漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

  

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フィールド・オブ・ドリームス

イスラエルで野球?ソフトボール?
イスラエルの人気スポーツを知る人はまず信じられない、僕もそうだった。
スポーツ紙を独占するのはサッカーとバスケで、テレビ中継のスポーツもサッカーとバスケ。グローブもバットを売っているスポーツ店など見たことがない。

留学してたころ、NY出身の友人ダニ(カメラマンとしての作品はこちら)が「TSUYOSHI SHINJOは日本でも人気あるのか?」とふとしたことから話題が野球になって、「なんでその名前を?」「俺は子どもの頃からメッツのファンだから」とあれよあれよと、「ソフトボールのリーグがあって俺もやっているけど、一緒にやるか?」と、ダニと一緒にプレーしたことがあった。

35を過ぎて、年齢と体力を考えると、もう一度野球やるなら今のうちだな、と思うようになり、今シーズンから再びダニと同じチームで白球を追うことにした。
プレーボールは夜9時、一週間に一度、仕事が終わってからユニフォームに着替えて球場に向かう気分は何とも言えない。

球場に入りボールを握ると気分は高校生なのだが、気分と体力の距離がまだ遠い、ものの、これまで二試合を終えて随分と戻してきた、と少なくとも自分ではいい感触を得ている。

何より、生活の中に野球があるということは僕にとっては自然であり、生活そのものがグッと熱くなるのがたまらなくていい。青春、と言えばちょっとクサイけど、投げて、走って、打って、ヨッシャ!と握りこぶしをつくり、アチャー、、、と天を仰ぎながら、もう味わえないかもしれないと思っていた湧き上がるような感覚を全身で感じることは最高だ。

そして、イスラエルで白球を追うことの楽しみはその球場。今プレーしているのは二つの球場なのだが、どちらも球児魂をくすぐる。下は7年前の留学時代の写真だけど、今も走り回っている球場は同じ。ここでのナイターは、まさに『Field of Dreams』そのもの!(懐かしの劇場予告)

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村上春樹氏イェディオット紙インタビュー

随分時間がかかってしまいましたが、ようやく村上春樹氏がエルサレムに来たときのインタビューの訳ができたので以下掲載します。長文ですが、よかったら読んでください。どうやら、インタビューと言うよりも、写真を撮りながらの会話をインタビューにしているようで、記者が事前に用意した内容に村上春樹氏の言葉を差し込んでいったという印象をうけるのですが、いずれにしても、いかにしてイスラエルで村上春樹氏が受け入れられて、いかにして村上春樹氏がイスラエルまで来たのか、ということを感じられる興味深い内容になっています。


                     大物作家、イスラエルにて
2009年2月15日付け
イェディオット・アハロノット 別冊 24Hours;4-5

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 日本人の著名な作家村上春樹氏は、ガザの厳しい映像を目にしてエルサレム賞の辞退をほぼ心に決めた。しかし、何度も悩んだ末、とにかく訪れることを決断した。「イスラエルには僕の読者が大勢います。彼らと語りあうことは僕の義務なのです。」単独インタビューで村上氏は、日本文化と欧米の境界に生きる自らの人生について語り、インスピレーションを得る源となる内面に広がる暗黒の領域をさらけ出し、なぜそれほどまでに走ることに熱中するのかを明かした。
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 エルサレム賞受賞のため第24回国際ブックフェアに向かうべきか、村上春樹氏は何度も悩んだ。欧米で最も成功した日本人作家と言われる村上春樹氏は「イスラエルがガザで攻撃を開始した瞬間から、この賞の受賞辞退を考えた」と告白する。「私たちはテレビを通してガザの様子、破壊行為、子ども達、そして死者の映像を目にしました。あまりに多くの無実の人が、罪ある行為により命を落としました、老人や女性、それに子ども達がです。私たちは、あなた方にはあなた方の理由があることを知っています。そして、ガザからイスラエルに向かってロケットが発射されていることも知っています。しかし、これはバランスの問題なのです。あなた方は巨大な軍事力を備えていますが、彼らにはそれがないのであって、そこが問題なのです。報復の度合いがあまりに大きすぎるのです。これは私だけの考えではなく、日本にある一般的な考えです。私たちは、イスラエルを非難しているのではなく、その行為のみを非難しているのです」

