人称で語る」と作風を紹介する。
  村上氏の作品からは、アニメ映画やパソコンゲームを傍観しているような感覚を得る。村上氏は経済成長を追い続ける日本社会を批判するが、それによって日本及び世界各国で著名な作家となることは気にしない。彼の作品のおよそ半分はヘブライ語に訳されており、『海辺のカフカ』は数週間続けてベストセラーに名を連ね、最新作の『めくらやなぎと眠る女』ではすでに著名作家陣の頂点に達している。
  村上氏は"ふつう"の人間ではない。1949年、京都において、一般社会とは少し疎遠な世界に生を受けたことがそれを証明している。「両親は日本文学の教師でした(原文ママ)ので、いつも二人でその話をしていたのですが、僕はそのことがひどく嫌いでした」「そのために、チェホフ、ドストエフスキー、フロベール、ディケンスなど欧米文学の日本語訳を読み、学校で英語を習うようになると、アメリカ・サスペンスへと移行していきました。トランジスターラジオを持っていて、エルビスやビートルズを聴きましたが、その瞬間はとても興奮するものでした」。村上氏は、第二次世界大戦を経験した父親の戦いの話や、アメリカの空爆で家が火災にあったという母親の話を聞きながら成長した。「僕は一人息子だったので、父、母そして僕という張り詰めた三角関係の中で生活していました。エディプス・コンプレックスの状態です。日本では、ユダヤ人と同様、家族はとても大切なものとされますが、僕の本の中では、家族は安心できる場所としては描かれていません。」

  村上氏は東京にある早稲田大学で演劇と映画を学んだ。1971年に学生時代からの友人だった陽子夫人と結婚。2人で東京にジャズ喫茶を開き、飼っていた猫から「ピーター・キャット」と名づけた。猫は村上氏が最も愛する動物であり、何か不思議な出来事の前兆を感じさせる、物語的でファンタジー的な登場人物として村上氏の作品の中に度々登場する。『海辺のカフカ』の主人公の一人は、猫と話ができる脳に損傷を負った男性だ。

  「僕の書く行為では、間違いなくジャズが表現しています」「作品のリズム、カッティングオフ、そして即興。自分にリズムの感覚がないと書くことはできません。僕は、ちょうどジャズのように、即興で文章を書きますが、文が互いに交差し、文が文を生み出しあいながら流れていくのです。予めストーリーや構成を考えてから書き出したことは一度もありません、物語がどのように展開するかなど、僕には全く分からないのです」。村上氏の作品の中では、主人公達がジャズについて会話を交わし、作品の中を流れるジャズの演奏曲を次々とかえていく。村上氏自身も、高価で価値のあるレコードを多数蒐集しているのだが、もしも、自宅が火災になってお気に入りの三枚を持ち出さなければならないとしたら何を選ぶかと聞くと、力なく両手を持ち上げながら「三枚を選ぶことは不可能、僕は猫を助けるよ」とこたえた。彼の人生における音楽が果たす重要な役割は、作品の題名からもうかがえる:世界的なベストセラーとなった初の作品「ノルウェーの森」はビートルズの曲。他の題名も、ナット・キング・コール、ビーチ・ボーイズ、それにロッシーニ、シューマンやモーツアルト等の曲名に基づいている。欧米の消費文化も作品の中に響いており、『海辺のカフカ』の登場人物の中にはジョニー・ウォーカー、それにケンタッキー・フライドチキンのキャラクターで知られているカーネル・サンダースといった名前も登場する。

