漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

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祝「僕の心の奥の文法」!早速見ました!

昨日、東京国際映画祭でイスラエルがグランプリ受賞というニュースを聞き、早速テルアビブの映画館に見に行った。

ニル・ベルグマン監督の「僕の心の奥の文法」(Intimate Grammerヘブライ語も英語と同義で「ディクドゥーク・プニミ」)。個人的には、映画を見た後の感じも含めると、「心の奥の言葉」ともうちょっと踏み込んでいってしまってもいいような気がする。

2002年、ちょうどイスラエルの大学の日本語授業を受け持っていた頃、同じ監督が「ブロークン・ウィング」という映画で、同じ映画祭の同じ賞を受賞したという日本語の記事を、学生達と一緒に読んだことをよく覚えているけど、その時、数字の万の桁に悪戦苦闘する学生が、賞金はドル換算で一体いくらなのかを議論していたことがあったっけ。そう、ベルグマン監督は東京国際でV2!しかも主演女優まで同じ!
僕にとっては東京国際映画祭といえば「迷子の警察音楽隊」!何とも懐かしいです!

この映画は、デビッド・グロスマンというイスラエルを代表する作家が1991年に書いた同名の小説を映画化したということもあって注目度が高く、今回の受賞前から新聞でもラジオでもよく宣伝していたし、とても気になっていたので、いい機会だなと思って夜7時45分からの上映に向かった。

夜だから空いているかな、と思ったらドンドンと人が集まり、小さいながら劇場は一杯になった、やっぱり注目の映画のようだ。

とにかく、主人公の少年が素晴らしい!それに、一つ一つの場面や台詞がとても丁寧で、静かに流れるストーリーに引き込まれながら、同時に、何か胸の中のものがキュルキュルと音を立てているなと思ったらあっという間に終わってしまった。

もう一度見たいなというのが第一の感想。そして、キュルキュルと音を立てていたものがしばらく胸の中で続いていて、もう少し胸に耳をすませば、自分の思春期のこととか、大人になるということとか、そういう僕にとっての「心の奥の文法」を随分と刺激して、いろいろな心の中の反応が起こっていた。

大物作家の書いた小説が原作となっていることもあると思うけど、かなり質の高いヘブライ語の台詞が多かったのと、少年の台詞が時にものすごく早いので、正直、ネイティブでないと「??」と真空になってしまう場面がいくつかあった。でも、映画そのものの芸術度というか、監督の心意気みたいなものはしっかり伝わってきて、とてもいい映画だな、と素直に感じられた。

同じく今年の東京国際映画祭で上映されたらしいイスラエル映画の「パリから5時間」は、昨年イスラエル各地で上映されていて、僕も観たけれども、テレビドラマみたいで、特別何かが残るということは何もなかった、ことを思い出すと、「いい映画だな」と感じられた「僕の心ー」は人にもオススメしたい一作です!

Red Sea Jazz Festival

遠くの山からモソモソと満月が昇り始め、空がセピア色と紫色が混ざったような色に変わるころ、目の前からは少年達に奏でられたばかりの新鮮な音楽が流れ、それを見守る保護者達の何とも嬉しそうな視線を見ながら、今日はどの会場から始めようか~、とすりきり始めたプログラムをポケットから出し、冷え切ったビールを口にすする、いや~贅沢だな~、楽しいね~、ともう何度口にしても気持ちのよい言葉が家族三人の口から出てくる。

23日から26日までの四日間、僕達の待ちに待った夏休みは、毎日夜7時頃から、そんな風に始まった。友人や同僚から「シャワー浴びたばかりのようなすっきりした顔をしているぞ」「何も言わなくてもどんな時間だったか顔が物語っているよ」と言われたほど、家族で素晴らしい音楽と素晴らしい人と紅海という空間にドップリと浸かってきた。

Red Sea Jazz Festivalという真夏の夜に星空と紅海に囲まれてジャズを聴くというイベントは今年で24年目、昨年からは我らがAvishai Cohenがアーティスト・ディレクターで、すなわち彼推薦のアーティストが世界中から集まるジャズ・フェスティバルになったことで、僕らは「行ってみようか」という大きなきっかけになった。

僕等家族は「根っからのジャズ好き」というわけではない。アビシャイ・コーヘンが好きで、彼の周りにいるイスラエル人アーティストをこの一年追っていたら、結構知り合いのアーティストが増えて、そんな彼等も演奏者にリストアップされるフェスティバルは何だか楽しそうだから行ってみよう!ということになった。毎日7時からの前座を務めた少年達の中にも、我が家のすぐ近くの路上で何度か演奏する姿を見つけていた高校生ジャズバンドが出演していて、僕等は「保護者同然」で演奏を聴くことにもなった。イスラエルのジャズは若くてフレッシュで、それだからこそ熱い!そこにはブランデーもタバコも(いわゆる僕が勝手に抱いているジャズに付随するそういうものが)ないのだ。

6歳の娘も「あ~楽しかったな~」と何度も言うほど、眠くなったら気持ちの音楽を聴きながら寝入り、「ねえ、ギルアドってカッコいいね」というアーティストに翌日直接話しかけたり、気に入ったアーティストの写真を撮ったり、大いに楽しんでいた。そういう、公園に出かけるような気分で毎日遊びにいけるジャズフェスだった。

さて、フリーチケットを手にあっちこっちと聴きに言ったけど、ウァオ!!!!としびれたアーティストは2人(組)。

一人目は6月に初めて本格ライブを見て心を打たれたOmri Mor。まだ26歳の若い若いピアニストだけど、北アフリカのサウンドとジャズをミックスした新しい音は、体の心にまで届いてしばらくしびれちゃうくらいの感動です、あ~また聴きたい!と二日連続で足を運んでしまったアーティスト。地元メディアでも今年のフェスティバルのスポットライト!とものすごく高い評価を受けて、これからも大いに期待のピアニスト!
今回のライブからではないけれどもちょいとおすそ分け、これを生で聴くのは最高です↓



二組目はイタリアからやってきたMusica Nudaというウッドベースとボーカルというデュオ、なのにミュージカルのようなトータルパフォーマンス!とにかく、この名前を聞いたら絶対お勧めです!!!!!!!