  約二週間前、「パレスチナの平和を考える会」と呼ばれる団体が、ホームページ上に公開文書を掲載してエルサレム賞受賞の辞退を求めた時、村上氏の悩みはさらに大きなものとなった。同団体は「私たちは非常にショックを受けている」と述べると共に、「私たちは、イスラエルがガザで1300人以上の尊い命を奪い、500人の重傷者を含む5300人以上の負傷者を出し、大勢の人々の生活を破壊しつくすという戦争犯罪を犯した直後のこの時期に、世界的に著名な小説家であるあなたが、イスラエル外務省、エルサレム市が全面的にバックアップする公的行事であるこのブックフェアに参加され、エルサレム市長から「エルサレム賞」を受賞されるということの社会的・政治的意味を真剣に再考されることを強く求める(ヘブライ語該当部分を同団体サイトから引用)」と村上氏に対して受賞の辞退を求めた。また、公開文書の中では、「パレスチナ人全体がアパルトヘイト政策の犠牲者」であり、「彼らの「社会における個人の自由」はイスラエルによって徹底して抑圧され続けているにもかかわらず、「社会における個人の自由」への貢献を讃えること」が今回の受賞理由であることはさらに懸念されるべきことと述べている。他の複数の団体もその呼びかけに応じたために、日本において特に若者の間で多くのファンを持つ村上氏は、憎悪のメッセージを浴びることとなった。
  「彼らは、僕がこの賞を辞退すると聞けばとても喜んだでしょうし、賞を辞退し、彼らが僕に拍手を送るということで終わらせることが、僕にとっては最も簡単な選択でした。しかし、僕は、とにかく来る決断をしたのです」と明かす。「僕は作家です。作家の役割は、人間の魂について書くことですが、政治的課題もその人間またその魂が生きる世界の一部です。受賞を辞退することは否定的なメッセージです。すなわち、安全で、都合のいい内面の世界に僕が閉じこもるということです。僕にはここイスラエルに多数の読者がいますし、ここに来て直接顔を見て語ることは僕の義務なのです。それは作家としての僕の責任の一つです。本当のところ、僕は賞そのものには関心がありません、それは、一枚の紙とメダルにすぎません。僕の読者がいなければ、いくら賞を受賞しても意味がないのです。彼らは、書くことにおける僕のパートナーであり、僕は彼らに敬意を示す必要があるのです。」

頂点に立つ
  村上春樹氏と陽子夫人は、一昨日エルサレムに到着した。村上氏との単独インタビューは、長旅の疲れが取れた後、(訳注:国際的な文化的催しを開催したり、作家や芸術家が滞在する場所として有名な)ミシュケノット・シェ・アナニムのゲストハウスで行なわれた。村上氏はベランダに出て撮影したいと申し出たカメラマンの要請を快く引き受け、エルサレム旧市街を背景にカメラの前に立った。氏は、今夜、国際会議場でニル・バルカット・エルサレム市長から賞を手にする。「式典では、イスラエルの読者に向かって、僕の心の内にあるものを語ろうと思っています」と誓う。

(記者質問)今後の不安はありませんか?
  「日本では、僕が授賞式に出席すれば、僕の本の不買運動を起こすと言った人々がいます。僕はそのようなことが起らない事を願います。」
  ドヴ・アルフォン(審査委員長:ハアレツ氏編集長)、ドゥボラ・ギルラ(ヘブライ大学)そしてエトガー・ケレット(作家)で構成された審査員会は、今年のエルサレム賞に20作品が40カ国語に訳されている村上春樹氏を選出した。審査委員は「氏の人間に対する愛情、ヒューマニズム、また、芸術的な完成度に対する審査員の理解に基づき」全会一致で決定したと受賞理由を説明する。また、「彼の小説では、この現実世界とは別次元に流れているもう一つの世界で起こる常識から逸脱した出来事を、アンチ・ヒーロが一人称で語る」と作風を紹介する。
  村上氏の作品からは、アニメ映画やパソコンゲームを傍観しているような感覚を得る。村上氏は経済成長を追い続ける日本社会を批判するが、それによって日本及び世界各国で著名な作家となることは気にしない。彼の作品のおよそ半分はヘブライ語に訳されており、『海辺のカフカ』は数週間続けてベストセラーに名を連ね、最新作の『めくらやなぎと眠る女』ではすでに著名作家陣の頂点に達している。
  村上氏は"ふつう"の人間ではない。1949年、京都において、一般社会とは少し疎遠な世界に生を受けたことがそれを証明している。「両親は日本文学の教師でした(原文ママ)ので、いつも二人でその話をしていたのですが、僕はそのことがひどく嫌いでした」「そのために、チェホフ、ドストエフスキー、フロベール、ディケンスなど欧米文学の日本語訳を読み、学校で英語を習うようになると、アメリカ・サスペンスへと移行していきました。トランジスターラジオを持っていて、エルビスやビートルズを聴きましたが、その瞬間はとても興奮するものでした」。村上氏は、第二次世界大戦を経験した父親の戦いの話や、アメリカの空爆で家が火災にあったという母親の話を聞きながら成長した。「僕は一人息子だったので、父、母そして僕という張り詰めた三角関係の中で生活していました。エディプス・コンプレックスの状態です。日本では、ユダヤ人と同様、家族はとても大切なものとされますが、僕の本の中では、家族は安心できる場所としては描かれていません。」

