漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

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やるだけやった(その2)

(「やるだけやった」(その1)の続きです)

気がつけば周りを走る人たちの数が随分減っている。時計は5分30秒台をキープしているのだが、後ろからも抜かれるし、前のランナーもドンドン遠くなるような、自分のペースが落ちているような感じだ。全体の流れがはやいのかもしれない。雲行きは怪しく、また降りそうだ。

それまで空っぽだった沿道も、21キロ地点には固まった50名くらいの応援がありひさしぶりに引き締まった感触で前を見直すと、船長がいる。作戦通りスペシャルドリンクを口にし、りんごとオレンジと黒砂糖と梅干を手にする。「いいペースだよ!」そう言ってもらってはじめていいペースなんだと自信が足に伝わる。僕も「いける」と応える。フルマラソンで梅干はいいと何度も聞いていたが口にしたのは初めて、確かに「ビシッ」とインパクトを与えて、その後「ジワジワ」と疲れていた体が力を取り戻していく、梅干に秘められた力を感じる。直後のラップは5分19秒、ちょっと上がりすぎだなと抑えるが、いい感じ、快調だ。

その後、30過ぎまでの間、唯一走ったことのない、つらつらと長い区間に入る。クロスカントリーのような軽いのぼりとくだりを二度ほど繰り返す狭いコースを数人が重なって走る。23、24と距離を刻みながら、さっきまで違和感程度だった左足が徐々に重くなり、はねる感覚を失い、「前へ」という気持ちと力がかみ合わなくなる。時計は5分29秒でも体調はそれ程快調でもなく、5分40秒を超えていないものの、もうそれ以上ペースが上がりそうもない体と照らし合わせると、徐々に残りが長いなと感じるようになる。

太陽が眩しくなり、ペースも一キロ5分50秒台に下がり始める。後方から二人の女性が「今どれくらい?」「30秒台かな、もしかしたら27秒台かも」「うっそ~」と元気そうに言葉を交わしながら抜いていく。二人の「ふくらはぎ」は確かに「5分30秒台!」というエネルギーに満ちていて、そのはじけるような動きを見て、初めて他のランナーの体調が羨ましいと感じると、自分のペースが上がらないことが気になり始める。

隣の男性ランナーが突然「俺、吐きたい」と口にして、仲間だろうか別の男性が「ここじゃない、まだ」と声をかける。僕も心の中で「ここじゃない」と繰り返すが、左側にぴたりと並んでいて、嫌だなと思うもののペースが上がらないし、これ以上落としたくないと思うと自然とぴたりと並んでしまう。すぐ後ろを走っている男性二人がずっとしゃべり続けていて、どうも気になって仕方なくなる。走っているのにベラベラとよくしゃべれるな、それにしてもうるさい。

28、29といつもの馴染みの練習コースに入っていくが相変わらず体の切れがない。30キロ地点ではじめて6分台を示す、船長が待っている31キロ地点での気分とエネルギーの挽回を期待しながら歩を進めるがドンドン重くなる。瞬間的に船長に「梅干だけ」と梅干の持つ力に頼る事にする。オレンジやりんごを噛むことでエネルギーを失いたくない、口に含むだけですぐに効果を発揮できるものがいい。梅干を手にして、船長に「きびしい~」と思わず発してしまう。去年はなんともなかった「こんなのありかよ」という急な角度の橋はまさに「ありかよ~」と叫びたい。梅干は酸味さえ残さず、そのまま疲労を打ち破ることなく無情にも消えていった。その後、32、33と一キロを刻む看板が見える感覚も長くなり、「二回目のフルマラソンは70%がゴールにたどり着けないんだって」と言っていたモティの声を思い出す。「コース見たか?32から37までの海沿いの区間がアップダウンもあってつらそうだよな」とも言っていた。その区間は昨年も35キロから37地点で、海の真横のコースを走るので僕は思わず「ブラボー!」と胸で叫んだ場所だ。「眺めがいいから乗り切れるさ」とモティを励ましたが、33から34、そして35と数字が増えるのだけを何とか確認するのが精一杯で、目の前の海を見る余力はなく、重いな、動かないな、と思いながら手と足を動かす。36キロ地点で水が足にかかり、そのしぶきが一瞬だけ足に元気を取り戻したけど、それも本当に一瞬で、37キロ辺りから突然ゴールが遠くなった。

視界が狭くなる。25キロ辺りで脱落したかに見えた男女もヒョイヒョイと復活している、35キロくらいまでは一緒だったポニーテールの40代くらいの女性は、あんなにきつそうだったのにもう前方遥か彼方に消えてしまった。そのうち、後方からマッチョイズムを声にしたような男性達の太い掛け声が近づいてくる。最後の5キロを過ぎたのだ、掛け声張り上げて一気にゴールまで行こうぜ!と心を一つにしたくなるのも分かる。だけど、もうそんな声を出す力も残っていないんだ俺には。と思うと、急にその声が嫌で仕方がなくなり、聞いているだけで苛立ってしょうがなくなる。その声はしばらくして収まると、「4:00」という看板を掲げた「ペースメーカー」とその周りを取り巻く多数の男性の固まりが、「ゴール一直線」というオーラを発しながら勢いよく抜いていく。4時間はもうだめなんだ、と思ってもどうしようもない。男達の固まりがいなくなると、今度は、右前方に、右足と右腕に刺青を入れた男性が目に入るようになった。その「刺青おとこ」も後ろから見て明らかに疲れきっている。なのに、その疲れ切った肌に刺青がピッタリとくっついて前後している。「なんでこんな時に刺青なんかしてるんだよ!」ともうその刺青が嫌で嫌で仕方なくなる。

