漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

  

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パレスチナ自治区を訪問(1)

無事に日本に戻ってきた。今回のイスラエル滞在は毎日仕事であり、日々を遠い視点から振り返ることができなかったのだが、こうしてのんびり過ごしながら、あの地でのできごとや感じたことをジワジワと思い返している。自分のこれまでの人生を振り返ると、私のこれまでの経験も案外このような時間差によるものがほとんどのようだ。

今回の滞在中で私にとって最大の経験はパレスチナ自治区に足を踏み入れたこと。1992年のクリスマスイブ以来となる16年ぶりのベツレヘム、そして初めてのラマラ。その当日は別に特別な気持ちはなく、引率していた一行が検問※1を無事に超えて時間通りに戻ってこれるだろうか(自治区から戻った後にもスケジュールが入っていたので)、という事務的な懸案で頭が一杯であった。ただ、イスラエル滞在一週間程の間に、車で30分の距離でありながら全く違う空間に足を踏み入れた時間は、今回の滞在をより立体的なものにしてくれたし、もはや特別な新しさを感じないイスラエル滞在の中で十分な新鮮さを与えてくれた。

ベツレヘムもラマラもそれぞれイスラエル国内に住んでイスラエルの市民権を持つアラブ系イスラエル人※2が運転するタクシーをアレンジした。パレスチナ自治区内の細かい道の運転は彼らに任せるしかないし、自治区内は看板も会話も全てアラビア語になるのでアラブ人運転手でないとどうしようもない、そもそもユダヤ人タクシーはだれも行きたがらない。自治区に行くためにはまずそんな足の確保が最も基本かつ重要な要素となる。

ベツレヘム。この訪問は予定していなかったのだが、当日あまりに天気がよかったために「イエスキリスト生誕の地に行ってみたい」という団長の一声で急遽決定した。添乗、ガイド、通訳の私は正直「え?」と躊躇した。私がイスラエルに留学していた1999年から2003年の間(具体的には2000年秋以降)はベツレヘム、というかそれまでの道中のベイト・ジャラはまさにドンパチの地で、ロケットが発射されて、それに応じて国防軍が攻撃するという映像をよく見ていた場所だっただけに足を踏み入れる場所ではなかった。現在はすっかり平穏となり紛争状態ではないことを十分理解しても、道中での検問があるためにいずれにしても「行くのが大変な場所」であろうという認識があったし、そちらのエルサレムの南の方向に日常のまま視線を向けることができなかった。

1992年はエルサレム南郊外のタルピヨットという街まで10分ほど路線バスに乗り、そこでイスラエル軍の治安検査がありベツレヘム行きのバスに乗り換えた、という記憶が残っているのだが、どんなバスに乗り換えてどこで降りたのか実はあまり記憶が鮮明ではない。1993年オスロ合意以前の当時はまだ自治区も成立せず、ベツレヘムはイスラエルの占領下だったので兵士の配置も現在とは全く違った、はずであるが、そのこともかなりぼんやりしたことしか覚えていない。その当時のことをきちんと記録しておけば自分にとっての貴重な資料となっていたかと思うと、「記憶より記録」なのだと改めて身をもって学ぶ。

2008年1月のベツレヘムへの道中は上記のタクシーで、乗り換えもなくスッと抜けていった。タルピヨットまでの道中の建設ラッシュ、新築マンション群からは1992年にはおそらくなかったであろう新しい臭いがプンプンしてくる。また、いわゆる分離「壁」がガ~ンと目の前に立ちはだかってくるのだが、これも新しい臭いを強烈に発している。1992年当時はおそらく目には見えず曖昧でしかなかった、「あちらとこちら」という境界線がこんなにも見える形で目の前に突きつけられると、それを受け入れる自分自身の器がないことにまず大きなショックを受けた。

タルピヨット辺りで車を乗り換えた、という1992年の曖昧な記憶とは反対に、今回目にしたあの境界線はおそらくこれからもはっきりと記憶し続けるだろう。一般市民の命を守るための正義、日常生活と経済活動を一方的に断絶することの不正義、という当事者の声に沿ったこの壁を巡る主張や議論とは別に、第三者としてこの「目に見える境界」をどう理解して受け入れるのか、というもっと単純でニュートラルな問いに対して冷静に思考することが求められていることを痛感しながら、その思考が進まないことのもどかしさが今でも残っている。

