漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

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裸で死ぬ、、、までどんな服を着るか

「人は裸で生まれて、裸で死ぬ、そのことを何故だか忘れてしまうのです」と私がメモをとったのは、きょう、大宮教会で行なわれた特別礼拝で聞いた日野原重明さんの一言だ。

8月にイスラエルから撮影クルーが来るときに、元気な日本の高齢者の代表として是非インタビューをお願いしたい、ならば直談判!と思っていた矢先に通勤途中にポスターを目にして今日の日を楽しみにしていたので、台風も振り切って出かけていった。

周りに座っていた教会員の方のように首を縦に振りながら終始「なるほどね~」とひたすら感動しっぱなし、というわけではなかったものの、一時間の講演の中で何度か訪れた日野原さんの人生経験がぎゅっと詰まった一言は、そのまま手帳に書き留めておきたいな、と思わせてくれた。

「裸で死ぬ」の他には、「苦しみの後に忍耐があり、その後に喜びがある」そして「いのちとは、自分が自分のために使えるその時間のこと」の全部で三つ。特に"いのち"については、「苦しみや争いの中にいて、自分の時間として使えない人たちがいる。そういう人たちは"いのち"が感じられん、ということです」という言葉が今でも頭の中に響いている。

そして自分を振り返った時にいまのこの時を、そしてこれからを見据えて、船長と話をしたり、娘と遊んだり、本を読んだり、そして仕事をしたりできているのは、まさに"いのち"を実感している幸せ者だなぁ、と改めて感謝する。

さて本題、「人は裸で死ぬ」。結局人は裸で死ぬんだから、名誉や私利私欲のために生きても結局はむなしい。ということは、表現の違いこそあれミッション系の高校時代に結構耳にした言葉だった。そう言えば、そう言うことをよく聞いたな、という付箋みたいなメモだったものの、死ぬということへの私と日野原さんの意識的な距離なのか、メモをしながら今日は自分の中に新しい反応があった。

「裸で死ぬ、、、のはそうだけど、今生きているこの瞬間しゅんかんまで裸っちゅうわけにはいかんだろう?」という今の自分からの声だった。正論は時に"いま"を超越する。30代半ばで、社会の中でどんな位置づけができるのかを考えつつ、今まさに家族三人で船出したばかりの私にとって、「裸で死ぬ」ということはずっと先のことで、それよりもどんな服が似合うのか、どんな服で表現したいのか、がやっぱり身近に頭の中を駆け巡っている。

この時代に、この空間に生を受けて、そして世界中の誰とでもないこの家族と時を一緒に過ごす中で、時代、社会、家族、自分の全てと向き合ってしっくりする服を探したり、体にあわせて直したりすることが今の私達には"いきる"ことなんだ、と「死ぬ」ことを考えながら実感した。

「裸で死ぬ」時に、家族と「この服一緒に作ったね、こんな形にこんな色、自分達にしか似合わないよね」と思い出を語り合いながらたためる、そんな服を身につけて生きていきたい、と思う。

講演が終わってすぐに日野原さんに講演の感謝をして握手をしながらインタビューをお願い。生きるためには働かないと。「人はパンのみで生きるのではない」けど、パンがないと生きられない、その目的もしっかり果たして実のある特別礼拝だった。
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