  村上氏は東京にある早稲田大学で演劇と映画を学んだ。1971年に学生時代からの友人だった陽子夫人と結婚。2人で東京にジャズ喫茶を開き、飼っていた猫から「ピーター・キャット」と名づけた。猫は村上氏が最も愛する動物であり、何か不思議な出来事の前兆を感じさせる、物語的でファンタジー的な登場人物として村上氏の作品の中に度々登場する。『海辺のカフカ』の主人公の一人は、猫と話ができる脳に損傷を負った男性だ。

  「僕の書く行為では、間違いなくジャズが表現しています」「作品のリズム、カッティングオフ、そして即興。自分にリズムの感覚がないと書くことはできません。僕は、ちょうどジャズのように、即興で文章を書きますが、文が互いに交差し、文が文を生み出しあいながら流れていくのです。予めストーリーや構成を考えてから書き出したことは一度もありません、物語がどのように展開するかなど、僕には全く分からないのです」。村上氏の作品の中では、主人公達がジャズについて会話を交わし、作品の中を流れるジャズの演奏曲を次々とかえていく。村上氏自身も、高価で価値のあるレコードを多数蒐集しているのだが、もしも、自宅が火災になってお気に入りの三枚を持ち出さなければならないとしたら何を選ぶかと聞くと、力なく両手を持ち上げながら「三枚を選ぶことは不可能、僕は猫を助けるよ」とこたえた。彼の人生における音楽が果たす重要な役割は、作品の題名からもうかがえる:世界的なベストセラーとなった初の作品「ノルウェーの森」はビートルズの曲。他の題名も、ナット・キング・コール、ビーチ・ボーイズ、それにロッシーニ、シューマンやモーツアルト等の曲名に基づいている。欧米の消費文化も作品の中に響いており、『海辺のカフカ』の登場人物の中にはジョニー・ウォーカー、それにケンタッキー・フライドチキンのキャラクターで知られているカーネル・サンダースといった名前も登場する。

  村上氏はシャイでインタビューを受けないことでよく知られている。「僕がインタビューを受けることが好きではないのは、ジャズ喫茶を経営していた時代、夜な夜なバーの後ろに立ち、生活のために、お客さんと話さなければならず、その7年間で一生分の話をしてヘトヘトになったからです。僕は話し好きではありません。それほど話したくないと思う人には話さないと僕は誓ったのです。それに、僕は作家です。作家の仕事とは書くことであって、話すことではありません」と、日本語のアクセントのあるゆっくりとした英語で語る。
  村上氏は、これまでイスラエル人作家と一度も出会ったことがなく、「もし私にお勧めの本があるなら、何か教えていただけたら嬉しいです」とイスラエル人作家の作品を読んだことがないことを隠さず明かす。村上氏は30歳の時に書くことを始め、1979年『風の歌を聴け』でデビュー、文学賞を受賞した。それから二年後、書くことを生業とすることができると分かると、ジャズ喫茶を売り、プリンストン大学で教えるオファーを受けた(原文ママ)。「日本社会は僕に重くのしかかり、プレッシャーでした。それはとても単一的で狭い社会-1億2千万人が一人の人間のようで、その中で僕は異質でした。欧米では個性は自然なものであって、それについて格闘する必要はありません」と明かす。

