漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

  

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

博士って頭脳?

以下、昨年7月にアップしていたものですが、このエントリーに迷惑広告コメントが多数入るようになっていたので、掲載場所を変更させていただきます。
-------------------------------

漂流博士の船出とタイミングよく、NHKクローズアップ現代『にっぽんの頭脳はいかせるのか-苦悩する博士たち-』(7月3日放送)を見た。90年代に国がドクター二倍計画を立てたが、大学のポストは増えないために職につけない博士があふれている、その現状を探るというもの。

私はまさにその博士課程促進の流れを受け、1998年に修士課程から博士課程へ入学金免除でほぼエスカレーター式に進んだ生き証人。前年入学していれば30万円近い入学金の納付が必要だったので、免除は幸運だと思ったことをよく覚えている。

博士号取得を促進して日本の博士が二倍になっても、就職ポストが二倍になるはずもない、が常識的な理解だったこともよく覚えている。少なくとも私のような文系の学生は「博士になったところでつぶしがきかなくなるだけ」「博士号っていうのは足のうらに付いたご飯粒みたいなもんだ。取ろうと思っても取れないのに、取ったところで食えない」と言ったものだ。

番組ではもっぽら理系の学生を取り上げていたので、現状や受け止め方が違ったのかもしれないが、文系の私には就職が厳しいことは承知の上で博士号を取得する、のが現状だと思うのでどうも番組はしっくりこなかった。

そもそも

「博士は日本の頭脳、、、なのか?」

「末は博士か大臣か」と言われたように、確かにかつて博士は研究者の頂点だった。博識、博学、何でも知っている極めた人が博士だった。しかし、90年代以降博士は大学の研究者採用の資格になり、研究者になるためのスタート地点に立つ条件でしかなくなった。

日本ではかつて博士号のあるなしに関係なく大学教授になれた。私の修士課程の指導教官も日本民俗学では大御所でありながら、博士ではない。私のように業績もまだ少ないペーペーが博士で、その私を厳しく指導した大御所が博士ではないのだ。

博士は有資格者

この理解は現状として間違っていないと思う。こうした制度として博士号取得を促進する流れは、研究論文を書いていないのに教授になれてしまったり、一度常勤に就いてしまえば大した研究をしなくても知らぬ間に教授になれる従来の高等教育の教職員制度改革に向けて私は賛成である。

博士になってどうするのか、それは博士号取得する以前の学生時代からの課題であって、博士になった後に突然直面するものではない。

スタートでしかない博士という称号を、どのように活かして進んでいくのか。私と同世代の博士達が乗り切っていかなければならないのは、むしろそうした工夫と持久力ではないだろうか。私は当面、大学や研究機関の常勤職に限らず、アカデミックと社会、アカデミックとジャーナリズムといったオープンな関係の構築を目指したいと思う。

博士になりなさい!と国家に命令されたのではなく、研究者になりたい、そのために博士になるしかない、と個人の意志で博士になっていることを忘れてはならないと思う。
スポンサーサイト

リーマンのひるめし

私は自分のサラリーマン姿を客観的にイメージできていない。しかし、スーツ着て満員電車に揺られ、限られた休み時間に大急ぎでランチをほおばり、残ったエネルギーでつり革につかまり帰宅する、という4月の日々は文句なしのサラリーマンである。

この貴重な「Theサラリーマンな生活」を楽しまなければもったいない。とくにランチタイム。

新橋、虎ノ門の周辺はお昼時になると海のようにサラリーマンがドワドワ~があふれだし、私もそのサラリーマンの海の一滴になりしばし職場を離れる。そして並ぶ。昼時にスーツ姿で食堂の前に並ぶ、わざわざ並ぶ、りっぱなサラリーマンである。

さて、昼食は午後への充電でもある。先日足を運んだ蕎麦屋は、午後思いっきり突っ走りたい、残業確定、の時にパワー全開になること間違いない。そんなパワーみなぎるカッコいい蕎麦屋だった。サラリーマン必食である。

場所は虎ノ門。真っ黒の外壁、看板なし、そこに並ぶサラリーマン。思わずそこに並びたくなる、そんな外の雰囲気はかっこいい。列の前に進み中をのぞくと、「うぉ~」と言ってしまう思いもしない光景が目に入る。バー?、ディスコ?、う~ん、それ以上の形容が難しいがとにかく「カッコいい」部類の空気をかもし出している。そこに黙々とそばをすするサラリーマンがズラッと並ぶ。カッコいい!