ジャズフェスティバルの会場である紅海まではここから車で5時間以上かかるので、途中の砂漠で家族三人テントで一泊したのだけど、ダッチオーブンでつくった鶏、コーヒーそして星空とこちらも最高でした!

最高の夏休みを過ごして、我が家の娘は明日から一年生!イェイ!

にっくきアラインも今では

夕方ミミから「明日の夜我が家に来ない?」と電話が入る。
このアパートの管理者である弁護士のアライン、また奥さんのミミから電話が鳴ると一瞬ドキリとする。だいたいは「パリからオーナーが来ていて、部屋を見に行きたいらしいけどいつがいい?」といった住人にはプレッシャーであることがほとんどだからだ。大慌てで大掃除をしなければならないのだ。壁は丁寧に真っ白なのでちょっとした汚れや傷が目立つので、どうしよう、ああしよう、とアタフタする。でもその時は違った。シャブオットという、乳製品を食べるお祭(正確には収穫祭や初果実の祭といったいろいろな名前がちゃんとある)なので、家にご招待してくれるというのだ。

我が家イスラエルに到着してかれこれ二年、すっかりとお気に入りのこのアパートに入居できるまでの始めの二ヶ月間はそりゃもう悪戦苦闘だった。弁護士のアラインという名前も口にしたくない、顔も見たくない、にっくきアラインめ!とまで腹を立て、一度交渉が決裂したのだが、二週間後に奇跡的に復活して最後には歓喜の握手で契約に至ったのだ。その弁護士アラインとは今や会うたびに僕のことを「息子よ!」とギュッと抱擁し、電話では「船長、海は元気か?俺の娘達によろしく伝えてくれよ」を忘れず、昨秋には娘ヒラの結婚式に家族で出席し、アラインの緩む涙腺を目の当たりにしてこちらがジーンときてしまったこともあった。

いつもは彼の弁護士事務所で会っていたので、自宅を訪れるのは初めて。テルアビブ北部の車で5分位の所の一軒家が立ち並ぶ閑静な住宅地。このあたりのゴチャゴチャと集合住宅が立ち並ぶうるささは全くなく、裏庭も芝生がきれいにかりとられて「わお~」の連続。

そこで、アライン、ミミ、息子のオムリ、そして5ヶ月前にフランスから移住したばかりというファビと我が家でミミ特性の乳製品をモリモリ食べた。ちなみに、アライン自身も26歳の時にパリからイスラエルに移住している。なので、彼のヘブライ語はフランス語の響きが混じっている。日本ファミリーとフランス+イスラエルファミリーでの食卓だった。

食事の途中でひょんなことから政治的な話に火がついてアライン、ミミ、息子と家族三人がまったく別の意見で大衝突、ヘブライ語勉強中のファビは「僕は言葉が分からない」と完全に傍観。僕はそれこそ微妙な立場なので、「新たな視点の提供係」を意識するも、何だかそれぞれ言いたいことを言うだけで生産性のない議論になるので、途中から聞き役に徹する。最後はみんな疲れきって自然消滅して、気がつけば11時を過ぎ海は寝てしまい、何だか僕も議論を聞いていただけで疲れきって、帰路につくことにする。

イランへの脅威、アラブへの不信感、犠牲者意識といった、最近の情勢を反映したこの三つの柱が大衆感覚を支えているのだということを帰りの車の中で一人振り返りながら実感する。

それ以上に、イスラエルに来て二年、あのアラインと家族ぐるみでお付き合いなんてあの時は想像もできなかったな、としみじみと思いながら夜のテルアビブの夜行の中を車を走らせた。

スタートへのゴール!

久しぶりの更新でかなり長いです。
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やった~~~!
ゴールまでたどり着けるだろうか、足が動かなくなるといわれている35キロから先のために体力を蓄えておこう、とジッとジッと我慢しながら、4時間17分間走り続け、ゴールのラインを踏んだ瞬間、何故か両手が上がってしまい、残りの体力がドファ~~と真っ青の空に弾け散っていった。

2010年5月14日。僕は生まれて初めてフルマラソンを走った。走りきった。
2月中ごろ、「テルアビブマラソン5月14日に延期」との新聞記事を見た瞬間に、「走ることになる」と直感。当初3月24日に予定されていた二年連続の大会は(僕はそれまで今年もこの大会が開催される事を知らなかった)、イスラエルの盆と正月が重なるような大型連休直前の大規模交通規制が難しいという理由で延期された。大型連休は突然やってくるのではなく、きちんとカレンダーでも手帳でも見ればしっかりと書いてあるのだが、目の前に近づいてこないとそれが実感できないのだ。それでも、バタバタと、ギャーギャーと外野も内野も騒ぎに騒ぎながら、最終的には何とか形にして、すべてが「成功裏に終わる」のである、正確には「成功裏に終わらせる」のだ、ここでは。日本で5月(さつき)は走るのに快適だけれども、地中海沿いとなれば5月ともなるとしっかりと初夏とも言える暑さ到来の頃なので、「マラソンには暑すぎ」「マラソンの調整は半年以上前から照準を合わせるのだから、急に暑い時期に変更されても困る」とランナーからの最もな不満が溢れている、という大会主催者の市役所への批判的な記事を見ながらも、「走ることになる」という僕の直感は全く変わらなかった。こういう直感にはもう従うしかないのだ。

「僕はフルマラソンを走ることになる」という確信を抱えながら帰宅し、「フルマラソンがあるんだって、テルアビブで三ヵ月後に、やってみようと思うんだけど」と船長に言うと、何の迷いもなく「うん、いいと思う」と直球が返ってくる、足並みはバッチリである。最後に、フルマラソン経験がある大学野球部の友人に三ヶ月くらいの準備で臨むのが「現実的」なのか聞いてみる。「練習は一回の中身が大切。やるっきゃないでしょ!」と客観的なサポートを得る。「よし、走ろう!」と一気に決まるものの、何といってもフルマラソンである。家族三人の中で「やってみよう」と一人決断してできる話ではない。三ヶ月間、きちんとしかるべきトレーニングを積み、しかるべき食事をとらなければ成し遂げられるものではない。それに、三人の生活のリズムだって多少なりとも変わるのだ。実際、海が「ね~あそぼ~」と言うのに「ゴメンよ、今日は走るから」と断らなければならない場面が何度もあった。