空から降ってくる魚
  1995年、村上氏は、彼が生まれ育った京都の両親の家が全壊する被害をもたらした大地震(原文ママ)の後に一時的に帰国した。村上氏は欧米の読者と日本人の読者の間にある、氏の作品の読み方に対する明確な違いを理解している。「僕が書く作品にはシュールレアリズム的な特徴があります」「日本やアジアでは、なぜ僕が書くものはこれほどにも奇妙なのか、なぜ猫が話し出し、なぜ天から魚が降るのかといった疑問を読者が持たず、それはそのような話として受け入れられます。それが、アメリカやヨーロッパでは、「ポストモダン」または「非現実的現実主義」と解釈されるのです。」と述べる、
  多くの作家は、同じ世代の登場人物について描き、作家が年を重ねると共に主人公も年齢を重ねるものだが、村上氏の作品では登場人物は青少年か若者のままで変わらない。
15歳の田村カフカは、幼児期に彼を置き去りにした母と姉を探すために、虐待する父のもとから逃げ出す;彼の耳では、将来のカフカが母と姉と寝るという父の預言的な呪いがずっと響いている。「初めての作品を書いたのは僕が30歳の時、主人公は20歳でした。僕は1月で60歳になりましたが、まだ若者について書くことが好きなんです」「『浜辺のカフカ』を書いた時、僕の実年齢は50を過ぎた辺りでしたが、僕自身が主人公と全く同じ15歳になり、彼の目を通して社会を見たり、彼のように感じたたりしたのです。それはとてもスリリングでした。二年前(原文ママ)には『アフターダーク』(ヘブライ語版近日発売予定)を発表しましたが、その中の女性の主人公は18歳です。僕は18歳の少女にもなりきることができます。一般的に読者は作家と共に年をとりますが、僕にはとても例外的に若い読者が多いので、僕はそのことをとても嬉しく思っています。」

  村上氏と陽子夫人の間には子どもがいない。「なぜって?そのことについては話すと長くなります。僕は書くことと移動で忙しく、その間に年月が過ぎ去ってしまいました。だけど、僕の子ども達は僕の読者です。僕の作品を読んだ若い方が、彼らの両親と僕とが同じ学校に通っていたことを知り、親にせがんで僕の家に遊びに行きたいと電話をかけさせる、なんてことはいつも起ります。そのような時、僕はいつも受け入れるんです。」
陽子夫人は彼の一番最初の読者であり、また、影の"編集者"でもある。「彼女は非常に厳しいひとで、僕にたくさんの指摘をします」と語る。村上氏は彼の感情の変化に合わせ、すべての作品で書くスタイルを変える。「僕の初期の作品では、主人公はみな孤独でしたが、時間と共に、僕の主人公たちは他人との人間関係を求めるように変わってきたと思います。」

現実と想像
  村上氏は非常にストイックな生活を続けており、毎朝早朝4時に起床して朝8時まで書く。その後、トレーニングウェアに着替え、自宅のある東京の高級住宅街にある公園などを10キロ走る。または、1キロ半、自転車をこぐかプールで泳ぐ。午後になると、レイモンド・カーヴァー、ジョン・アーヴィング、トゥルーマン・カポーティ、スコット・フィッツジェランド、そしてサリンジャーなど、お気に入りの欧米文学の邦訳に取り組む。日が沈んでから仕事をしたことは一度もない。

  村上氏は、33歳の時に体重を落とすために走り出し、今では欠かせない生活の一部となった。過去20年間に渡り、一年に一回マラソン大会に出場している。最高記録は3時間27分。練習のため、数ヶ月で350キロ走ったこともあると言う。「年と共にマラソンの成績はどんどん悪くなる一方ですが、最近参加しているトライアスロンでは、むしろ年をとってからの方がよい成績が出るようになっているのです」と言う。

記者:走り続けることはなぜそれほど大切なのですか?
  「僕は、書く時に、脳と精神の深い領域にまで、意識の中、そして、無意識の中へと降りていきます。そこは暗黒の場所です。もし僕に十分な肉体的な力がなければ、非常に危険な状態に陥ります。僕は書くことをそのまま体験しているのですが、それは、はっきりと目を覚ましているのに夢を見ているような状態です。」
  2001年9月のテロ発生以降、「世界は、どんどんと僕がつくり出した世界に近づいています:超現実的でカオスに満ち、そして危険な状態へ。今でも、ツインタワーに飛行機が突入する写真を見つめても、本当にそれが現実に起ったとは信じられません。僕が物語の中で描いてきたものは悲観主義であり、世の終わりだったのですが、それらが現実に起っているのです。今の世界は、まるで作り話のようであり、架空の世界であり、僕が書いてきた最も恐ろしい悪夢のようです。僕らはどんどん悪化する世界に生きていて、これが僕達が生きる本当の世界であるとは未だに信じられないのです。」