私はその光景とそこに立つ自分の姿を想像して興奮してきた。「食べる」という行為は場の演出で味も楽しみも変わると思うのだが、ここの場の設定は抜群である。しかも、それはサラリーマンを迎えるべくつくられている。その空間にタラリとした格好の学生は似合わない。電源オンの闘うサラリーマン、でないとあの大人の空間に耐えられないのだ。

で、肝心なそばの味。これはもう食べるしかないのだが、かなり癖になる。そして食べ終わると目がギラギラしてくる、そんな味。う~ん、書きながらまた行きたくなってきた、そんな場であり味である。

参考はこちら

まだまだ続く、イスラエル映画!

大きな波を迎えているイスラエル映画の興隆を記念して、先日イスラエル映画に関係する方々の集まり、という楽しい会が催された。漂流生活のスタートを切ったスキップシティDシネマ国際映画祭の方々や、「迷子の警察音楽隊」「ジェリーフィッシュ」の配給の方々と、ミニ同窓会のようでもあり、私など俄かイスラエル映画関係者もその楽しい雰囲気にとても満足して帰宅した。

さて、近々もう一つあるんです、イスラエル映画。6月14日東京と写真美術館で公開される「1000の言葉よりもージブ・コーレン」。

参考サイト(1)

参考サイト(2)

イスラエルの報道写真家を追ったドキュメンタリーで、「迷子-」や「ジェリー-」とはまた違ったイスラエルの現実を実感できるお勧め映画!

漂流博士、この度もこの映画の解説を書かせていただきまして、ここに転載させていただきます。是非どうぞ!

---------------

「イスラエル人」の生活
イスラエル人は、言語や生活習慣などに基づいてユダヤ人とアラブ人に分けられるが、単純な対立関係ではとらえきれない現実がある。ユダヤ人といっても、頭のてっぺんからつま先まで黒い衣装で覆いながらユダヤ教の戒律を厳守する超正統派と呼ばれる宗教的生活を送る人々(劇中ではその一部であるハシド派が紹介されている)から、ジブ・コーレンのように宗教的な戒律とは無縁に日々の生活を送る人々まで幅広い。実際には、非宗教的な生活を営み、夫婦で共稼ぎをするような家庭が大半である。男女平等、家庭最優先の社会の中、ジブのように仕事の合間に子どもの送り迎えをする父親の姿、また台所に立ち皿を洗う男性の姿も極当たり前。この映画はイスラエル人による作品であるが、より正確には、そんな非宗教的な生活を送る大半のユダヤ人の視点に基づいている。

---------------

これ以上は公開後に劇場で販売されるパンフレットをお楽しみに!

「学位持ってるんですか?」

先日初対面で何人かと顔を合わせる機会があった。お互いの職業を聞くなど、初対面の緊張がほぐれてきたときに、大学の教壇に立っている、などとアカポス(アカデミックポスト)に就いていると思われる方も複数名いた。そんな彼/女らへ「学位持ってるんですか?」と聞く声を何度か耳にした。

博士号は資格でしかない、ということを久々に実感した一言だった。決して「博士なんですか?」とは聞かない、いや聞けない。私たちは「博士である」のではなく、博士号という資格を持っている、ただそれだけなのだ。一方、弁護士だったら「わたし弁護士です」、看護士だったら「わたし看護士です」と、資格=職業が成立している。同じ「士」があっても、どうも意味合いは違うようだ。と、ふと見渡すと、武士、力士、も身分や職業だし、でも、医師となると音は「シ」だけど、また違う漢字がある。この辺り、資格、身分、職業、詳しく考えたら何か分かりそう、な気もする。

満開の桜の中

この年齢になってフレッシュな気分になれるとは想像外のいい気分。

4月1日から通勤電車に揺られて都心に通勤。桜が満開、という絶好のタイミングのなかで、新入社員に混じって歩く一歩一歩。

30過ぎて新入社員の気分、こんな新鮮な気分を味わえるのはそうそうないよな~。
この気分に乗って一気に全開でいこう!
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。