漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

  

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「行く」と「来る」/「もらう」と「あげる」

4歳2ヶ月の娘の話していることを聞くと「行く」と「来る」、それに「もらう」と「あげる」の使い分けがどうも怪しい。「また遊びに来るよ」と一瞬日本語そのものはしっかり成立しているのだが、内容を聞くと「また(おもちゃがたくさんあって、おいしいものが食べられた○ちゃんの家に)遊びに行きたい」と「行く」のだということはよくある。それに「これ○ちゃんにあげたよ」と、あげたのならここにはないはずの飴玉やお菓子を手に持ちながら言うこともよくあって、「もらったでしょ」と直すこともよくある。ただ、この種の混乱は「子どもだから間違っている」と片付けてしまうほど単純ではない。

これら「行く」「来る」や「もらう」「あげる」は、それぞれA点からB点へ移動する、移動させる、と動作としては同じで、その動作をAから見るのかBから見るのかという立ち居地で、「行く」だったり「来る」だったりに変わる、、、。じゃあ立ち居地をしっかり意識すれば間違えなくなるようになるのか、というとそれだけではないような気もする。そういえば、イスラエルで日本語を教えていた時には「もらう」と「あげる」がうまく使い分けできない学生が結構多かった。説明としては「自分の方に移動する」のか「自分の方から移動する」のかとシンプルなはずなのだが、日本語を学ぶ学生にとってはそれだけでフムフムという納得するものではないようだ。

似たような混乱はヘブライ語の「借りる」と「貸す」。日本語だとほとんど混乱することはないし、間違って使っている人を見たことはないのだが、ヘブライ語だとかなり混同して使用される。学生によく聞く質問で「寮に住んでる?それともアパート借りてる?(リスコール)」と言う時も「寮に住んでる?それともアパート貸してる?(ラハスキール)」と借りると貸すの混同をよく耳にした。その度に私が指摘するのも変なので、「動作が同じだったらいいじゃん」という感覚があるのかもしれないな、と思うようにしていたが、実際のとこなんでそんな混乱があるのかは今でもよく分からない。

「行く」「来る」/「もらう」「あげる」/「借りる」「貸す」は立ち居地によって違うだけで同じ動作を表わす表現だから混乱するのだろうが、混乱が混乱として残るのにはきっともっと深い説明が必要なんだろうな。と頭の中でウダウダ考えながら似たようなことをもう一つ思い出したので最後にもうちょっと、「Go」と「Come」。

中学生の英語の授業で「Go」は行く、「Come」は来る、と覚えていたのに、「明日あなたの家に遊びに行くよ」と言いたいような時には「I will come tomorrow」と言うのだ、と聞いて私はとても混乱した。きっとそういう経験をしたのは私だけじゃないと思う。英語では相手の立場に立って話をするのが丁寧な言い方で、相手から見たら自分が来るのだからcomeと言うのだ、という感じの説明を受けたことをはっきり覚えていて、今でも私などは相手に「I will come」と言う度に自分が相手に対して謙って丁寧な言い方をしているのだ、という感覚が抜けずにいる。のだが、その説明とこの感覚はgoとcomeが含む意味合い、つまり、それらの言葉を発する時のフィーリングからすると適切じゃない。というのは、A点から見るか、B点から見るかという立ち居地が違う、ことに加えて、goは"離れる"、comeは"近づく"というニュアンスを含む決定的な違いがある。「I will come tomorrow」がなんで「go」じゃなくて「come」なのかはそういう「近づくよ」という、comeと発する時のフィーリングをつかまないとやっぱり分からないと思う。

「行く」と「来る」、「あげる」と「もらう」にもそんな立ち居地の違いだけではない、もっとフィーリング的な違いがあるのかも。でも違いがあるなら混乱しないだろうな、、、とよく分からなくなってきたので今日はこの辺で。まとまりなくすいませんです、、、
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タイミング

7月漂流生活を始めてからこれまでやってこれたのは、とにかくタイミングがよかったこと。大きな仕事は一ヶ月に一度のペースでまるで相談したかのようにきれいに振り分けられて入ってきたし、論文や発表があるから仕事を控えたいなという時には自然と仕事のペースが落ちた。絶妙のタイミングとしか言いようのないこの仕事配分によって、サバイブ可能な最低目標ラインを何とかクリアーしてきた。何に対してか分からないが感謝したい、とフリーになってからよく思う。

ただ1月イスラエル出張を終えて以降は仕事と言う意味ではのんびりしていて、ちょうど論文に集中したいと思っていた時期でもあるのでむしろこのような時間がとれてよかった、と思うようにしている。時間はいつでも無限にある、と思い込んでいた学生の頃には理解できなかった時間の大切さを味わいながら、本を読み文字と格闘できる、何て幸せなこと、とさえ思う。