ベイトジャラはすっかり静かな村であり、北側の谷の向こうに見えるギロというかつて「交戦」していたイスラエル側の街も静かに見えた。その距離は、想像以上に近く、その小さな空間で飛び交った火のことは体験していないにもかかわらずすぐに頭の中で描くことができた。

私はこれまで何度もイスラエルに足を運びながら、よく言われる「紛争の地」というイメージを体感したことは一度もないし、「紛争の地」と一体となっている「危険な経験」も一度もない。ところが、そんな静かなベイトジャラを通りながら、かつてテレビの映像で見た暗闇に光るロケット砲と爆撃を思い返すことで、自分の身が「紛争の地」にあることを初めて実感した。その瞬間は平穏であって、危険や恐怖があったわけではないのだが、これまで感じたことのなかった「紛争の地」の自分を経験したのだった。

ベイトジャラを数分で抜けるとすぐにベツレヘムの街へ近づいた。建物が増えてくる、店もお土産やもどこもにぎやかだ。「かつてマリヤが歩いたとされる古い道だ」とタクシーの運ちゃんが「解説」する、肌色の石でできた建物に挟まれた車一台がやっと通れる狭い道は、「お!」と目を見張るほど美しく、マリヤが歩いたかどうかは別にして、時間が今だけではなく過去にまでグーンと広がるような魅力を発して思わずうっとりした。「きれいだ」と口にした瞬間、車の目の前には「生誕教会」が現れた。1992年の記憶よりも広場が広くなっているように感じた、のは全くの幻想のようだが、すばらしい青空と年月を重ねた石の教会が織り成すコントラストから気持ちのよい空気が一杯に感じられた。(続く)

※1イスラエルとパレスチナ自治区は双方によって合意された国境が確立していない。どこまでがイスラエルでどこまでがパレスチナ自治区なのか現在も交渉中でまだ決定していないため、現在はイスラエル当局による治安検査しか存在しない。イスラエルからパレスチナ自治区側に入るのはスルーでも、その逆となると厳しいチェックがある。現在パレスチナ人(イスラエル市民権なし)がパレスチナ自治区を出てイスラエルに入ることはできない。

※2彼らをパレスチナ人と呼ぶこともあるが、本人たちがパレスチナ人と自覚しているかどうかはかなり曖昧で、市民権上はイスラエル人。国家に対する権利義務という意味ではユダヤ人とも一応平等であるし、自治区のパレスチナ人とは区別したほうが適切だと私は認識しているので、この用語を用いる。
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イスラエル空港より

イスラエル、そしてパレスチナの一週間での訪問を終え、ベングリオン空港でパリ行きの飛行機を待つ。ここは無線LANが無料で使えるので便利べんり。メールチェック、そしてチョロリ漂流博士のアップデートができるのも嬉しい、ので少しだけ書く。

昨日は「遺族の会」というNPOを訪問したのだが、今回の訪問で最も印象に残る一言を聞いた。「遺族の会」はイスラエル、パレスチナ人双方が組織しているのだが、メンバーは親族を紛争で失った人々で、怒りや絶望を経験した人たちの気持ちをやわらげる活動をしている。

昨日はそのイスラエル、パレスチナ双方のメンバーと話しをしたのだが、ある一人のメンバーの一言が心に残った:

紛争による痛み、その背後にあるものを無視してはいけない。紛争による痛みを政治的、軍事的に言い訳に使われることがあるが、私達はその痛みを直視するよう努力している。

ここ数ヶ月は映画を通して、紛争によって見失われている他愛のない日常を見る視線の大切さを感じることが多かった。昨日のその言葉は、紛争によって見失われている個人個人の紛争の痛みを見ることの大切さ、という足元を見るもう一つの視線を学んだ。そのことだけでも今回の訪問は本当に意義があった。

もっと書きたいけど、今から搭乗です。

激変エルサレムを脱出、サッソンと再会!

