漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

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"ちがい"さがし

娘の本を探しているある日、「ちがいさがし」という言葉にであった。「あ、"まちがい"さがしのことか」と納得するまでにそんなに時間はかからなかったものの、その"ちがい"は考えれば考えるほど奥深い。二枚の絵を見比べて"ちがい"を探すあの遊び。確かにその二枚は"ちがう"のであって、"まちがっている"のではない、言われてみれば当たり前なのだが、目からウロコが落ちるくらいの新鮮さがあった。

私は4歳の頃引っ越しをした。その引っ越した先で遊んでいた同年代の子の輪に入ろう、とかなり勇気を出して「い~れ~て~」と言ったところ、「"かてて"と言わなきゃダメ」と強そうな女の子に一蹴された苦い経験がある。子ども心に「そんなの恥ずかしくって、、、」と結局言えなかったのだが、世の中には場所によって違う言葉やルールがあって、それに従わなければ仲間に入ることができない、ことを初めて体験した瞬間として今でも生々しく記憶している。

文化人類学、異文化理解、などと偉そうな単語を使うまでもなく、自分とはちがうな~と思うことは日々の生活の中で繰り返し体験する。しかし、年齢があがればあがるほど"ちがい"を"まちがい"にスルリと変換して簡単に処理してしまうことが多い気がする。"ちがい"を"まちがい"に変換せずに、"ちがい"を"ちがい"としてそのまま受け入れること、その方が簡単なはずなのに、実際にはエネルギーがいるし、また難しい。

「ちがいさがし」は二枚の絵を比べることで成立する遊び。なら、三枚だったら?と考えたら、「なるほど!」と目の前が明るくなった。二枚だけだと、AはBとちがう、BとAはちがうのだが、三枚だったら、AはBとちがう、Cともちがう、つまり、みんなちがう、のであって"まちがい"にはならない。

ちがうな~、と思う瞬間に、自分と目の前の比較だけではなく、もう一つ三つ目のことを考えれば、"ちがい"は"ちがい"のままで受け入れ安くなるかもしれない。研究で生きる上で三つ目のことを充実させるためには読書、書くのはその次、もっと読まないと。
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COMMENT
なるほど…、そう考えると理系博士はガチガチに正しさを追求する存在なのだと思いました。
科学は記載された材料と実験方法を用いる限りは誰もが同じ結果を得られなければなりません。そうでない場合は『間違い』となります。
異なる立場で作業仮説をたてればお互いに『違う』のではありますが、それは論争を起こし、いずれどちらかが正しく、どちらかが間違っているという決着がつけられるのです。
ですから、三つ目のことというのがないのです。
そうですよね、ここが人文社会科学と基本的にちがうところですね。現在私が足を突っ込んでいる分野は、いかにしてその複数の目に気づいて記述するのか、という研究姿勢に多くの関心が求められているような気がします。

「いろいろあるじゃん」という文化相対主義的な結論に落ちるのではなく、現場と向き合ってどれだけ自分が素直にいられるのか、ということだと私は理解しています。イスラエルという国家の枠組みを対象とすると、簡単に「イスラエルはさ~」とその辺りの素直さに対する注意をすっ飛ばしてしまうのですが、そうした主語を発するまでの過程を丁寧に見ていきたい、というのが目下私が心がけているところです。
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