こんな時には時間が無限だと思っていた頃の旧友に会いたいな~、と思っていた矢先、ちょうど先週末学生時代の友人と娘(母子)が我が家に泊まりに来た。「急なんだけどさ、明日泊まってもいい?」こういう一行だけのメールで6年ぶりにサラッと再会できるのはいいな~、ホントいい。

初対面の娘同士も会った途端に意気投合して遊びに没頭して、一緒にご飯食べて、一緒にお風呂入って、一緒に布団にまで入って、子どものすごさを見せてくれた。大人達三人(私、船長、友人)はと言えば、子ども達が遊ぶ姿を横に他愛のない言葉を交わし、子ども達が寝静まってから近況を報告して六年の時間を穴埋めし、と何か特別なことをしたわけではないのだが、改めて学生の頃からの友人のありがたさ、そしてそんな友人と過ごす時間のありがたさを実感しながら、心地のいい感覚がジワリと残った。

船長と結婚をする前「それぞれの友人や恩師も、結婚してからは二人の友人、二人の恩師になる」ということを二人で同時に直感的に感じ、その人間と人間の環がドワ~ッと拡がる可能性を前に"畏れ"のようなザワッとする感覚を二人同時に経験したことがあるのだが、そのことを久しぶりに思い出しながら、実際に拡がる環の暖かさを感じたいい週末だった。

"イスラエル"について学べる一冊

イスラエルを取り扱った著書が数ある中で、実際にイスラエルの内部に視線を向け、研究者としての落ち着いた姿勢で丁寧に論じたものは実はあまり多くない。そんな中で、やっぱりこの本は勉強になるな、という一冊は池田明史編『イスラエル国家の諸問題』アジア経済研究所(1994)。

タイトルの通り、国家としてのイスラエルで確認できる多様な事象を政治、紛争(対パレスチナ)、歴史、文化、宗教の各専門家が具体的事例をひきながら、また歴史的事実を丁寧にほぐしながら冷静に論じる。出版は1994年でありながら14年が経過した現在でも十分参考になるほど、その質が高い。特に、なぜ「イスラエル国家の諸問題」なのか、を論じた池田氏の序論は、イスラエルを研究する上で求められる基礎的な知識と視線を丁寧にまとめているので必読だ。

エルサレムの帰属問題や和平交渉の問題など、ほとんど変わっていないな~or後退しているな~と思ったり、また、正式な交渉相手としてのPLOと交渉しないハマスというパレスチナのねじれの現実から見れば、オスロ合意直後に書かれた記述は新鮮に見えたり、いずれにしても今読んでも十分学べるこの本はありがたい。

ただ、イスラエル、パレスチナ、その周辺を巡る現実はやっぱり大きく変わっているのであって、その変化に準じた著作はやっぱりあってもいいだろうと思う。『イスラエル国家の諸問題』が参考になるのは、その変化に応じた新しい研究成果が日本語でまとまっていないから、とも言えるわけで、、、がんばるしかない。

イスラエル国家の諸問題イスラエル国家の諸問題
(1994/03/07)
池田 明史

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不動のBGM「ケルンコンサート」

私の特技の一つは、どんな場所でも勉強できること。周囲が騒いでいようとも、娘が遊んでようとも勉強も仕事もできるのは、高校、大学と男子寮生活をした経験で身につけた"わざ"だと誇りにさえ思っている。周囲の音に左右されずに勉強できるし、大体が耳に入らない、と思っているのだが、ノリたい時に流すBGMというのが決まっていて、もう10年以上不動のBGMの地位を保っている。

頭の中に書きたいことが明白にすでに準備され、覚醒状態でジャンジャン書きたい衝動に駆られたとき。まあ、そこまでいけば"手ごたえあり"という勢いが蓄えられた状態なのだが、そんな時、手にとって聴いているCDがキース・ジャレットの「ケルンコンサート」。かなり無意識のうちに「あ、ケルンコンサート聴きたいな」とCDを探しに行きかけるのだが、振り返ればそんな風に探しに行く時の気分はいつも同じだ。

「ケルンコンサート」を聴きながらノッテ書く、という贅沢な時間を初めて味わったのは卒論の時。ずっと耳を傾けて聴いているわけではないのだが、途中でふと指を休めたときに耳に入るはじかれる音がどれも心地よく、特に最後のパートが流れると「キースジャレットもクライマックス、僕もクライマックス」という気分も脳も全開の状態になる。という盛り上がった最中にアルバムは終わってしまい、その高揚した気分と脳を維持したくて再び最初から聴きなおす、そんな繰り返しが結構続くのだ。

ここ数日そんな贅沢な時間を味わっている。私が持っているツボはやはり狭くて同じである。でも、「そう、そこなんだよそこ、そこ」と押せば確実に利くツボを持っていること、それは結構幸せなことかもしれないな、とも思う。