6歳になった娘の海には、走った時間を記録する「マラソンカレンダー」を管理する係りを任せた。とにかく4時間以上という想像を絶する長時間を走るので、長時間走ることに慣れようということで時間走を基本とした練習になった。走った時間の10分ごとに海が好きな印で記入するということにして、オリジナルのカレンダーを作った。1日に40分走ると、1日の欄に花が4個並ぶという具合に、徐々に花やハートが増えていった。船長は「栄養と食事」を担当。練習後、どんなタイミングで何を食べればよいのか、足の筋肉を作るためにはどのタイミングで何を食べればよいか等を細かく指導。ご飯と味噌汁はシンプルながら欠かせない栄養源となることをトレーニングをしながら再認識すると食卓も変わり、フルマラソン挑戦は家族プロジェクトになった。

あまり激しい練習は体に堪えるし、痛みが出たら続けられないので、無理のない週三回というペースで、徐々に時間を延ばして最終的には3時間30キロくらいを走れるようにして本番に臨むという大まかなプランを作った。20代のときのようにガツガツと体にムチを打つような練習ではなく、長い時間に耐えられる体をゆっくりとつくっていくというイメージで、走りも基本はジョギングのペース以上は走らず、とにかく時間を延ばしていく、そして、走った後の柔軟とクールダウンを入念にじっくりとこなし、ゆっくりと休むこともトレーニングの一環と大事にした。寝る前には船長とストレッチをすることで、走らない日も筋肉がゆったりと力を蓄えながら大きくなっていくような実感をしながら睡眠に着くことにした。

体はイメージどおりに長い時間に耐えられるようになり、恐れていた腰痛や膝下痛もなく一ヶ月に迫った。そして、30キロ走を一週間に2度こなした後から、腰からすねの辺りに変なひっかかりが残り、その後の練習に向かうものの、走れないという状況に陥った。野球をやっている頃から疲れが溜まると痛くなっていた箇所なので「あ、こいつか」と何となく懐かしい気もしたのだが、時間がたってもなかなか痛みが取れずにだんだん焦りが湧く中で、刻一刻とスタートまでの時間が短くなっていった。一週間前になってようやく軽く5キロを走ったものの、何だか怪しいなという足の状態は結局当日の朝まで完全復帰にはならなかった。

フルマラソンは足だけではなく全身運動なので栄養摂取も命。船長栄養士に従い三日前からはパスタ、ご飯、お餅(まあ姉さんありがとう!)のオンパレードで体内に炭水化物を徐々に溜めていく。炭水化物は体に溜まっていくな~という実感がものすごく湧く(少なくとも僕の場合)。二日前に食べたお餅の手ごたえ(腹ごたえ)がよかったので、当日は餅で行くぞ!と決めた。

そしていよいよ当日の朝、5時45分スタートなので、朝2時半に起床。そして、お餅をゆでて黄な粉にまぶして三個食べる。船長が「ご飯も食べた方がいいと思う」と言うので、ご飯一杯分をノリの佃煮と一緒に食べる。お腹はいい感じで準備オッケイ。ゼッケンをつけたり、ポカリスエットを作ったりして、船長の声援を受けて4時半に家を出る。タクシーに乗ろうと大通りに向かっていくと、出会ったばかりのカップルだろうか、別れを惜しんで抱き合っている男女が目に入る。週末の夜中のテルアビブだな~と実感。でも、いつも見慣れた街が、別の世界に遠ざかっていくような気分でタクシーに乗りながら会場に向かう、僕は今からこの街を走るんだ。給水所に大量のペットボトルが詰まれたダンボールと、ボランティアであろう集合したばかりのスタッフが目に入り気分は一気に盛り上がり会場に到着した。

二日前の記事によれば、フルマラソン参加者は550名(最終的には470名。他にハーフと10キロがあり、全部で約一万人)。とにかくゴールにたどり着くことだけが目標なので、足が痛くならないことを祈りつつ、自分のペースで走り始める。550人くらいだとドサドサとうるさくもなく、自分のペースを保つことができ、イメージどおりにスタートを切れたことで一安心、足の痛みも「痛い」というよりは「違和感」位で留まっていてくれている。今回のコースで最も面白みのない長い10キロの幹線道路の往復をイメージどおりに終え、徐々に南下しながら市内に向かう。15キロ地点付近で船長と海が目に入る、足を心配していた船長に大丈夫という表情を見せようとする直前、「これ捨てないでって、海が」とスペシャルドリンクが入ったペットボトルを手に渡してくれる。スペシャルドリンクは待っていたので嬉しかったが、それが入ったペットボトルを「捨てないで~」というあまりに日常的な海の要求に「え~、こんな時に限ってそんなお願いかよ~そりゃ無理だよ~」と言うサインを出そうと僕は思いっきり顔をしかめる。しかし、僕の表情を見た船長は「ダメかも」と僕の体調悪しのサインと受け取り、その後ずっと心配することになった。僕の足の方はと言えば、8キロ地点辺りから徐々に変な痛みをあらわし始めていたのだが、痛みの程度は変わらずにずっと同じ痛みだったので、これくらいだったら大丈夫かもという範囲で止まっていた。

マラソンの応援というのはホンの一瞬だ。ペットボトルを手にした瞬間から船長も海もドンドンと背中に遠のいていく。スペシャルドリンクを口にし、その瞬間フッと「持っては走れないので、ここに置いて船長に取りに来てもらおう」と路肩にペットボトルを置いて「お~~」と船長に向かって声を発した。走っているときに「せんちょー」と発するのは結構なエネルギーがいるのだ、自然な体の動きに任せて出せた動物のような「うめき声」を船長が聞き取ったかどうかの確認はできないまま、40分後くらいには戻ってくるのでその時までに見つけてくれるであろうと期待して、ひたすらと南に向かって僕は走り続けた。