  村上氏はシャイでインタビューを受けないことでよく知られている。「僕がインタビューを受けることが好きではないのは、ジャズ喫茶を経営していた時代、夜な夜なバーの後ろに立ち、生活のために、お客さんと話さなければならず、その7年間で一生分の話をしてヘトヘトになったからです。僕は話し好きではありません。それほど話したくないと思う人には話さないと僕は誓ったのです。それに、僕は作家です。作家の仕事とは書くことであって、話すことではありません」と、日本語のアクセントのあるゆっくりとした英語で語る。
  村上氏は、これまでイスラエル人作家と一度も出会ったことがなく、「もし私にお勧めの本があるなら、何か教えていただけたら嬉しいです」とイスラエル人作家の作品を読んだことがないことを隠さず明かす。村上氏は30歳の時に書くことを始め、1979年『風の歌を聴け』でデビュー、文学賞を受賞した。それから二年後、書くことを生業とすることができると分かると、ジャズ喫茶を売り、プリンストン大学で教えるオファーを受けた(原文ママ)。「日本社会は僕に重くのしかかり、プレッシャーでした。それはとても単一的で狭い社会-1億2千万人が一人の人間のようで、その中で僕は異質でした。欧米では個性は自然なものであって、それについて格闘する必要はありません」と明かす。

空から降ってくる魚
  1995年、村上氏は、彼が生まれ育った京都の両親の家が全壊する被害をもたらした大地震(原文ママ)の後に一時的に帰国した。村上氏は欧米の読者と日本人の読者の間にある、氏の作品の読み方に対する明確な違いを理解している。「僕が書く作品にはシュールレアリズム的な特徴があります」「日本やアジアでは、なぜ僕が書くものはこれほどにも奇妙なのか、なぜ猫が話し出し、なぜ天から魚が降るのかといった疑問を読者が持たず、それはそのような話として受け入れられます。それが、アメリカやヨーロッパでは、「ポストモダン」または「非現実的現実主義」と解釈されるのです。」と述べる、
  多くの作家は、同じ世代の登場人物について描き、作家が年を重ねると共に主人公も年齢を重ねるものだが、村上氏の作品では登場人物は青少年か若者のままで変わらない。
15歳の田村カフカは、幼児期に彼を置き去りにした母と姉を探すために、虐待する父のもとから逃げ出す;彼の耳では、将来のカフカが母と姉と寝るという父の預言的な呪いがずっと響いている。「初めての作品を書いたのは僕が30歳の時、主人公は20歳でした。僕は1月で60歳になりましたが、まだ若者について書くことが好きなんです」「『浜辺のカフカ』を書いた時、僕の実年齢は50を過ぎた辺りでしたが、僕自身が主人公と全く同じ15歳になり、彼の目を通して社会を見たり、彼のように感じたたりしたのです。それはとてもスリリングでした。二年前(原文ママ)には『アフターダーク』(ヘブライ語版近日発売予定)を発表しましたが、その中の女性の主人公は18歳です。僕は18歳の少女にもなりきることができます。一般的に読者は作家と共に年をとりますが、僕にはとても例外的に若い読者が多いので、僕はそのことをとても嬉しく思っています。」

  村上氏と陽子夫人の間には子どもがいない。「なぜって?そのことについては話すと長くなります。僕は書くことと移動で忙しく、その間に年月が過ぎ去ってしまいました。だけど、僕の子ども達は僕の読者です。僕の作品を読んだ若い方が、彼らの両親と僕とが同じ学校に通っていたことを知り、親にせがんで僕の家に遊びに行きたいと電話をかけさせる、なんてことはいつも起ります。そのような時、僕はいつも受け入れるんです。」
陽子夫人は彼の一番最初の読者であり、また、影の"編集者"でもある。「彼女は非常に厳しいひとで、僕にたくさんの指摘をします」と語る。村上氏は彼の感情の変化に合わせ、すべての作品で書くスタイルを変える。「僕の初期の作品では、主人公はみな孤独でしたが、時間と共に、僕の主人公たちは他人との人間関係を求めるように変わってきたと思います。」

現実と想像
  村上氏は非常にストイックな生活を続けており、毎朝早朝4時に起床して朝8時まで書く。その後、トレーニングウェアに着替え、自宅のある東京の高級住宅街にある公園などを10キロ走る。または、1キロ半、自転車をこぐかプールで泳ぐ。午後になると、レイモンド・カーヴァー、ジョン・アーヴィング、トゥルーマン・カポーティ、スコット・フィッツジェランド、そしてサリンジャーなど、お気に入りの欧米文学の邦訳に取り組む。日が沈んでから仕事をしたことは一度もない。