ザ・ケルン・コンサートザ・ケルン・コンサート
(2003/04/23)
キース・ジャレット

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アモス・ギタイ『ラシュミア谷の人々―この二十年』鑑賞後感

日本をはじめ海外ではイスラエル映画の巨匠=アモス・ギタイ、なのだがイスラエル国内ではそこまでの評価も認知度もない。私も「キプールの記憶」(2000)「アリラ」(2003)「撤退」(2006)「ケドマ」(2002)と観た限り全然ピンと来なくて、イスラエル国内のその評価は理解できる、という立場でこのブログでも何度か触れた(参考1 参考2 参考3)。ただ、こうしてブログで語る限り、巨匠と呼ばれている監督の作品を論じるには観ている作品は限られていて単なる「アンチ」みたいでよくないな、という反省の気持ちもあり、また少しでもいいと思える作品に出会いたい強い思いもあった。そこで友人に相談して「これはいいかも」と手渡された『ラシュミア谷の人々―この二十年(Wadi Grand Canyon 1981-1991-2001)』(2001)、これがよかった!

まず、この映画にはアモス・ギタイの「俺の言いたいこと聞いてくれ!」というエゴが見えない。これまで私が観た映画はそれが邪魔でしょうがなかったのだが、『ラシュミア~』にはそれがない、それがいいのだ。うるさくない映像、語られる言葉の一つ一つ、映画を観ながらドンドンとその人物に入り込む。イスラエル北部の都市ハイファのラシュミア谷という同じ地点を1981年、1991年と定点観測の映像を基にしたドキュメンタリーだが、定点観測ならではの時間の流れを人の表情、また発せられる言葉から感じられるところに、ギタイ監督のエネルギーと姿勢、そして映画の魅力を感じた。そして主人公はあくまで登場する人々、その人々が私の目を掴んで離さなかった。

イスラエルはいつ、どこで、誰に話を聞くかで全くと言っていいほど表情が違う。多様性や複合性といった表現でも収まりきらないような、社会のダイナミックさが、その地にかかわるものの面白さでも、難しさでもあると私は常々感じるのだが、『ラシュミア~』は映像も言葉もシンプルで静かでありながら、その面白さと難しさを感じさせてくれる。あえて言えば最後の「おまけ」のようなロシア人移民の部分は要らないと思うのだが、加えた理由をギタイ氏に聞いてみたい箇所でもある。

まずは、アモスギタイ監督作品で「これはいい!」と思える作品に出会えて、少しホッとした。ただ、よく考えると「これはいい!」という私のツボもいつも同じだな、というツボの狭さを痛感した映画でもあった。他人が創った作品を鑑賞して語るのならば、受け容れるツボを拡げる訓練をしたほうがいい、これは映画鑑賞に限らずこれからの課題になりそうだ。

さて、昨日、映画雑誌『Cut』2008年3月号が郵送されてきた。来月公開予定の『ジェリーフィッシュ』のインタビューが2Pにわたって掲載されているのだが、エトガーケレット監督の言葉ほぼノーカットと言えるくらい詳細に掲載されていて嬉しかった。細かい表現の一つ一つ、通訳者としての密かな満足でもある。現在発売中です!

「自分に正直でいる」研究姿勢

読むペースが上がってきて、頭の中のムクムクも随分と活発になってきた。Thesisを最初に決めることの大切さ、それは頭の中がムクムクで一杯になった時に実感する。目の前がムクムクしたもので満ちてくると先が見えない不安に陥る、その時に立ち戻れる一言があるかないか、これは随分大きな違いだ。今回はそれがある、シンプルなそれがあるのがいいペースを保っているエネルギーだ。

最近関心があるのは日本におけるイスラエル研究。イスラエル研究と呼べるほど確立したものはなく、中東研究という巨大な枠の中でこじんまり存在しているのだが、かたやイスラエルについての議論となるととても"こじんまり"ではなく、巨大。でも、日本においてイスラエルについて足を(首も)突っ込んで研究している先生方を見ると何と少ないことか。そういう先生方の仕事がきちんと評価されることもあれば、されないこともある。

研究をする限り評価される成果を出したい。ただ、評価されたい、と大勢の目ばかり考えて作業すると現場から離れていき日本における議論という全く現場とかけ離れた独りよがりの議論に陥りやすい。ただでさえ遠い地のこと、評価など抜きで現場に冷静に密着する視線、そんな大学の授業の概論で聞くような当たり前のことが、実はイスラエル研究で求められているのだな、ということを最近ヒシヒシと感じる。

昨年出会った映画監督2人から学んだこと。創作活動において目指すのは「自分に正直でいること」。それは研究活動においても共通する重要な姿勢、それを何となくだが感じつつある。このムクムクしたものがどこからやってきて、そのムクムクの何を形にするのか、なぜそれを形にするのか、そしてそれを誰に向けて発するのか、そうしたごちゃごちゃのプロセスを丁寧に一つずつ一つずつ自分と向き合いながら、一つのシンプルな出発点は見失わずにすすめていきたい。

こんな抽象的な表現ばかりで申し訳ないのですが、今はまだムクムクの段階なので。それを形にする時にはきちんと署名原稿として責任の所在を明記して発表します。

脳が喜んでます!