正面からは時間差でスタートしたハーフの一群が結構な勢いで向かってくる。暑くなるといわれている地中海の5月半ばのフルマラソンということで、出場選手は昨年の半分位で少数派なのだ。僕は、逆流に立ち向かうように、一人黙々と走った。前方には20メートル先に一人見えるだけで、さらにその先20メートル、とフルマラソンの選手はその時点ですでに散らばっている。

バウハウスが建ち並ぶ世界遺産「ホワイトシティ」のど真ん中でもあるロスチャイルド通りを進み、一つの目標地点である折り返しとなっている20キロ地点を通過し、今度は北上に戻っていく。「フルマラソン半分地点」というポイントを通過しながら、「よし半分」と自分に言い聞かせる。足は何とか、体調の方は元気だ。ちなみに、テルアビブ市内でも結構な繁華街であるロスチャイルド通りであるが、朝8時前のしかも半分週末の金曜日とあって、沿道に応援などというものも存在しない。このマラソン大会には「沿道の応援」というものがないので、ランナーはひたすら自分と共に走るのだ。カフェのテラスに座って新聞を読む中年の人たちも、目の前を横切るランナーよりも、読み物がドッサリと詰まった新聞の週末版をのんびりと読んでいる。その中を僕はもくもくと走る。

街中を抜けて海沿いに出ると、ハーフの一群はすでに過ぎ去り、パラパラと走るフルマラソンランナーの背中だけが目の前の数百メートルに続いている。550人で2時間以上走っていると、前を走る人の背中は覚えられるものだ。高校生が借り出されているのだろう、沿道に腰をかけている交通整理の若者は直接顔を照らす太陽を左手で眩しそうにさえぎりながら、退屈そうに僕らを眺めている。ホームレスは路上に捨てられた大量のペットボトルを大きなワゴンで拾い集めている。回収すれば4本で1シェケル(25円)で換金できるのだ。僕は徐々に近づく25キロ地点に向かって足を動かす。

船長と海がいた場所に戻ってきた。辺りを見渡すも彼女達の姿はない。が、「!」置いておいたペットボトルがそのままではないか!濃い黄色のスペシャルドリンクがピカピカ輝きながら半分くらい残っている。そのボトルの前をこれまで何千人の人たちが通過したのだろうかと想像すると、その濃い黄色はスペシャルドリンクだろうか?と一瞬ためらったが、僕はそれを手に取り口にした。スペシャルドリンクだ!
コースはさらに海に近づきテルアビブ・ポートと呼ばれる、最近ではすっかりお洒落な空間となった場所に突入、そこから26、27キロと自分の知っている最長距離に近づいていく。目の前の背中の数も大きさも変わらずまま、ひたすら足を動かす。僕ら数百人のために道路はしっかりと規制されている。ありがたいことである。

りんごを一かけ口にしながらポートを抜けると、いよいよ今回の「勝負どころ」の海沿いの10キロ往復に入る。27キロから37キロ間は、テルアビブ市最北部の海沿いを太陽に照らされ海風を浴びながら2キロ半、さらに少し内陸に入り、道路だけで住居や店といった生活観が全くなく防風林の間の乾いた道を2キロ半というコース。フルマラソンで、一流選手でさえも厳しいと言われる33キロから35キロ地点が、そんな厳しい条件なので、前日までのイメージトレーニングでは「あ~きつそうだな~」と太陽の暑さと動かなくなるであろう足を想像していたその空間にいよいよ突入した。

「捨てないで」という海の声がどうしても離れずに、空っぽになったベットボトルをお守り代わりと思って握りながら距離を伸ばしていたが、さすがに28キロ辺りで耐え切れなくなり、沿道で退屈そうにしていたスタッフのお兄さんに手渡す。もし僕がお兄さんだったら、そんな風になにやら絵が描かれたペットボトルを無言で手渡されたら結構困るだろうな、と渡した後に気がつきながらも、勝負どころで手に何かを持って走る余裕などないのでしょうがない、と後のことはお兄さんに任せて、僕は自分の走りに集中する。

左手に見える海はきれいなのだが、きれいだとか、走るのを止めて海に入りたいとか、泳いでいる人を見て羨ましいな~とか、不思議な事に、目の前に海があるということにふさわしい感情というものは全く湧かず、ひたすら足を前に進め、目の前の数字が増えていくことだけを考える、29キロあたりから内陸に入り防風林に挟まれ直射日光に照らされた直線道路を再び北上すると、その道路に存在するのは走っている人間だけで、「ガマン」という文字がピッタリの空間に突入したような、ものすごく引き締まった気持ちになる。上からは太陽がギラギラ照らしている。30キロ、31キロ、という数字を通り過ぎながら、段々と進んでいるんだということを全身で感じる。そして「ガマン」道路の折り返し地点で給水、気温25度を越えた中ではとにかく給水が大切、と言い聞かせてすべての給水を満遍なく取る。そして南に向かって足を進めていく、まだしっかりと足は動く。

途中、過呼吸で泣いている女性とその両肩を支えている男性を通り過ぎるが、とにかく今日は自分がゴールに向かうだけだと申し訳ないなと思いながらも振り返らずに先に進む。32キロ、残り10キロ、イメージどおりの体力がしっかりと残っていることを体で確認しながら通過。時々、僕とは逆に北上しているランナーとすれ違う際に笑顔を交わしたり、親指を立てあったりしながら、きっとつらいであろう「同志」と励ましあう。33キロ、残り一桁、体はスタート時と変わらずに自分のペースをひたすら刻んでいる。

そして「ガマンの道」をようやく抜けて、海沿いの道に向かう時、目の前に濃い青の海がパ~っと広がってきて思わず心の中で「ブラボ~」と叫んでしまう。34キロ手前のこの辺りで、海がきれいだと思えたらゴールにいけるエネルギーは残っているのかもしれないとイメージしていたので、想像以上に濃くキラキラとした海が飛び込んできて随分と勇気が湧く。が、35キロの壁、35キロを過ぎると突然足が動かなくなるという未知の怖さがあったので、落ち着かせて自分のペースを保ちつつひたすら前へ前へと足を動かす。手を振る力もまだしっかりと残っている。