  村上氏は、33歳の時に体重を落とすために走り出し、今では欠かせない生活の一部となった。過去20年間に渡り、一年に一回マラソン大会に出場している。最高記録は3時間27分。練習のため、数ヶ月で350キロ走ったこともあると言う。「年と共にマラソンの成績はどんどん悪くなる一方ですが、最近参加しているトライアスロンでは、むしろ年をとってからの方がよい成績が出るようになっているのです」と言う。

記者:走り続けることはなぜそれほど大切なのですか?
  「僕は、書く時に、脳と精神の深い領域にまで、意識の中、そして、無意識の中へと降りていきます。そこは暗黒の場所です。もし僕に十分な肉体的な力がなければ、非常に危険な状態に陥ります。僕は書くことをそのまま体験しているのですが、それは、はっきりと目を覚ましているのに夢を見ているような状態です。」
  2001年9月のテロ発生以降、「世界は、どんどんと僕がつくり出した世界に近づいています:超現実的でカオスに満ち、そして危険な状態へ。今でも、ツインタワーに飛行機が突入する写真を見つめても、本当にそれが現実に起ったとは信じられません。僕が物語の中で描いてきたものは悲観主義であり、世の終わりだったのですが、それらが現実に起っているのです。今の世界は、まるで作り話のようであり、架空の世界であり、僕が書いてきた最も恐ろしい悪夢のようです。僕らはどんどん悪化する世界に生きていて、これが僕達が生きる本当の世界であるとは未だに信じられないのです。」

記者:かつてエルサレム賞を受賞した作家の中で、オクタビオ・パス、V・S・ナイポール、それにJ・M・クッツェーの三人は、その後約15年でノーベル賞を受賞しています。それについてはいかがお考えですか?

  村上氏は顔を赤らめながら「僕は60歳です。ノーベル賞を受賞するかは分からないし、そのことについてあまり多く考えません。僕の頭を悩ませていることといえば、これから受け取る賞のことではなく、これから何冊本を書くことができるかということだけです。僕はドストエフスキーの大ファンです。彼が『カラマーゾフの兄弟』を執筆したのは、60歳の時です。僕は日本版「カラマーゾフ」を書いてみたいと思っています。それから、走ることと書くことは、同時に始めましたし、僕の人生では一方が欠けたら前に進まないようなものですから、70歳、それに80歳になっても、同じように続けられることを願っています。」

インタビュアー:イラット・ネゲブ

おおサッソン!

レンタルビデオは高い!と書いたっきりにしていたのだけど、
その時にもらった映画招待券で見た映画Welcome to the north(ヘブライ語からの私独断の英訳)が最高だった。
詳しくは船長ブログ。本当におかしくて、ほろりとして、最高だった。
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さてさて、以下もすでに船長ブログでは触れているのだけど、僕の視点から。
フリーだった一昨年の最大の思い出の仕事は「迷子の警察音楽隊」。思い出の記事1記事2
その主人公を演じ、イスラエルの高倉健と言ってもよいだろう、大俳優サッソン・ガーバイ氏の舞台を見に行った。
彼は映画でも活躍しているが、「僕は舞台がメイン、是非一度見に来てくれよ」
と言うように舞台での活躍が素晴らしく、新聞でも時々彼の名前を見る、全て舞台関係の記事で。

イスラエルの演劇文化、と言うものを何となく聞いてはいたが、こんなにすごいとは正直予想以上で驚いた。その会場と観客のムードが、何だろう、日本で言うところの、う~ん、当てはまるものがちょっと見つからないのだけど、一番近いといえば、小学生の頃の思い出として映像が頭の中に残っている、くじ引きで商品が当たるというお祭のお楽しみ会があった公民館。おじいさん、おばあさんから、中学生までが、何かを楽しみにわっと集まってちょっとムンムンしている感じ。