来月目指して論文執筆中。

最後に集中して一気に書く、というペース配分に慣れてきたので、今はバネをギューッと縮めるように頭の中にあるったけのものを詰め込んでいる段階。執筆、と言っても未だ資料の読み込みの最中で、実際に書く作業はもうちょっと先だ。

他人の書いた文章を読みながら、自分の頭の中にある僅かな思考が発酵され、ムクムク膨らんで雲のようなぼんやりしたものが頭の中を満たすようになり、その中で一言でズバリと言いたいこと--大学の最初の授業で習った「Thesis」(テーマ、主題)--が見つかると、「よし、いけるかもしれない」という高揚した気分になる。その当時は全くThesisというものが分からなかったのだが、最近少しずつ見えるようになってきた。今はそのThesisがかなり絞れてきて、来月に向けて具体的な手ごたえを感じるようになった、という段階。

頭の中がポッポかしてきて、茂木健一郎的表現を使えば「脳が喜んでいる」という心地よさを実感している日々。この頭の中を満たしている「ぼんやりした」ものを、目に見える文字にする作業は、よく言われる「産みの苦しみ」であって、全く別のエネルギーがいるのだが、今のこの喜びがそのうちきっと力になる、という期待も込めてひたすら読んでいる。

昨日、娘のうみが保育園から戻ってくると、「はい」とカードと箱をくれた。船長とむすめがそれぞれ書いたメッセージ付のチョコだった。全く予想もしていなかったので本当に嬉しかった!脳の喜びは一人でしか実感できないけど、こういう共有できる喜びはいいね、力も沸きます!

「ガーダ」鑑賞後感想

偶然ビデオ屋で「ガーダ」を目にして、「お、これか、見てみるか」と借りてきた。「お、これか」とすぐに反応するほど随分この映画に関する広告や記事を目にした。PRはすごい。

映画は1993年頃から2000年頃にかけてガザで取材したテープを元にしている。私は1992-1993、1999-2003とイスラエルに滞在し、1996年から毎年一ヶ月位は滞在して、ほぼ同時期私はその「反対側」にいたことになるので、「どんな映像があるんだろうか」と同じ時期を過ごした者としての関心があった。

「ガーダ」というのは監督の古居みずえ氏が個人的に親しくなったパレスチナ人女性で、結婚前の葛藤や出産の場面と映画の「主人公」として登場するのだが、その辺りの「接近力」、そして女性だからこそできる信頼関係はかなりすごい。注ぎ込んだ時間とエネルギーがよく伝わってくる。また、副題にもなっている「パレスチナの歌」が後半に向けて頻繁に出てくるのだが、これは音色といい、歌詞といい素晴らしい、資料としてもかなり貴重ではないかと思う。

そうした素材の一つ一つは素晴らしい。ただ、全体的な構成については「ジャーナリズム」を主張する映画であるならば、きちんと広い視野での捉え方や補足が必要だろう。

映画の中にイスラエル軍とゲリラとの銃声の中家の中に閉じこもる家族の場面があるのだが、なぜ突然銃声が聞こえなければならないのか、また、またなぜイスラエル軍戦車が出てくるのか、その説明が全くない。「紛争の現場」を描くならば、イスラエル側で起こったテロを一言でも補足しなければ、イスラエル軍の行動とガザの関係は成立しない。

いろいろと刺激を受けながら、映画を見終わって一番に感じたことは「同じだな」というとてもシンプルなこと。銃声が続く中でも、日常生活を続けようとする姿、そして「私たちは戦争中でも普通の生活するんだよ」という声、これは同じ時期に私がイスラエルで滞在した時に全く同じ体験をしている。この映画には出てこない反対側のイスラエルでも、テロが続いても日常生活を淡々と進め、「嘆いてばかりでは日常生活ができない、自分たちは学生として勉強するんだよ」という声、全て同じである。そういう態度や心境こそ紛争の現場の空気じゃないかとさえ私には思う。そして「私たちは平和な生活がしたいだけ」という一言、全く同じ言葉をイスラエルでも頻繁に耳にする。

おそらくこの映画を観た方はそういう私にとっては当たり前のことが不思議に思うかもしれない、紛争の地を強調するのであればそういう当たり前の空気が補足されてもいいと思ったので、あえて。