途中、棄権する選手を複数横に見ながら、右手の海が徐々に遠ざかりながら「勝負どころ」の10キロは終わりに近づいていき、いよいよ残りの5キロとなるハヤルコン・パーク内へ突入する。

こんなのありかよ!という位に急斜面の橋を二箇所続けて渡って、芝生の続く公園内を走る。そんな急斜面の橋も普通に越えられたあたりから、はじめて「いけるかも」という前向きな気持ちが出てくるも、まだ5キロ、何があるか分からない、と「テルアビブ・ジョギング・クラブ」が配っていたオレンジをかじり、座り込んだ高校生スタッフに見守られながら公園の内部の方に向けて冷静にリズムに合わせて足を動かす。

そこからはひたすら直線で二キロ程が続く公園道、前からはすでに随分前にゴールしたと思われるハーフ出場者がスガスガしい格好でズラズラと歩いてきて、「本当によくやってるぞ!」と声援しながら拍手を送ってくれる。大会前日には、マラソン当日が平年以上の暑い日になると伝えられていたし、実際に25度位のいい天気の中でのフルマラソンを走るというのは客観的に見たらそりゃ大変な条件だなと考えると、僕に向かって「よくやってるぞ!」と声援してくれる一人一人の声が本当にありがたく、素直に嬉しいなと思いながら足を進める力にもなっていった。

38キロ。目の前を通り過ぎた自転車の男性が突然「博士!」と声をかけてきた。とっさに左手を挙げる。後ろから戻ってきた男性はイガル。かつて東京で一緒にテレビの仕事をしたジャーナリストだ。「お前が走っているとは知らなかったよ、何キロだ?」僕は一言「42キロ、フル」と応えた。目の前の42キロに向かって走っているのだということを、イガルに伝えようとその一言に込めた。「いい走りだぞ、この条件でいい走りだ。少し伴走するか?」と言ってくれたのだが「いや、大丈夫、あと4キロ」と口にすると「そのまま行けば大丈夫だ、成功を願う」と自転車の音は後ろに遠ざかっていった。

イガルと短い言葉ながら会話を交わすと、体力が一気に減って一瞬呼吸が厳しいなと冷やりとしたので、もう会話はしないようにしようと言い聞かせながら自分の走りを取り戻そうとすると39キロ地点を通過していた。ハーフを終えた選手からの声援はまだ断続的に続いていて、僕だけにかけられているその言葉は本当に一つ一つ体にしみこんでいった。

と、船長と海が目の前に見える。フルマラソンのコースを初めて目にした際に、この辺りからゴールにかけて応援してもらえればかなり力になるな、と思っていたその辺りに、約束をしていたわけではないのに二人で立っている。自然とフォームは自分の理想に近づく。船長が「梅干いる?」と小さな袋を差し出してくれたが、それよりもこの前に進み続けている足を動かす事に専念しようという気持ちを伝えようすると、「いけそう!」と自然と口から飛び出し、その時に初めて実感として「行けるぞ」と体が応えてくれる。

船長と海はそこから自転車で併走してくれる。すぐに40キロ地点、目の前にいた二人を越す足は多少重いものの、イメージどおりのリズムが続いている。後ろから「博士はやいね、博士すごいね」と言っている海の声が聞こえる。きっと40キロ以上なんて、もう意識もうろうでヘロヘロどころかベロベロなんじゃないかと想像していたので、そんな「勇姿」を娘に見せられてよかったな~と急に父親の気分になる。

41キロ、先週家族でゴール地点と集合場所を見てみようと散歩に着た場所だ。一人じゃ行けない、と海がなかなか足が前に行かなかった遊具が左手に広がる。「あ、ここ来たね」と娘の声が聞こえる。そうだ、ここを三人で散歩したっけ。そこを今、僕は走っている。そして、船長と娘が後ろから自転車で後押ししているのだ、今は。途中、船長が写真を撮ろうと先に進みレンズを向ける、僕はできるだけいいフォームをイメージ、そして自転車の後部に座っていた海の手に「タッチ」。

ゴールが左手に見えるようになり、42キロ地点を通過、そこから、陸上競技場の周回のようにグルリと公園を回りながらゴールに向かう。スパートのようなギアチェンジができそうな感じもしつつも、呼吸がちょっと不安だったし、とにかくゴールゴール、と言い聞かせながら、同じペースを保って足を前に進める。二人の選手を抜いて、ドンドンとゴールが見えてくる。残り100メートル、自転車進入禁止となり船長と海は警備員にゴールまでのレーンの侵入を阻止されるのが見えて僕は一人でゴールに向かう、がこのまま一人でゴールは寂しいなと思って後ろを振り向くと、船長が走ってくるのが見える。僕は右手を漕ぐようにして船長がゴール地点の前まで行き、僕の姿を正面から見れる場所に立った瞬間、船長に見守られ、両手を広げてゴール!ついにフルマラソンを走りきった!

家族プロジェクトは大成功!船長と海からは手作りの大きなメダルを首にかけてもらい、さらにイェーイ!
恐れていた暑さと足の痛さにやられる事も、「もう走れない」と思うようなつらい壁もなく無事にゴールにたどり着けた事だけで本当に嬉しかった。走り終わった直後よりも、しばらく経ってから何度も船長と「走ったな~」「やったね~」と言いながら、徐々にフルマラソンを走ったんだなという実感が湧いてくる。船長、海、ありがとう!

帰宅してすぐ「遊ぼう」という海。「いや~走って足が痛いから遊べない」と言うと、娘は「じゃあ何で走るの?」。走りたいから走るんだよ、何故かは分からないけど。
体をじっくり休ませたら、今度はサブ4を目指して、また家族で新たなスタートを切りたいと思う。フルマラソン、しばらく我が家の家族プロジェクトになりそうである。船長、海、またスタート地点を目指そう!