チケット売り場の周辺では「パンフレット、10シケル(約250円)」と
その舞台のパンフレットが売られていたのだが、それが真っ先に目に飛び込んできた。
イスラエルでは映画パンフレットというものを見たことない(Mr33によれば映画パンフレットというのは日本独特の文化らしい)のに、舞台劇ではパンフがあるのか!とそれに驚いた。

会場は400人くらいだろうか、二階席まであるのにほぼ満席。その日は(おそらく)中学生がクラス全員で来ていたので会場全体がすぐにでも反応したい軽さがあったという特別なものだったのかもしれないけど、とにかく笑いの場面では会場中がドッと笑い、ツボにはまると大拍手という舞台と観客の距離が近いことが、「ああ、娯楽、極楽」とたのしかった。

カーテンコールでは、やはり大俳優サッソン氏に、割れんばかりの拍手が送られた。
彼はこの地で本当に愛されているのだな、ということがじんわり伝わってきた場面でもあった。

そして、舞台が終わって会場の外で立っているサッソン氏に、「最高だったぞ!」「素晴らしい演技ありがとう!」「あの、一言言いたいと思って。さっきの舞台すばらしかったわ」とその大俳優に気楽に話しかけに来る人々に対して、「ありがとう」と謙虚に対応するサッソン氏。

そんな気取らない姿勢に改めて感嘆したのだが、何より、舞台を終えたサッソン氏を自家用車で迎えに来て、会場前の普通の駐車場で待っていた奥さんの姿に、船長と二人で感動したいい夜だった。
もう10日位前なんだけど、本当にいいものを見たな~、と感動したので。

テルアビブでレンタルDVDデビュー!

かなり期待が大きかっただけに、イスラエル映画がアカデミー賞の外国語映画部門の受賞を逃した、というニュースは「失望」という表現を第一に、「日本の前に破れる」などの惜敗ムード一杯の記事が翌日の新聞を覆った。それにあわせて、というわけではないだろうが、「戦場でワルツを」のDVDが販売となって、これからは劇場からお茶の間へと鑑賞空間は移動していく。が、あの映画はやっぱり劇場で見たい。日本の皆様、是非。

さて、最近近所のレンタルDVD屋で借りる楽しみを味わっている。テルアビブの中でも、映画館併設で、ジャズCDの品揃えもいいと評判の「The third eye」、我が家では「第三の耳」。なんか、ツーな感じがする、第三というところが。

「イラン映画」コーナーは当然のことながら、「パラダイス・ナウ」などの「パレスチナ映画」コーナーもしっかりあるではないか、と一人ちょっと胸高まる。イスラエル映画もかなりの品揃え。フランス映画になると何段もの棚を占めている、とにかくすごい。ちなみに邦画もあるが、聞いたことないような作品から、宮崎駿シリーズ、北野武と抑えるべきところはしっかり抑えられている。時に、「お、Always三丁目なんてのもあるのか」とパッケージを抜くと、タイ語で解説が書いてあったり、旅行ついでにスタッフが品揃えを増やそうとしている地道な努力のあとを感じたりもする。

まずは必要に迫られてイスラエル映画を数本借りることに。何度か見た「シリアの花嫁」と、同じ監督の最新作品で「レモンツリー」など。監督ごとに並んでいるので選びやすい。分からなければスタッフに聞けばすぐに「あれは、この辺だったな」とすばやく出してくれる、かなり便利だ。

レンタルビデオのレジってどこも似たような雰囲気だな~、と4台くらいレジがあって、後方のLCDで映画が流れていて、返却されたDVDを整理するスタッフが机の端っこにいて、いかにもバイトのスタッフが入会案内がおいてあるレジで借りる人を待っている。

まず、イスラエルでDVDを借りるのは初めてなのでいくらくらいなんだろうか、と聞くと。一枚25シケル(750円)!映画館が普通に見ると35シケルだけど、我が家回数券を買っているので一回あたり23シケル。映画館より高いではないか!