道聞かれ顔ですが、、、

私はよく道を聞かれる。イスラエルにいた時も「今何時だ?」「火あるか?」とよく声をかけられた。この間は電車の中で新聞のSUDOKU(数独です)を始めようとした男性から「ペンある?」と聞かれたばかりだし、出稼ぎに来ている中国人労働者にも、タイ人労働者にも声をかけられる。私は、そういう顔、なのだそうだ。

かつて通勤していたころ。朝の1分、2分の違いは一日を大きく左右するくらいの貴重な時間で、家を出る時間が30秒でも遅くなれば、もう猛ダッシュで駅まで走っていたのだが、そんな時に限って、ということはいくらでもあって、そんな時に限って「すいません、あの~これどうやって行けばいいんでしょうか?」と大急ぎの私を止めて道を聞かれたことがある。

私の最寄駅周辺では毎朝地図を持って明らかに迷ってウロウロしている人がけっこういる。どうやら講習かなんかで呼び出されて近所の運転免許センターを探している人達であることは、一度その手に持っていた地図を横目に見てから知っていた。それにしても、毎朝その地図を持った人たちを、しかもみなが違う場所でウロウロしているのを目にしていると、よっぽどその地図が不親切なんだろう、とそのウロウロしている人にかなりの同情を抱くようになっていた。そんな基本的な同情の念が膨らんでいた上に、明らかに運転免許センターとは違う方向をウロウロと地図片手に迷っている人が目に入り、その人から「すいません」と声をかけられた私は、自分の大慌ての状況を理解しつつも「それなら、もどってそこを左行って、まっすぐいって、、、」と説明しないわけにはいかなかった。

そういう、ウロウロしている人たちをよく目にするその場所で、久しぶりに声をかけられた。しかも、夕方、自転車で帰宅するところで、急いで立ちこぎで自転車をこいでいると、向こう側の反対車線を走っていた黒塗りで中も見えない黒っぽいガラスのセダンが徐行を始めたのだ。暗くなり始めたその時間に黒塗りの車、を目にした私は、反射的に会合にでも行かなければならないのに道に迷って困っているのだ、と思った瞬間、自転車を止めていた。止まった車の助手席のガラスがス~ッと下がると、中から黒塗りの車に乗ってそうだな~、というそれっぽい顔とそれっぽいメガネをかけた男性が出てきて「あ、すいません、道聞きたいんじゃないんですけどー、これ、会社にどうです?」と箱に入った金の時計を持った手を窓から出してきた。あんちゃんの方もまさか自転車に乗った人が止まるとは思ってなかったのか、苦笑いしながら時計を差し出したのだが、私のほうも、まさか道聞く代わりに時計を見せられるとは全く想像もしなかったので「あ、そんならいいです」と笑いながら自転車をこいで帰路を急いだ。

と、今日はそれだけの話なのだが、先日「ガーダ」という日本人女性が撮ったドキュメンタリー映画を見たり、広河隆一氏が初監督となる「ナクバ」という映画についてのNHKの放送を見たり、いろいろ具体的にコメントをしたいことがあるのだがうまくまとまらず、また大岩川和正という1959年にイスラエルに留学していた研究者の本を読んでかなり衝撃を受けつつ、またその彼が48歳という若さで1981年に亡くなったという事実を知ったりしながら、さらにまとまらなくなったので、ワンクッションおかせていただきました。

トメルと再会、サリーの死

漂流生活に入って初の仕事と言ってもいいDシネマ国際映画フェスティバルで通訳をした「Paper Dalls」のトメル・ヘイマン監督が来日していたので都内で再会した。(このブログでの参照1参照2)  

先週横浜で公演のあったイスラエルのダンスカンパニーの代表格バットシェバ舞踏団を撮影しているトメルは舞踏団と共に来日。四日間の滞在で会う時間はほとんどないだろう、と電話だけで会話を交わしただけだったのだが、急遽(雪のため?)飛行機に乗れなくなり二日間滞在日数が延びて都内で数時間会う時間ができた。電話口でトメルも「できれば、じゃなくて是非会わなければ」と言っていたのだが、是非直接会って聞かなければいけないことがあったので、飛行機に乗れなくなったことは私にとっては幸運だった。「是非会わなければならない」、それは「ペーパードールズ」の中心的な登場人物であったサリーが祖国フィリピンで亡くなった、それも殺された、というショッキングなニュースを耳にしたばかりだったからだ。

「Paper Dalls」は近年イスラエルで増加しているフィリピンからのでかせぎ労働者の生活を(確か)5,6年追ったドキュメンタリー映画。イスラエルの外国人労働者、特にアジア諸国からはフィリピン、中国、タイが圧倒的多数を占めているのだが、フィリピンは高齢者介護、中国は建築、タイは農業、となぜか棲み分けがされている。映画「Paper Dalls」で登場する彼らも高齢者介護に従事するのだが、彼らにはまたドラッグクイーンとして毎週末テルアビブ市内の舞台に立つ別の顔があり、そのドラッグクイーンのショーを「Paper Dalls」といった。イスラエル国内における外国人労働者、そしてトランスジェンダーという二重とも三重ともいえる周縁的な立場で生活をしている「Paper Dalls」の姿を追った映像が私には魅力だった。