もう一度日本文理!

8対2になった頃にさすがに出勤しなければという時間になって、「あ~もうだめだな」と下向きながら自転車をこいだ。

職場についてパソコン上げて、最初のページで「日本文理脅威の粘り」を目にして、あわてて船長に電話すると「すごいよ、すごい、ほんとすごい」と興奮していて言葉という言葉が全てスゴイになっている。

2アウトランナーなし、ツーストライク、6点差、そこから一点ずつ積み重ねた5点。そんな流れを見ていればそれは興奮しちゃうはずだ。

新潟県勢のチームで全国レベルで戦った、しかもそんな「脅威の粘り」で最後まで諦めずに戦い抜いた文理の選手を思うとじわじわと熱くなってくる。そしてもうこのチームでできないんだな、と思いながら涙したキャプテンのコメントを読みながら、自分のことを思い出してさらに熱くなる。

きっと新潟県の視聴率はものすごかったと思うけど、我が家もテルアビブでしっかり応援。ネット時代にも感謝。素晴らしいものを見ることができて本当によかった、ありがとう文理!

日本文理!

新潟県で高校球児だった者としては何とも嬉しいニュースだ。本当に信じられないくらいの出来事。

日本文理高校決勝進出。船長と二人、朝5時におきてABC放送のネット生中継で準決勝を観戦したが、伸び伸びしている姿を見て本当に胸が熱くなった。

新潟の高校野球は全国でもおそらく最もレベルが低く、いつも初戦敗退、よくて二回戦。とにかく全国レベルというものから大きく離れている、ということを現役中もその後も感じていたので、まさか決勝に進むとは、全く想像を大きく越えている。

もう20年以上前のことだけれども、僕が高校一年の時の対戦相手がまさに日本文理で、当時、吉田篤史という投手(その後全日本、ロッテで先発投手として活躍)を擁してそれなりに注目されていたものの、投手以外は大したことなかったし(でもそこに負けた)、雨の試合とはいえ応援席にはだれもいなかったことをよく覚えている。

そのチームがいまや甲子園の応援席を埋めているのだから、テルアビブなんかにいても興奮しないわけにはいかない。

おなじあの空の下で練習して、同じグラウンドで戦い抜いてきた選手達が、今甲子園の大舞台の頂点に立とうとしている。どれだけ時間がたっても、どれだけ遠くにいても、選手の姿を見るとグッと熱くならざるをえない。

暑い夏の熱い余韻

昨夜の熱い余韻がまだ全身を覆っている。
かなり楽しみにしていたAvishai Cohenのライブ。
どんな言葉を選んでも、あのライブのすごさをうまく言い表せないな、でも、とにかく、本当に、ほんとうにあの空間にいることができて、あの時間を共有できたことはこれからの宝だよ、そんなやりとりを繰り返しながら、船長と僕は全身がまだしっかり覚えているあのライブを思い出しながら語り続け、その余韻を楽しんでいる。

僕と船長はニュー・アルバムを随分聞き込んで、先週ラジオで行われたミニライブもしっかり聞き込んで、かなり耳を鳴らして気分を高めて足を運んだのだが、帰りの道中はフワフワした自分の足ではないような、言葉も出てこないようなそんな「シビレ」がしばらく続いていた。行く前のウキウキ気分など、もうず~っと遥かに飛び越えた、なんだかよく分からないがとにかく圧倒されていた。実際横に座っていた船長は興奮を通り過ぎて、大丈夫か?と思うくらいそこにいるのに意識はどこかにいってしまっていた。

ニューアルバムAuroraの公式サイトはこちら(一曲だけビデオあり)

僕がAvishai Cohenの名前を聞いたのは以前留学していた頃のことで、その当時ボストンに留学していた大学野球のチームメート(今はベルリン)が「イスラエルといえばAvishai Cohenというのがいていいよ」と教えてくれたのだった。その当時はチック・コリアのトリオとしてのアルバムが出ていて、ちょうどその友人をボストンに訪れた時にそのCDを手に入れたのが僕の初のAvishai Cohenだった。その後、さいたま市の小さな図書分室でたまたま船長が「Colors」というソロアルバムを見つけて「お、かっこいい!」と思った、というのが昨年5月に赴任するまでの我が家のAvishai Cohen歴だった。

赴任してこちらで生活をするようになって、ラジオでAvishai Cohenの曲を結構耳にするようになって、イスラエルでも随分名が知られるようになったんだな、と思った。というのは、2003年にイスラエルのかなり著名なテレビ関係者達にAvishai Cohenの名前を言ってもだれも知らなかったことを今でも鮮明に覚えているからだ。Avishaiがイスラエルに帰ってきた最近5年くらいで一気に「ホーム」イスラエルでファンを広げたんだろう。でも、僕は正直なところ、ラジオから流れるAvishai Cohenの歌を初めて聞いた昨年の夏頃は、「フツーの歌」にしか聞こえず、「あちゃちゃ色気づいて余計なことをして」という印象が強かった。

でも、11月、そして昨日とライブにいった今では、もう絶対にあの歌声がないと今のAvishai Cohenの作品は考えられなくなった。あの何ともいえない、かすれ声のようなのに調和している声、そしてそんな声が奏でる「ラララ」に虜になっている。Avishaiの声による歌がなければもう絶対に成り立たず、彼のベースも絶対に不可欠で、そして、Avishaiを挟んで横一列に並ぶピアノ、コーラス、パーカッション、そして今回はウードのメンバといったメンバーが絶対不可欠。ステージに出てきた時から、一緒に新しく楽しいことやろうぜ!と集まった仲間なのかもな~と思ったけど、まだ若いメンバーが、新しいこと、楽しいこと、を求めて作り出しているというものすごい新鮮なエネルギーがとにかくよかった。実際にはそんなにウキウキとした気分だけで曲作り、ステージ作りがされるわけなどなく、文章を書く時のように生みの苦しみをしながらの辛い作業の成果が僕らの目の前にはあったのだろうけど、おそらく僕らを圧倒したのは、そんな生みの苦しみによる達成感ではなく、そんな苦しみはまるで過去であるかのように、もう次を見据えている、次を見つけたくてウズウズしている、そんな想像を絶する前進するエネルギーなんだろうと思う。

