漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

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自分の言葉探しの過程

来週に迫った学会発表のために半年前に仕上げた博士論文と久しぶりに向かい合っている。「出来損ない息子との再会:校正」(参照)でも書いたのだが、しばらく経って自分が以前書いたものを読むのは決して楽しい作業ではない。

口頭発表では論点が多岐にわたり過ぎてはいけない、いろいろ言うと聞き手にうまく伝わらない。それは聞き手としての経験と、基本的に複雑な思考が苦手な私の持論だが、口頭発表はとにかくシンプル一本でいくしかない。博士論文はそのシンプルさに欠けていて、捨て切れなかったものまでてんこ盛りなので、そのなかからシンプルな一本の筋をきれいに紡ぎだす必要がある。

紡ぎだす作業は、いろいろ調べて考えた結果として論文を書いたプロセスの逆戻しではない。そのことを今回は何度も実感しているのだが、おそらく、書き上げた後に新たに読んだり聞いたりして生まれた視点によって紡ぎだしたい視点が論文を書いた時点とで異なっているからだろう。

いろいろ読んだ中でも、久しぶりに読んだ酒井直樹の論述は博士論文の内容をビシッとしめて、来週の発表でも活かしたい視点を投げかけている。酒井氏他三名が編集した『ナショナリティの脱構築』(1996年柏書房)を久しぶりに読んだのだが、10年前には???だったのが!!!に大変身。私は読みながら参考箇所をドンドン打ち込む作業は今でも継続しているのだが、お、これは!と言うところには本に直接鉛筆で☆をつける。☆をつけたい箇所が止まらないのは久しぶりだ。

『無境界の人』『ナショナリズムの克服』等でその異才を知った森巣博氏に私は基本的な路線として非常に共感が持てるのだが、酒井直樹氏を"久しぶりの天才"と言ったような表現で絶賛していた点には全然納得できなかった。振り返れば、単純に酒井氏の主張を理解していなかっただけなのだ。もう一度丁寧に読んで酒井氏の主張を理解すると森巣氏が絶賛することがよ~く分かる。「「われわれ日本人」という強烈な思い込みを持つ人々がしばしば、「外人」恐怖症に悩む外国経験のある人々である」(『ナショナリティの脱構築』;10)という酒井氏の表現は森巣氏もよく繰り返していることだが、国民文化、民族文化をその文化という言葉に秘められた政治的な意味合いに注意しながら丁寧に紐解いている箇所など、手を合わせて読みたいくらいである。

手を合わせて感動しているだけではその感動も伝わらない。その衝撃や感動をきちんと自分の言葉にしなければ発表を通して聞き手に伝わらない。自分の言葉をきちんと見つけるためには、自分の書いた論文と向き合う作業が不可欠だ。他者の言葉と自分の論文(過去の自分の言葉)をぶつけ合わせて、そこに生み出す新たな自分の言葉をキャッチする。そこまでくるとしめたもの、なのだがその完成品に向けてあと一週間、作業は続く。
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COMMENT
私は理系ですが、英文で学術論文を書くようになってから日本文のスタイルが変わってきたように思います。
主語や目的語が何かを明瞭にせねばという意識が常に働きますし、修飾語はなるべく重ねないようにしてどこに配置するのが最も分り易いかと気になってしまうのです。
以前は出だしさえ定まればすらすらと和文を書けた気がするのですが、今はそうは行かない。何かに縛られているような気がします。
学術の世界に生きるとこんな副作用もあるんだなと思ったりするのですが、気のせいでしょうか…。
英文で論文を発表したことはないのですが、大学で訓練された論文の書き方が英文だったので、今もそのスタイルを続けています。最初にズバン!と一球投じて、その後ほぐしていく、そんな感じです。
今は発表の準備ですが、発表はイスラエルで訓練されたスタイルが身についていて、頭の中のイメージも雄弁な彼女ら(同僚で男性一人だったので)ですが、まだまだ程遠いです。
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