その中に登場するサリー、そして死を看取るまで介護したハイムとの関係は特に心に残るものであったし、映画祭での質疑応答でもサリーとハイムの心温まる関係についてのコメントが多かったことを覚えている。イスラエルでは外国人労働者排斥の動きが強くなるのだが(そのために日本人でも巻き添えになることがある)、「Paper Dalls」も最後は解散してイスラエルを離れ、サリーはフィリピンの家族の元に戻って映画は終わる。サリーは家族と共に祖国にいるんだ、という漠然とした理解で今までいたので、殺された、というのは何ともショックだった。

トメルとの再会は数時間、ほとんどは今回のバットシェバの撮影、同じプロジェクトでインタビューをした日本人女性現代アーティストとの出会いについての話だった。「フィリピンにはどれくらいいたんだ?」という何とも遠まわしな言い方で私はトメルに話題を振った。

去年の12月、サリーの家族ともあったりしたんだよ。フィリピンの大学などを回って映画を上映し、その後講演するということをしていて、サリーも一緒に講演していた。ある日、予定時間になっても現れずにどうしたんだろうかと思っていたところ、殺されたことを聞いた。

それが短いながらトメルが私に話してくれたことだった。フィリピンにはサリーの葬儀に出席するために行ったと思っていたので、トメル自身がフィリピンにいる間、しかもサリーと共に講演活動をしている間に起こったことだとは全く予想外だった。それ以上彼もサリーについては話さなかったし、私も問いかけることができなかった。

このブログでは「死」についていくつも取り上げてきた(佐藤真初代佐渡ヶ嶽親方イスラエルでの恩師)。全て一度は会ったことのある人や、共に仕事をした人の中で、サリーとだけは実際に会ったことがないのだが、サリーの死は私にとっては最も寂しさを感じる死となった。

帰国して新鮮に見えること:レジの女性

一週間とはいえしばらく別の国で仕事をしたり、食事をしたりしてから日本に戻って来ると、新鮮に見えることがいくつもある。街がきれいだ、路地裏でもきれいだ、ということはよく耳にするし確かにその通りだな、と思うのだが、それ以外にいつも「お!」と目に付くものがある。それはレジの女性。

立ってる、お~立ってるぞ!と思わず船長に声を発するほど、その姿は帰国直後の目にはかなり衝撃だ。イスラエル、というかそれ以外の国のスーパーでも結構買い物をしたことがあるが、レジの女性(どこでも女性が主流だな~)が立っているのを見たことはない。座って隣の女性とペチャクチャ、横を見ながら商品を読み取り機にかざして「ピ!」、「はい、123シケル」と隣の女性と話しながらペロンと手だけをこちらに向けて、お金だけを求めたその手に私が札をのせる。袋は自分で持っていきな、とは口で言わないものの、商品が流れてきてレシートとおつりが手に渡ったらそれで終わり、いや、どこからが始まりでどこで終わりなのかがよく分からなくてもレジを通過すれば買い物は成立している。

「いらっしゃいませ」両手をお腹の辺りに揃えて一礼、そこから私はお客様になる。目の前のレジの女性はお店の人になる。お客様は神様、熱烈歓迎、丁寧なお出迎え、いずれにしても気分はいい。「じゃがいもが1,2,3、3点でよろしかったでしょうか?」一目見れば三個以外には見えなくても万一のことがあるかもしれない、だからまずは丁寧に確認、「冷凍食品は半額させていただきます」「ピ!」「牛乳が一点」「ピ!」と一つ一つ確認しながら商品を読み取り機にかざし、「合計、1234円です。ポイントカードはお持ちでしょうか?」「いいえ」「失礼しました。冷凍食品のためにドライアイスはお使いになりますでしょうか?」「はい、お願いいたします」「それでは2000円お預かりいたします、766円のおつりです。ありがとうございました」とまた一礼されてお客様とお店の人の関係は終わる。今ではエコバックを持ち込んで「レジ袋は不要です」というカードを予めかごの中に入れておくと「ご協力ありがとうございます」と褒められるおまけもついている、そんなスーパーは世界でもかなり珍しいのではないかと思う。

私は旅行に出かけると寺院や観光地を見るよりも、日用品を買い物するスーパーへ足を運ぶのが好き。その地の自然体を目にできるのはスーパーであるし、生活を垣間見れるような楽しみがある。イスラエルで初めて目にして衝撃を受けたのは、商品として並んでいるジュースを手にしたと思ったらいきなりガバッとあけて飲みだして、レジでその飲み終わったパックを出して「これも入れておいてね」と差し出す"事後報告買い物"。私にとっては、レジを通過しない限り商品は店のもの、自分のものじゃない、というどうしようもない感覚的なものがあるので未だに真似ができないのだが、合理的でいいな、と羨ましく思うこともある。小さな子どもが「あれ飲みたい!」とダダをこねた時など、かなり有効な技だ。

