漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

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通訳者の不安:コリリン監督記事を見て

一昨日、読売新聞「顔」でエラン・コリリン監督のインタビューが掲載されていたのを目にしてホッとした。監督インタビューは私が通訳させていただいたが、実際記事になるまでちょっとした不安、これはいつも経験しながら消えない不安なのだが、今回もあった。

通訳は監督とインタビュアーの中にスポッと入ってしまうので、ある瞬間から自分が発している言葉を客観的に見ることができなくなり、自分の口ながら何か違うものが動かしているような錯覚が続く。少し理想的な、また大げさな表現を使うことが許されるならば、通訳者は監督になり、またインタビュアーにもなる。

インタビューが終わり、その領域から抜け出した瞬間から、監督の言葉と日本語がきちんとつながっていたか、なんだかやけに不安になる。特に、ノリにのって通訳をした後こそその不安が大きい。

「顔」のタイトル「この作品は自分自身」を目にしたとき、「よし!」とこぶしを握った。エラン監督にとっての映画を一言で言い表すならば、「この映画は自分自身」になるからだ。

通訳による不安は、気分よく終えたときこそ大きくなる。エラン監督の言葉の一つ一つは、私の言葉にかなり近かった。通訳をする上でそれ程幸いなことはなく、彼の言葉と自分の言葉が密着していたような感覚は、快感に近いのだが、その分誰にも言えない不安が大きかった。
この度「顔」を読み、自己満足ではない通訳としての仕事をきちんと終えたことを実感し、ようやく不安がとれてすっきりと仕事を終えた気がした。
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