と、そのまま払ってはここで生きてはいけない。映画も、コンサートも、劇場も、バスだって何だって、回数券とか、メンバー特典の値段は通常価格よりグーンと安い。その方法を早速聞く。「マヌーイある?」と聞くことは、「どんなお得な値段やオマケがあるんだろう?」という期待もワクワクさせてくれて私は結構好きだ。「回数券があって、三枚だと○○で、10枚だと、、、」と説明書を見ながら数字をどんどん羅列させて紹介される、最大は100枚まで。見たところ、50枚回数券というのを買うと、15枚分がサービスでついてきて、一枚辺り16シケルだからかなりお得。さらに、3泊のところ4泊まで借りらられる、というのが最も割引率としてはいいので、それにする。回数券も、枚数と借りる日数の両方を選ばなければならないのだが、一泊というのは慌しいし、一週間は長すぎるて返すの忘れそうだ、3泊というのが、見るぞ!と思って借りながらも急に見れなくなる事態にも対応できるしちょうどいい。

回数券でお値段お得!とは言っても、レンタルDVD50枚+15枚で約800シケル、2万円を越えるのだから決して安くはない。
のに、お店には結構な人が入っているから驚く。

映画鑑賞の感想は、いいです、いいです。現在ちょっと原稿を書いているのでそれが完成したら鑑賞感などを書くとして、テルアビブでのレンタルDVD生活デビュー!を記念して。

二つのイスラエル映画

イスラエルメディア、映画界は今日のアカデミー賞から目が離せない。
イスラエル映画として初受賞の期待が高い「戦場でバシール」が外国語映画部門にノミネートされているから。私も見たが、今のこのタイミングで絶対みたい映画。
公式サイトはこちら

そしてもう一つ、昨日から岩波ホールで公開となった「シリアの花嫁」。ゴラン高原のイスラエル側に住むドゥルーズ族の女性が、テレビで見たことしかない男性の下、しかも国交のない国境の向こう側シリアへ嫁いでしまう、という実話に基づく映画。小さなお話からゴラン高原、中東、世界へと見終わったあとに徐々に視野が移動していくような感覚を得られるのが素晴らしい!

こちらの公式サイトはこちら。

最近イスラエル映画を集中的に見ているのですが、まずは上記二つは現在または近日中東京で見れるので機会があれば是非。



村上春樹!その2

の前に、昨日「古希野球」の投稿にコメントが入った。70歳になれないと入れない古希野球。このブログでも何度も書いたけど(参考)、とにかくこの同じ時間軸にある同じ世界とは思えないプレーを目の前にして、人生観が変わった衝撃を得たあの夏のことを久しぶりに思い出した。一度ご覧ください。(クリック)
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さて、感動が冷める前に。もう少し村上春樹氏がイスラエルに来たという話。
彼が舞台に上ると、それまでの大統領やエルサレム市長が続けてきたスピーチの時にはなかった厳かな雰囲気がピーンと張り詰めた。司会者は「スピーチ中は撮影を控えるように、それが受賞者本人からの願いです」と言うと、それまでこぞってレンズを向けていた大勢のカメラマンがサーっと会場の周辺に広がった(にもかかわらず、スピーチ時の写真が新聞やテレビに出ていますね、ルール違反です)。舞台は整った、そこに一人、自分の居場所を探しながら舞台に立つ村上春樹氏。舞台後方に視線を向けて、「始めていい?」とでも聞いたような、とにかくそうした表舞台が本当に苦手なんだな、という姿のままスピーチが始まった。

