漂流博士

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イスラエルでの9.11

今日からブッシュ大統領がイスラエル訪問中だから、と言うわけでは全くなく、先日お会いした方との会話の中で「最近のイスラエル映画の波と9.11後は関係があるのでしょうか?」といった類の質問があり、久しぶりに「2001年9月11日のこと」を思い出したので書いておく。

キューイチイチ、または、セプテンバーイレブン、という表現で切り取られる時間とそれを巡る言説、それはその日に私が経験し、また今でも記憶していることとの間に大きな断絶がある。私は当時イスラエルの大学に留学中で、その時は図書館でレポート準備に追われていたのだが、「ツインタワーが大変」という情報を聞いたその場にいた友人たちとキャンパス内のカフェにある大型テレビで状況を見ようと走っていった。

カフェのテレビの前に押し寄せCNNの中継を見ていた"かなりの人数"が事の次第を物語っていて、今でも私にとってその事実はその"かなりの人数"を後ろから見た映像でファイルされている。その時、私がCNNで見たものは改めてここで書く必要もないが、その時に私が聞いた声はここで書いておくに値するかもしれない。

「これでようやく(ヘブライ語で"ソフソフ")世界がテロというものを理解するだろう」表現の違いはあれ、さまざまな声の中でこのような声は私の耳に飛び込んできた。世界は分かってくれない、という空気はイスラエルに常に漂っていると私は感じるのだが、2001年9月11日のその時だけは「これから世界は分かってくれるかもしれない」という空気に一瞬変わったように感じられた。実際には「やっぱり分かってもらえない」という元の空気に戻ったのだが、私にとってはあの一瞬の空気の変化がとても印象的で、今でもその時のことを話すときにはこの声とそれで私が感じたことを取り上げることにしている。

さて、最初の質問に立ち戻れば、9.11と最近の「イスラエル映画」の波とは関係がない。これは断定してもいいと思うし、全く関係がないと言い切ることもできる。すでにその前年9月以降テロが日常化し、パレスチナでの軍事行動による惨劇が日々報道で伝えられるいわゆる紛争状態にあったイスラエルで、9.11以降何かが劇的に変わったのだろうか?と考えても私にはうまく見つからない。日常化した紛争報道の一つとしてアメリカから伝えられる9.11が新たな映像として加えられても、言説として何が新たに加わったのかは実はまだ私の実感としてはしっかり把握できていない。映像は随分前からすでに紛争や政治で充分うるさく、騒々しかった。

紛争報道は精神的に疲労感をもたらす。健全な精神状態を保っていつも通り日々の生活を送る(学生の私であれば学校に行き勉強する)ためには、ニュースを見ない、という積極的な選択があることを私も経験によって身につけていた。それによって映像でどんどん創出されたであろう9.11を私は見ないで過ごすことができたし、日々の生活を当たり前に過ごすことに随分とエネルギーを注ぐことができた。

最近のイスラエル映画の波、と言っても私が制作者に声を聞けたのは二作品に限られるのだが、共に「今や映像は騒々しくうるさくなってしまい誰も見たいとは思わない。映画はニュースでも報道でもないのだから、全く新しい映像で別の芸術や美を求めてもいいじゃないか」と言っていたことに私は非常に共感できた。また「日々の喧騒で見放されているもの、忘れられているもの、そうした誰でもが日々感じているはずの小さなものに目を向けてもいいじゃないか」とエラン監督もエトガー監督も同じキーワードで映画制作への原動力を語っていたことがさらに印象的だった。いずれも外側から見えるイスラエル映画の波とは関係がないのだが、9.11とイスラエル映画の波とが関係あるのだろうか?という問に対する答えとしては、経験また彼らの声に基づけば、私は関係がないと思う。
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