レジの女性にかかわらず、日本では家を一歩出ると、バスの運転手、駅員、と全てが丁寧だなと思うのと同時に、そうした仕事中の人々がその役割を演じているようにも見える。レジの女性も家にいるときには全く違う姿、話し方をするんだろうし、制服に着替えてレジの空間に足を入れると、会社から求められた基準に従い、またお客様から求められる基準を想定してレジの女性に変身するんだ、きっと。

以前イスラエルの友人が「日本では電車の案内になると何であんな声なんだ?"新宿~新宿~"ありゃおかしいぜ。だけどさ、きっとあの電車の声の本人はあの声を楽しんでるんだ、自分の仕事はこの声なんだと思ってるんだよ。あれだけじゃない、タクシーの運転手は帽子かぶって手袋してるだろ、ああいう格好をして俺はタクシーの運転手なんだ、と楽しんでるんだ、きっと。」と"日本演劇舞台説"を主張したことがある。最近のことだが、近所のアパレルショップでは、休憩から戻った従業員が店舗に入る時に一礼しているのを見た。確かに、日本の社会って、日常はOFFであって仕事はON、それがかなり可視的に求められている空間で、"お客様"になることも許されている空間なのかもしれない。

こういうことはまたしばらくすれば慣れてしまって新鮮ではなくなるのだが、こういう日常的なことも久しぶりに見るとかなり衝撃で、日常とは決して当たり前や普遍的なんじゃないんだな、と改めて認識できる。今回のイスラエル、パレスチナの訪問で「結局はお互いは同じ人間なんだ、ということを理解することがまずは大きな一歩」という言葉をキーワードのようにどこでも耳にしたが、自分が当然だと思っていることは普遍的なわけじゃない、結構特殊なことなんだ、と思うことも案外他者に寛容になれることにつながるかもしれない、と思う。

PS:関東は雪ですね~、エルサレムとラマラも私達が離れた直後に雪が降ったようです

パレスチナ自治区を訪問(2)

今回の滞在では一度もカメラを出さず、一枚も写真を撮らなかった。こだわりがあったわけではないのだが、仕事モードだと写真を撮る、という気分にならないのかもしれない。ただ、こうして振り返りながらひたすら文字と格闘すると、ベツレヘム、ラマラ、と発したとき、その響きに反応して私の中に浮かんでくるイメージを表す写真が一枚でもあればよかったな、とちょっと残念に思う。
こんな感じですよ、という写真は全く他人のサイトなのですが参考までにこちら


16年ぶりのベツレヘムは明るかった。抜けるような青空に石造りの建物がきれいに交わっていた景色、生誕教会への狭い石畳のアプローチや教会から見えた街の色は、雨が降りとにかく寒かったという古いぼんやりした記憶をきれいに押しのけて、私にとってのベツレヘムの新しい鮮明なイメージをつくってくれた。教会の中にはどこの教会でも見るような巡礼旅行の団体が目に入る。何の解説もなく、壁や柱を見ると何度も改築してきた年月がくっきりと刻まれている、その静けさから感じる何とも言えない趣を、懐かしさと共に感じられたことは嬉しかった。

その二日後に訪れたラマラ、こちらは現在パレスチナ自治区の行政の中心でもあるが、大統領府(すぐ隣にアラファトの墓もある)や各省庁が集まる霞ヶ関のような場所に向かった。その道のりはエルサレムからほんの10キロにもかかわらず、パレスチナの小さな町々を通過しながら、別の「国」へ行くことを実感させてくれる。舗装が一定ではない道路、車の間を縫うように横断する人々、道路の真ん中に続く「Bank of Palestine」の看板、キオスクや小さな商店の看板にあるアラビア語。耳にしたり目にしたりする言語が分からない、ということはそれだけで「異国」を感じさせる。その感じは「異国情緒」というような柔らかなものではなく、自分の居場所をどこかに見つけなければ、と静かながら内面では少しうろたえて、緊張感とエネルギーのような普段は発しない特別な熱のようなものを発する。そんな熱をラマラへの道中、私は久しぶりに感じた。ラマラへの足は東エルサレム在住のアラブ人のタクシーを使ったのだが、同乗したドライバーがヘブライ語も話す。私のラマラでの拠り所、私とラマラとの架け橋は、その彼とのヘブライ語に委ねられることになった。

