漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

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映画祭を通じて感じた近さと遠さ

会場を出ようと顔を上げると、トメルが一点を見つめて顔をこわばらせ重い空気を発しているのが視野に入ってしまった。そこまでの距離を越えても落ち込みようはヒシヒシと伝わってきた。

上映は早々に満席で、上映後のQ&Aでは会場との一体感を感じ、時間切れで会場の外に出た後もしばらくその場を離れられなかったくらい大勢の人に囲まれて質問攻めに合って、写真撮って、「今日は言うことも言えたし、やったな!」とツヤッツヤの表情で二度目の上映を大満足で終えたのが昨日、なのだから、落ち込みようは無理もない。

漂流博士一家も「もしかして」と思わず会場に向かったのもその昨日の余韻があったからで、その盛り上がりを真正面で感じていた監督自身がグランプリに自分の作品を呼ばれなかった時の心境など、ほんの数時間通訳を務めただけの私ではうまく表現する言葉を見つけることができない。通訳は他者の言葉があって初めて仕事が成立するということ、そして通訳者と話者とは実は他の誰よりも言葉に依存した関係であることをちょっとした寂しさと同時に感じてしまった。

それでも、昨日のQ&Aは彼の言葉がうまく日本語に乗って会場と交流ができた、と少なくとも日本語担当の私は手ごたえがあった。

ヨレヨレのスウェットに型崩れのスーツに無精ヒゲ=トメル監督だったので、「やあ!」と散髪してヒゲ剃ってTシャツとジーンズで現れた青年がとても同一人物だとは思えず「昼間っからテンションたっかいな~」とちょっと引き気味に目をそらして、それから数秒あって「ああ、元気!」とガッチリ握手。「さて、ここら辺に座ろうか!」と早速打ち合わせに入る。見た目も、発するエネルギーからも火曜日に感じたものとは全く別人だったものの、こちらも前回の反省を胸にいいものを!とかなり具体的な意気込みがあったので、すぐに二人のギアはトップに入った。いい滑り出しだった。

さて、打ち合わせ中に盛り上がりながら会場ではあまり触れられなかったテーマの一つが「インタビュアー"する"人と"される"人の境界」について。

これはイスラエル留学中に文化人類学方法論やエスノグラフィー論でガンガン議論して、私もその哲学的な視点にかなり影響を受けて博士論文にも微力ながら反映させたテーマだったので、トメル監督の口から「メラアイェンとメルウヤン」というインタビュー"する人"と"される人"というヘブライ語が出たときには懐かしさもあってつい食いついてしまった。

「ペーパードールズ」はその境界が徐々に消えていくところをかなり意識的に出している。「撮り始めた頃の俺の馬鹿げた質問なんて顔から火が出るくらい恥ずかしくて出したくなかったんだけど、でも撮り終えた今では自分が「ペーパードールズ」の監督というよりも、一員と言った方が適当だし、自分が彼らと出会うことでかなり価値観の転換やものを見る視点が変わったことが大きな収穫だった、それをしっかり出すには監督として一歩引いて見ていたような自分の姿を外すことはできなかった」とかなり力説して、「それお前何とか言ってよ」と振られるものの、二度目のQ&Aは監督の声を聞くというよりも、もっと会場の質問を聞くのが目標だから、とその場の二人の話に留めることにする。も、やはり監督が来日して直接会える機会を閉じ込めてしまうのはもったいないので、ここに書き残すことに。

30分以上充分な議論をしたことで、トメルと私の間では今日は何を言おうか、というポイントを二人で合意して壇上に向かうことができた。前回と大きく違うのはその準備段階での練り具合だった。少ない質問も膨らませながらポイントを強調することができたのは、頭の中にひかれていた補助線がはっきりしていたからだった。

トメルが話しながら乗っていくのは真横で感じられた。言葉が違っても分かり合えるものは確かにあっても、言葉が違っては分かり合えないものも確かにある。この時は事前に言葉が違っても分かり合えるものを確認していたので、彼の口から出る言葉にすっと自分の言葉を乗っける作業ができた。監督あっての通訳であり、その監督と二人で言葉に共感しながら共通の言葉を紡ぎだす様な仕事ができたことは贅沢な仕事だった。

ちょっとだけ文化人類学。他者のことを調査しようと近づいていくと、トメル監督のような境界越えを経験するときがある。それを経験しながら、"書く者"となると変わらず、しかも文字という限られたメディアの中で、文化人類学者はどうやって他者のことを描くことができるのか?そもそも他者と自己との境界がどこに設定されているのか?境界を設定しているのは実は他者を描こうとしている自己であって、その政治性をどう自覚してどう文字に反映させるのか?これらの問いを維持しつつ論文を書くのはかなりのエネルギーが求められるが、やはりここをきちんと抑えないと学問として残りきれないのではないかと思う。

そんな、トメルと共有できる領域を感じたのもこの映画祭であれば、(少なくとも現時点で自分が置かれている立場での)アカデミックと映画が大きく違うことを感じたのもこの映画祭であった。

「映画はつくる人がいて、そして見る人がいてそこで成立する」が今日の閉会式で印象的な言葉になったのは、私が調査方法だ、文字だ、博士だ、と言っても、不特定多数の「読む人」を想定した覚悟という点では今回の映画祭でノミネートされた監督や制作者と全く比較にならない位に自分は甘く、そこをガツン!と食らわされたような痛みが走ったからだ。不特定多数の読む人を頭に浮かべながら、その一人一人に伝えることの覚悟を持ちたい。

作品は見られる、という覚悟が私に欠けており、その点で映画制作者との間にははっきりと境界がある。これは自分で越えなければならない境界なので、あえて自分で設定してもいいだろう。映画人の一員になることはないだろうけど、作品をつくる、そして上映して、できれば直接フィードバックをもらう、その覚悟と経験をより多くのフィールドの人たちと共有できるような研究者を目指したいと思う。
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