漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

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新潟で「イスラエル」を考える

天気予報は相変わらず曇か傘だが、嬉しいことに今日も「新潟」では太陽を見ることができる。

どれだけ現場に沿った発言ができるのか。これは私の中で常に大きなテーマであり、またここブログという媒体で書く時にも心がけているかなり重要な課題。私は結果的にイスラエルやそこで話されるヘブライ語にかかわる仕事が多くなっているのだが、「イスラエルは...」とイスラエルを単数化、また擬人化した表現はできるはずもない、というある種諦めの大前提に立っている。

しかし、普段新聞を読んだり、本を読んだりしていると「イスラエルは...」という文のなんと多いことか。これは「日本は...」「アメリカは...」という表現も溢れている中で何もイスラエルに限ったことではないのだが、イスラエルは地理的に遠いことも手伝って、現場とは切り離されたところでどんどん再生産される。

5年前に帰国してから、「イスラエルは」と発した瞬間に現場から切り離される文を読んだり、そのような発言を何度も耳にする経験を重ねることで、イスラエルという空間で生きる人々の生活、思想、それこそ人生と、日本における(日本語での)「イスラエル」に関する言説は別のもの、と理解するようになった。実は、その辺りの感情的な違和感は自分でも理解していたものの、そのことはこれまで自分の言葉として頭の中で整理されてはいなかった。この度池内恵『書物の運命』(文藝春秋)を読んで、その違和感を自分の言葉で表現するヒントを得たようなすっきり感があった。

池内氏はアラブ社会を研究対象とする中東研究者で、各紙の書評やコラムで積極的に発言していてそれを見るたびに「おお、すごい!面白い!共感!」と注目していたのだが、ようやく単著を手に取ることができた。同年代ながら、私などとは比較にならない読書量によって積み上げられたであろう、一文一文の中身の濃い文体を読めることはかなり満足度が高い。

同著ではエドワード・サイードが日本の社会科学で無批判に評価されていることへの指摘は新鮮な気分になるが、「「中東問題」は「日本問題」である」は中東地域を専門とする者にはかなり鋭い切り込みで参考になる。「日本の中東・イスラーム言説に制約を課している「業界的」事情を述べるのは陰鬱な気分にさせられるが、誰かが声に出して正しておかなければ状況を変わらない」と筆者が述べ、「しゃべり過ぎた」ことも含めて自由に語っている文章は、私のモヤモヤの違和感に光を当ててくれた。

改めて私の感じている違和感を振り返った。政治家が「イスラエルは...」(また「日本は」でも「アメリカは」でも)と発するのはその業務上理解できることだとしても、ジャーナリストや研究者がそうした国名を単数化したり擬人化したりして発する時には、そこに何かしらの(時に内輪の)政治性が含まれることもありうる、のだと思う。ジャーナリストであっても、研究者であっても、またそうしたプロが現場に行ったとしても、それが現場に沿った発言につながるとは限らない。そのことをこれから自分の問題として、より謙虚に現場を見続け、より冷静に現場に接しなければならない、ということを池内氏の読書を通じて改めて痛感している。
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池内さん
池内さんが何と言っているのか、もう少し説明して欲しいなぁ。
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