しかし、ラマラの訪問の目的は要人達との対談のため、それらの場面では英語に切り替えなければならない。英語はヘブライ語以上に「仕事だな、よし」と切り替えを必要とするのだが、初めて足を踏み入れる場所での言語の切り替えはもう一段階のギアチェンジが必要だった。そんな私の緊張感とは全く関係なく、私の拠り所であるドライバーは対談中車に残るのではなく、なぜか全ての対談に同席し「写真撮るか?」「この次はどこだ?」とヘブライ語で話しかけてきた。その場の空気を感じて私はヒヤヒヤしたのだが、彼は私にはヘブライ語、要人達にはアラビア語で平然と使い分けた。

ラマラでの滞在時間は6時間ほど。要人との対談の間にできた短い時間はパレスチナ自治政府外務省の方にガイドしていただいたのだが、「ここを見てください」と紹介されて印象に残ったのは次の三つ:

「ここはイスラエル軍によって攻撃された家です」
(銃を構えた男性の旗が掲げられていたのだが、彼が何をしたのか、何ゆえに攻撃対象となったのかをまずは知りたいと思った、がその機会には恵まれなかった。ただ、すでに英雄化してしまったこのような人物や事実の背景を知るには、どこで、どのようなアプローチをしたらいいのか、歴史や記憶の恣意性ということを考えるとき、まだ生々しい事実から何を学べるのか、改めてその課題を考えた)

「この先は日本の支援でできた道路でTokyo Streetと言います」
(ラマラの霞ヶ関からも繁華街からも離れた場所にある小さな道路。店も何もなく、東京っぽいものがあるわけでも、日本っぽいものがあるわけでもないのだが、看板だけがそこはTokyo streetなんだ、と断言していた小さな道路)

「あちらに見えるのが日本とUNDPの支援でできたカルチャーセンターです」
(なぬなぬ、聞いたことあるぞ!とちょっと身を乗り出して視線を前方に向けると、立派な建物が目に入る。立派だ。私の乏しい語彙では「立派だ」以外にその建物を表す適当な言葉が見つからない。2004年設立でまだ新しく、中に入るともっと立派。700人以上が入れる大ホールは照明といい、舞台といい、その椅子といい、その直前に訪問した外務省やラマラ市役所よりも立派だった。外務省に行っても、ラマラ市役所に行っても、日本の支援に感謝するという言葉が何度も聞かれたが、なるほど、そうだよな、と納得しながらセンターを出た)

限られた時間内でその他に紹介された場所があったわけではないので、上記三箇所は印象に残ったと言うよりも、紹介された全てと言った方がいいかもしれないが、いずれも印象に残ったことには間違いない。

陽も翳り始めた夕方4時頃、ダウンタウンが人々でにぎやかになる最中を抜け出すようにラマラを出発し、6時間程の滞在は静かに終わった。

ベツレヘムにもラマラにも確かに足を踏み入れ訪問はした、しかし要人との対談、形式的な英語での会話、質疑応答、しかも私は通訳という立場上、基本的には他人の言葉を発しただけである。直接的な対話や出会いがない今回の訪問で何かが分かった、という新しい発見があるわけでもなく、行ってきたな、という何か強烈な実感が残ったわけでもない。行って帰ってきたという道中を含めた時間、それが新たなフレームのようなものを私の中に作ってくれたことは確かだが、そのフレームの中に描く絵となる経験や素材がまだ足りないのだ。

現場に行く、というそのことに意味はあると思っているのだが、「行くだけ」では「現場に行く」ことにはならない。フレームくらいは手に入れたとしても、その中に描く絵は行くだけでは得られない。じゃあ、どうやってフレームの中を描くような経験を積み重ねていくか、私はその一つはやはり言葉なんだなと思う。言葉がなくても通じることはある、と信じる一方、やっぱり共通の言語、それは言説を含めた社会的言葉を知ることでしか見えないことはあると思っている(このブログでも取り上げた「言葉の壁」参照)。

ヘブライ語で会話ができても、私はその社会的な言葉、言い換えれば同じ土俵で議論をするその言葉、言語だけでなく意見、思考を含めた言葉が足りない。パレスチナ自治区にいたっては、アラビア語という言語も全く未知であるし、社会的言葉を得ていない。そのさまざまな意味での言語を少しでも身に着けて、新しくできたフレームの中を描いていきたいと思わせてくれた訪問だった。おぼろげな記憶に変わる新しいイメージを脳裏に焼き付けることができたベツレヘムへの訪問も含め、いい始まりになった、と思って前に進みたい。

パレスチナ自治区を訪問(2)執筆中...

昨日は久々の更新でしたが、二回連載ものなので本日も更新します!

現在執筆中なので、以前ご紹介した3月公開予定の「ジェリーフィッシュ」の予告編をお楽しみください!また「Variety」に「迷子の警察音楽隊」他最近のイスラエル映画に関する記事が掲載されているので、そちらも添付いたします。

「ジェリーフィッシュ」公式ページ

「Variety」掲載記事イスラエル映画、日本で20年ぶりの快挙へ
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