アンコールの一曲目、Avishaiが一人で出てきて、さらっとピアノの前に座っていとも楽しそうに弾き語りをした姿に、彼の器のでかさを感じて僕のAvishai Cohenに対するファン度は一気に高まった。惚れたといってもいいくらいの感情だった。しびれたのは僕ら夫婦だけではなく会場全体で、もう、ものすごい興奮で、三回もアンコールして、それでもAvishai達は全部歌ってくれた。総立ちで割れんばかりの拍手のアンコールをして、登場するとスッと座って曲に耳を傾け、曲が終わるとまた総立ちで拍手と歓声、最後はだれからというでもなく観客が踊りだし、、、あ~もう書いているだけで熱くなってくる、しばらくないであろうテルアビブ公演にかけたからこそあったであろう情熱、またシビレてきた。

地中海と夕日

刺青エッセーを書いた大手日刊紙の編集長より「週末家に来ないか」と連絡を受けたので、テルアビブから北に向けて30分ほど車を走らせた。金曜日、それも午後になると完全にお休みモードなのでいつもプップカ、セカセカの道路も快適な空間が続く。

テルアビブ市内を過ぎると空き地とベッドタウンとが交互にやってきて、最も海よりを南北を走る道路が本当にもうこれ以上海に近づけないというくらいの場所に差し掛かったところで、フリーハイウェイを降り西へ。目の前は海一面。テルアビブ市内の海はテトラポットがあって、完全に視界が開けるという場所が限られているけど、今日目にしたそれは正真正銘の海一面。

編集長の家、と言っても「週末だけなんだ」という言わば別荘のようなものだけど、芝がきれいで、窓からはまるで飾った絵のように海が広がっていて本当にきれいできれいですっかりと羽を伸ばした。
彼とは僕が日本にいた時に何度かテレビの仕事をしたのだけど、のんびりと話したことは実はあまりなかったので、芝に寝転んでレモネード飲みながらのんびり話すなんて今回が初めて。我が家の海も家に入るなり、広い庭と目の前の海に興奮したのか大はしゃぎで時間がたつのを忘れた。

夕陽の時間となり、散歩して海に近づくと、ちょっとスノッブな雰囲気のテルアビブとは違った、庶民的な海の光景がそこにあり、そこでものんびりした。
「ここだとアジア人ってやっぱり珍しいんだと思う。テルアビブではそんなことないけど、今日は8割方私をジロジロ見ていた」と船長、車で30分とは言え、それくらい大きな違いがあった。

夕陽は絶景!
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最近のイスラエル社会について編集長との話も盛り上がる!「おそらく、普通の国だったら、新聞記者は、あ~これ書いたら批判を浴びるかも、とびくびくすると思うけど、ここイスラエルは全く逆だね。例えば、英語教育の開始年齢は早いがいいか遅いがいいかという議論があった場合、担当大臣は、子どもの将来を考えるのでも、親の目を気にするのでもなく、どっちの方がメディアの反発が小さいのかによて決める、と言ってもまあ過言ではないな。メディアの方が強いんだ。最近の首相は過去数代、みんなメディアによって辞任を余儀なくされているし、ここは書く者が怖がらないんだ、自由なんだ」
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ヘブライ語で書いてみた

随分前からある新聞社の友人に頼まれていたヘブライ語でのミニ・エッセーを書きあげた。
僕はヘブライ語の基本をバナナ農園とバーでの会話で自己流で身につけているので、ヘブライ語をきちんと書くことに関しては大きなコンプレックスがある。どれだけ話せても、どれだけ読めても、書くことというのはまったく別の技術が求められるのだが、その技術が身についていないのだ。それでも「何とかヘブライ語で頑張ってみる」と今回こだわったのは、なんとかいけそうな感じがしたのだ、漠然と。

週末に人生初めて自分が書いたヘブライ語と向かい合ってみたのだが、予想以上にスムースに書けたことに自分では驚いた。書く前から頭の中に何を書きたいのかということが明確にあったことば一番の勝因だった。そして、それをできるだけ簡単な表現でSVOの基礎を忘れずにということだけを心がけたのがよかったのだ。これは何語でも共通だと思うけど、とにかく頭の中で書きたいことがものすご~くスッキリしていないと言語化の作業などほとんど不可能に近いと思う。

今回のお題は、テルアビブで目にする漢字の刺青に対する日本人としての率直な感想。そうはいっても、感想だけでは全く面白くもなんともないので、文化的分析というテイストをつけてみた。途中何度も船長と相談して、それをヘブライ語に置き換えるという作業を繰り返した。我ながら結構面白く仕上がった。

母語ではないので、言葉を選ぶということがなく、また感覚的にしっくりするまで推敲を重ねるということも、そのヘブライ語のしっくり具合が身についてないのでできない。とにかく、言いたいことをものすご~く簡単に並べるしかできないのだが、さすがにそのまま新聞に載るのはまずいので、友人に「添削」をお願いした。

かつて人類学概論を教えた時の教え子で、今や友人となったモシェに「ちょっと見てくれないか」と夜メールで送ると、彼は夜中までの仕事を追えた後に見直してくれて翌朝には返信してくれる。すごい!しかも「ヘブライ語らしい!」と一目で気に入った訂正された文章、僕がいいたかったコアはきちんと残し、しかもリズムも、表現もしっかりと残された新たな文章を見て感動した。ネイティブっぽい表現というのはこれはもう本当に書き込まないと身につかないもので、僕などはもうほぼ諦めているんだけど、でもやっぱり最初からこんな風に書いてみたいとつくづく思う。

初めてのヘブライ語エッセーは友人の力をかりながら、かなり満足したものになった。編集長からも「おもしろいぞ!」とお褒めの言葉をもらい、あとは新聞掲載を待つだけ。
最近雑誌記事やエッセーを書いて、何かものすごく身軽な気分!