記者:かつてエルサレム賞を受賞した作家の中で、オクタビオ・パス、V・S・ナイポール、それにJ・M・クッツェーの三人は、その後約15年でノーベル賞を受賞しています。それについてはいかがお考えですか?

  村上氏は顔を赤らめながら「僕は60歳です。ノーベル賞を受賞するかは分からないし、そのことについてあまり多く考えません。僕の頭を悩ませていることといえば、これから受け取る賞のことではなく、これから何冊本を書くことができるかということだけです。僕はドストエフスキーの大ファンです。彼が『カラマーゾフの兄弟』を執筆したのは、60歳の時です。僕は日本版「カラマーゾフ」を書いてみたいと思っています。それから、走ることと書くことは、同時に始めましたし、僕の人生では一方が欠けたら前に進まないようなものですから、70歳、それに80歳になっても、同じように続けられることを願っています。」

インタビュアー:イラット・ネゲブ

おおサッソン!

レンタルビデオは高い!と書いたっきりにしていたのだけど、
その時にもらった映画招待券で見た映画Welcome to the north(ヘブライ語からの私独断の英訳)が最高だった。
詳しくは船長ブログ。本当におかしくて、ほろりとして、最高だった。
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さてさて、以下もすでに船長ブログでは触れているのだけど、僕の視点から。
フリーだった一昨年の最大の思い出の仕事は「迷子の警察音楽隊」。思い出の記事1記事2
その主人公を演じ、イスラエルの高倉健と言ってもよいだろう、大俳優サッソン・ガーバイ氏の舞台を見に行った。
彼は映画でも活躍しているが、「僕は舞台がメイン、是非一度見に来てくれよ」
と言うように舞台での活躍が素晴らしく、新聞でも時々彼の名前を見る、全て舞台関係の記事で。

イスラエルの演劇文化、と言うものを何となく聞いてはいたが、こんなにすごいとは正直予想以上で驚いた。その会場と観客のムードが、何だろう、日本で言うところの、う~ん、当てはまるものがちょっと見つからないのだけど、一番近いといえば、小学生の頃の思い出として映像が頭の中に残っている、くじ引きで商品が当たるというお祭のお楽しみ会があった公民館。おじいさん、おばあさんから、中学生までが、何かを楽しみにわっと集まってちょっとムンムンしている感じ。

チケット売り場の周辺では「パンフレット、10シケル(約250円)」と
その舞台のパンフレットが売られていたのだが、それが真っ先に目に飛び込んできた。
イスラエルでは映画パンフレットというものを見たことない(Mr33によれば映画パンフレットというのは日本独特の文化らしい)のに、舞台劇ではパンフがあるのか!とそれに驚いた。

会場は400人くらいだろうか、二階席まであるのにほぼ満席。その日は(おそらく)中学生がクラス全員で来ていたので会場全体がすぐにでも反応したい軽さがあったという特別なものだったのかもしれないけど、とにかく笑いの場面では会場中がドッと笑い、ツボにはまると大拍手という舞台と観客の距離が近いことが、「ああ、娯楽、極楽」とたのしかった。

カーテンコールでは、やはり大俳優サッソン氏に、割れんばかりの拍手が送られた。
彼はこの地で本当に愛されているのだな、ということがじんわり伝わってきた場面でもあった。

そして、舞台が終わって会場の外で立っているサッソン氏に、「最高だったぞ!」「素晴らしい演技ありがとう!」「あの、一言言いたいと思って。さっきの舞台すばらしかったわ」とその大俳優に気楽に話しかけに来る人々に対して、「ありがとう」と謙虚に対応するサッソン氏。

そんな気取らない姿勢に改めて感嘆したのだが、何より、舞台を終えたサッソン氏を自家用車で迎えに来て、会場前の普通の駐車場で待っていた奥さんの姿に、船長と二人で感動したいい夜だった。
もう10日位前なんだけど、本当にいいものを見たな~、と感動したので。
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