行きの時には(往路8キロ地点だった)全く感じなかった短いトンネルの緩やかな坂が視界に入る。今の体ではとても坂など受け入れられない、手だけ動かそう。トンネルを越えたところでカメラを構えた「ねえ撮って!」のお姉さんの方から、ものすご~く申し訳なさそうに「がんばって、ください」と「か細い」日本語が聞こえる。そのか弱さが、僕の今の姿なんだなと何度も耳の中をこだまする。

前方には真っ青な地中海、だがそれさえも目に見えない。顔を上げる力もない。船長と最後は40キロかゴール地点と言っていたが、40キロを過ぎても姿が見えず。左右を探すエネルギーも、前に進むことにとっておかなければと前だけを見る。梅干でも口にしたら少しでも回復するかもしれないとささやかな希望があったけど、このまま最後まで行かなければならないんだ。ゴールは遥か遠くのままで、一向に近づいてくれない。下り坂のはずだけど何も変わらない。腕の力もなくなり、左手の時計がずしりと重くなり、外して船長に渡したいと思っても船長が待っているのはゴール地点。でも一度重いと思ったらドンドンと重くなり、耐えられなくなり時計を外して右手に持ち帰る。左手が宙に浮いているようだ。何のために手足を動かしているのか、いつになったら終わるのかも分からなくなり、空っぽの中をひたすら動かし続けるようになる。帽子も重いな。帽子も投げ捨て、右手の時計も、何もかも投げ捨てたくなる。

左右両側には10キロやハーフマラソンを走り終えた人たちが逆方向に歩いている。「よくやってるぞ」「あと少し」と耳に入るが、全く何も感じない。終わって羨ましいとも、さっきまでのイライラもない。前から照りつける太陽のまぶしい。

突然「博士!」と左側から声が聞こえてきた。海の友だちのお父さんのヨアブだ。横に駆け寄ってきて「一緒に走ったら少しは助けになるか」と声をかけてくれる。船長に会うまではまだまだ遠いと思っていたので、知っている人が突然目の前に現れたのは勇気になる。声は出ない。とっさに、外していた時計と帽子を渡し「これが助けになる」と何とか声を出す。「分かった、じゃあ日曜日、学校に持っていくから」と言うとヨアブは後ろに消えていった。

しばらく歩を進めると、また左側から「博士!」と声が聞こえる。シュロミだ。前日も電話で「お互いがんばろうぜ」と話したばかりの友人だ。彼は10キロ。「フルはすげーな」と言っていた彼にこんな姿を見せなければならないのが悔しく「今年はきつい!」とありったけの力で彼の耳に届ける。届いたかどうかは分からないまま、シュロミは後方に消えていく。

もうないと思っていた給水所が右側に見える。恵の水だ。ペットボトルを何とか手にする。でも飲む力がない。手を顔の上まで持ち上げて、顔を上に向ける力がないのだ。手をぬらし、その手で顔を一度ぬぐう、でも体は何も変わらない。もう動くはずのない体が動いている。何のためかも分からずに動いている。

42キロ地点の看板が目に入る。このまま直進するとハーフのゴール、フルマラソンのゴールは右側に折れていく。地中海に向かいそのまま真っ青な海の真横でゴール、何て素晴らしい演出なんだ、と気持ちいいフィニッシュのイメージを思い描いていたけど、もうそんなことはどうでもいい。変わらずに体を前に進ませる。

ゴールゲートの時計の「4時間05分」という数字が見えて、「去年よりも随分早いんだな」と少し嬉しくなったけど、ラストスパートも、去年のように両手を広げることもできずにとにかく動き続けていると、「博士、博士」と船長が左から手を握ってくれて、初めて「あ~終わったんだ」と分かって、そのまま芝の上で両手を広げて体を止めたら「動かさなくてもいい」という安堵感で一杯になった。

(その後30分間の事は後日)
気持ちが落ち着いて、「42.2キロ」証明シールを手にし、メダルを手にして、海がきれいだなと思いながら船長と一緒に歩いていたら、「あ~ゴールしたんだ。止まらずに走りきったんだ」と、空っぽで辛かった長かった時間を思い出し、そして、ゴールして船長と歩いていることの幸福感が足元から全身一杯に伝わってきて、大きな感激に包まれた。4時間は切れなかったけど、去年は味わえなかった大きな感激と、走りきってよかった、という喜びを走り終わって感じられたことがとてもとても嬉しかった。

つらかったけど、目標は達成できなかったけど、今年のマラソンは初めてのマラソンよりも忘れられない走りになった。止まらず、歩かず、やるだけやった、やるだけやれた!船長ありがとう!
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