現在、一度挫折した『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいる。『海辺のカフカ』に比べると落ちるけど、日本語のリズムはやっぱりすごい。

なんとかなった!

ソフトボール試合再開!のニュースが飛び込んできた、といってもふつうの人が読むヘブライ語版新聞では小さな扱いで、むしろ、ソフトボールや野球というものが生活の中に位置づけられているアメリカ出身のイスラエル人が読んでいるJerusalem Postなどの英語版で詳しく出ていた。

さすがに国際試合なわけで、球場管理者、球場がある市、ソフトボール協会とみんなで大慌てで行政処理をすませて何とか試合再開ができるようになった。数日つぶれてしまったので、毎日夜11時過ぎまで、また体外試合をしてはいけない金曜日日没から土曜日日没までのユダヤ教の安息日はさすがに試合を組めないけど、それでも日没ギリギリでスケジュールを再調整して期間中に終わらせるらしい。
それから、どうやら今回の使用禁止令というのは、イスラエルvsメキシコの試合中二回表に市の当局の人がきて初めて問題になったのだそうだが、その試合も同じ場面から再開されるとのこと。

ソフトボール協会のコメントは「ヨーロッパ選手権では何日も雨で延期になった、それと比べれば日程調整は簡単さ!」さすが、その前向きなポジティブさがここで生活していく上ではもう絶対的にかかせない、「何とかなる!」のだ。確かに、ここは4月から10月くらいまでは雨が降らないので、屋外イベントのスケジュールは一度立てればその通りに動くのだ。

「なんとかなる」か?!

「マカビヤ」と呼ばれるユダヤ人のためのオリンピックが月曜日からここテルアビブの郊外を中心に始まっている。
昨年の北京オリンピックでもかろうじてヨットで銅メダル、金メダルはオリンピック史上で一つというスポーツのレベルは今一のこの地において、国際試合を目の当たりに出来る希少な機会マカビヤ。

私がプレーしているソフトボールもイスラエル国内ではほとんど知られることなく、アメリカ出身者と私くらいが熱中しているのだけど、マカビヤとなるとアメリカからもベネズエラからも代表チームが来るので、曲がりなりにも一時的に「国際的」なスポーツになる。

新聞の説明では、WBCでも対戦した米国とベネズエラが対戦!とあったので、「ちょっくら見に行ってみるかな」と思っていた矢先、な、なんと「全日程中止」という衝撃ニュース。

イスラエルで使える球場は二つしかないのだが、そのうちの一つが観客収容手続きをしていなかったために球場の使用が出来ないというのが理由。私がプレーしているのもその球場なのだが、観客ったってスタンドに座れるのは頑張って40人、あとはフェンスの周りから首を伸ばしてみるしかない。それでもまあ万一ファールボールが当たったら、などという場合の責任問題などが生じるので手続きは必要とのこと、まあそうだろう。

同僚に言わせれば「なんとかなるさ」のイスラエル精神を反省するいい機会だよ。確かに日本じゃまずありえないだろうな、こんなこと。でも「なんとかなる」を貫き通して何とかなっちゃうのもここでのこと、各国の代表が来ている国際試合をどうまとめるのか注目しよう。

本日購入したばかりのAvishai Cohenのニューアルバム「AURORA」を聞きながらの更新。
公式サイトはこちら、ジャケットは↓
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先日のNew School立ち上げコンサートで、船長と別のベーシスト(My Spaceで視聴)に一目ぼれして、さっそく昨日彼も含めたトリオのライブにいってきたけど、かっこよさはかなりいいけど「同じ楽器とは思えないくらい音が違う」という感触が耳に残ってしまって、Avishai Cohenのあの音を猛烈に欲したのと、そのニューアルバム引っさげたAvishaiのライブがテルアビブで31日にあるので、もう絶対にそこに行こう、そのためにはその前に耳を鳴らそう!ということで。CD聞きながらこのライブを想像すると、、、もう我慢できないです。

一部はこちらで聴けるようです。→聴いてみる。

アビシャイ・コーヘンにしびれた

ちょっと興奮して眠れないので書く。

アビシャイ・コーヘンを生で聞いた。今回は二度目である。ただ、前回は小さなライブハウスで、歌付だった(彼のファンには驚きかもしれないが、最近彼はイスラエル在住でヘブライ語の歌を歌っている、それが実にいい!)。今回は彼が16の時に知り合ってからその才能に惚れていると言うピアニストと、ベースだけの共演だったので、僕は初めてアビシャイ・コーヘンのすごさに直に触れた。

スローに入り、どんどんと乗ってくると、何だか何かにとりつかれたようになり、ほえはじめた。やっぱりほえるのか!とキースジャレットを想像しながら目が釘付けになった。ベースの早弾きというのは全身運動で、アートと言うかスポーツと言うか、頭から指先までひたすら細かく動き回っている、とにかくすごかった。

今日は彼のコンサートだけではなかったので、聞けたのは一曲だけ。その一曲にかけた集中力とエネルギーのこめ方に感動した。やっぱり生の演奏は文句なしにしびれる。

今日は、ニューヨークのNew Schoolとテルアビブにあるコンサーバトリオン音楽学校が共同プログラムを開始!というイベントで、その新しいプログラムへの寄付という形で僕らはお金を払って、イスラエル国内のみならずNew Schoolで教えている重鎮ジャズプレーヤーの演奏を聴くというもの。

オープニングは、今年のRed Sea Jazz Festivalサイトがかっこいい!ジャズ好きじゃなくても来たくなります、きっと)でも演奏すると言うテルアビブのBig Band。まだ若手の、でも将来のある選ばれた演奏家達の演奏はキリッとよかった。そして、最近ニューヨークからイスラエルに戻ってきたというピアニスト、Alon Yavnai。もっとかっこいいかっこうすればいいのに。世界的なピアニストだということを今日まで知らなかったが、彼のひくpianoは本当に素晴らしかった。これからテルアビブで演奏する時には絶対聴きに行こう。

そして、2時間半後にやっとあらわれたオオトリがアビシャイ・コーヘン。天晴れ!
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