「Good Evening」私はこの小さく、そしてちょっと聞き取りにくいような、自信がないような出だしに、よく聞くスピーチとは違う、これがおそらく作家という職業のスピーチなのか、という新しさを感じつつ惹かれていった。そして「僕は小説家としてエルサレムにやってきた」という始まり。この始まりの二文だけで、小説家の、村上春樹の世界が会場を占めた。正直前半部分はなかなか聞き取りにくく、会場の前の方からは結構笑いが聞こえたのだが、半分より後ろにいた私たちの周りはちょっと反応が鈍かった。しばらくして、「今日は”本当のこと”を話します」という一言から、スピーチがある転換に入り、この場に至るまでの出来事、考え、相談、決断、そして主題である「壁と卵」と盛り上がっていくと、村上春樹氏の声も大きく、はきはき、そして私達に語るというエネルギーが伝わってきて、一言ずつが耳に入るようになった。その時すでにその舞台に立つ村上春樹氏は堂々としていた。

私は途中の「You are the biggest reason why I am here」という一言が強烈に耳にささり(なぜか私が見た英文には掲載されていない)、その瞬間、自分と村上春樹とエルサレムとが一直線ではないものの不思議な関係でつながったような錯覚に陥り、そのまま不思議な酔ったような気分のままスピーチの最後まで陶酔することになった。しかし、翌日の日本語の新聞で「ガザ攻撃を批判」といった類の、いかにも村上春樹がエルサレムの大舞台で政治批判をした、というような語調の記事には、さすがにひっくり返りそうになった。

いくらファンとして酔って聞いていたとはいえ、さすがにそれは違うんじゃないかと思えてならない。「卵と壁」は、個人対イスラエル、個人対軍隊などという小さな比喩でないことはその場で聞いている者には明らかだった。「壁」は日本という国家でも、また日本の中にもあるものであって、何もこの地の個別な内容ではないだろう。それが作家と政治家のスピーチの大きな違いなんだと思う。

「卵と壁」は、村上春樹という一個人の中身をさらけ出しながら、限りなく普遍性と向き合ったメッセージであるということは会場にもしっかり伝わっていたんだろうし、だからこそ、スピーチが終わった直後、スタンディングオベーションでしばらく拍手がやまなかった。私は、自分の個としての部分を見失いかけていたという一種の恐ろしい発見と、10年以上個別事象ばかりに目を奪われ、軽視していた普遍性というものの力を強く感じたスピーチだった。

何も、イスラエルを批判するためにわざわざエルサレムにまで来たのではないのであろうし、日本人代表としてきたわけでもないであろう。「僕は作家としてエルサレムにやってきた」という始まりの一言から、その舞台は村上春樹氏という個人のものとなっていた。「反対運動があったがエルサレムに来て批判した」といった筋書き、また、「イスラエルに言いたいことを自分の代わりに村上春樹が代弁してくれた」というヒーロー像を投影したような論調は、村上春樹という個人を無視した、または利用した政治的発想にしか過ぎないんじゃないかと私には思えてならない。

ちなみに、イスラエルではもっと露骨に政治批判をすることが日常的にありなので、今回のような比喩を伴った作家のスピーチでは政治批判とは読み取られない。翌朝「イスラエルを批判」と報じた新聞は一つもなかった。ハアレツは「なぜ僕は卵の側にいるのか」という大見出しの下に、ヘブライ語全文訳を掲載していた。

とにかく、イスラエルは村上春樹フィーバー、そう言っていいだろう。ハアレツ紙は毎週水曜日に書評冊子を挟んでくれるのだが、今日の表紙は村上春樹だ。また、授賞式前日のある新聞は、見開きの単独インタビューを掲載していた。全文はまだこれからじっくり読みたいものの、村上春樹氏が「日本社会は僕を圧迫する、それはとても単一的で狭い社会だ。1億2千万人がまるで一人の人間。僕はそんな中で特殊だった,西側では個性や人格は当然のことであり、格闘する相手ではない」と述べた箇所が抜書きされている箇所が「何を言ったんだ?」と読者をそそる。

我が家でのフィーバーは徐々に落ち着いてきたが、それでもあの場にいた感動は様々なパワーを与えてくれる。ブログも久しぶりに三日連続で書けた。船長とは「あ~村上春樹が読みたい!」と空に向かって叫びたい気分がどんどん高まっている。本当に来てたんだな~。
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