日曜日からイスラエル、中でもエルサレムに滞在しているのだが「ここどこだ?」と思うほど街の変化にまだついていっていない。建物、道路の建設という目に見える変化と、やたらと英語が耳につく聞こえる変化。

ここは先日ブッシュ大統領が訪問した時に宿泊したキング・デビッドホテルやYMCAなど、若い国では老舗のホテルが建っている地域。ちょっとした静けさを感じる閑静な空間から後ろに覗くことができる旧市街の城壁、その時に感じられる「いま」だけじゃない立体的な時間が私は好きだった。今はその城壁周辺は道路工事、マンション開発工事でクレーンが乱立し、強引な新しさを描くかのように、むき出しのコンクリートの周りを工事車両が忙しく走る。

エルサレムの繁華街に足を運ぶと、英語ネイティブの若者がわんさかわんさか、夜中でもかなりの人数が闊歩しているのには驚いた。もともと観光客が多い地域とはいえ、なんだか空気が以前とは違う。なんだかよく分からないのだが、以前にもましてエルサレムの居心地が悪いな、というのが第一の印象。

そんな重苦しいエルサレムから脱出する、と言うわけではないのだが会談があり昨日はテルアビブに。垢抜けてて、若くて明るい、そんな空気に身を置くことが何と心地よいことか、と大きく、できるだけ大きく深呼吸した。会談の合間にふっと時間が空いたので、「迷子の警察音楽隊」で仕事をしたサッソン・ガバイ(参照)に電話をすると「おお、嬉しいな、そうかテルアビブか、少しだったら時間取るぞ」と忙しい合間を縫って会う時間をくれた。さすがサッソン、夜から舞台があるという忙しい最中、手には「ロミオとジュリエット」の台本を持って指定したカフェに登場。常に丁寧に、そして腰の低い彼の姿勢からは学ぶものが多きい。「大スター」だけあって、喫茶店はいるときにも「おお、迷子の警察音楽隊見たぞ、あれいいな!」と人々に声をかけながら入ってきたサッソンと感激の再会を果たし20分ほど東京の思い出話に花を咲かせた。

イスラエル滞在はもう少し、業務はさらに加速して忙しくなっていく。昨日から天気は雨、気温も10度と肌寒い、引き締めていくか!

PS:昨日の朝のニュースで、イスラエル映画ブフォーがアカデミー賞外国映画部門にノミネート!が伝えられる。こちらもオススメ映画!

エルサレムより

たった今エルサレムに到着。今週一週間はある日本の自治体の中東和平プロジェクトの現地視察のため、添乗、通訳、ガイド、コーディネータとしてイスラエルで仕事をする。

羽田-関空-パリ-テルアビブのまるまる1日かけて到着したイスラエルなのだが、全く「イスラエル着た!」という感覚もなく、普通に自然に始まった。

どれだけ更新できるか、時間の合間を縫ってできる限りレポートしたい。

ようやく雪です!

朝起きたらすばらしい雪模様!
天気予報だけではなく、本当に雪を目の前にして家族で感激!数センチのうっすら雪だったのですが、それが木々を染めると何と美しいこと!

胎内の雪

新潟で「イスラエル」を考える

天気予報は相変わらず曇か傘だが、嬉しいことに今日も「新潟」では太陽を見ることができる。

どれだけ現場に沿った発言ができるのか。これは私の中で常に大きなテーマであり、またここブログという媒体で書く時にも心がけているかなり重要な課題。私は結果的にイスラエルやそこで話されるヘブライ語にかかわる仕事が多くなっているのだが、「イスラエルは...」とイスラエルを単数化、また擬人化した表現はできるはずもない、というある種諦めの大前提に立っている。

しかし、普段新聞を読んだり、本を読んだりしていると「イスラエルは...」という文のなんと多いことか。これは「日本は...」「アメリカは...」という表現も溢れている中で何もイスラエルに限ったことではないのだが、イスラエルは地理的に遠いことも手伝って、現場とは切り離されたところでどんどん再生産される。

5年前に帰国してから、「イスラエルは」と発した瞬間に現場から切り離される文を読んだり、そのような発言を何度も耳にする経験を重ねることで、イスラエルという空間で生きる人々の生活、思想、それこそ人生と、日本における(日本語での)「イスラエル」に関する言説は別のもの、と理解するようになった。実は、その辺りの感情的な違和感は自分でも理解していたものの、そのことはこれまで自分の言葉として頭の中で整理されてはいなかった。この度池内恵『書物の運命』(文藝春秋)を読んで、その違和感を自分の言葉で表現するヒントを得たようなすっきり感があった。

池内氏はアラブ社会を研究対象とする中東研究者で、各紙の書評やコラムで積極的に発言していてそれを見るたびに「おお、すごい!面白い!共感!」と注目していたのだが、ようやく単著を手に取ることができた。同年代ながら、私などとは比較にならない読書量によって積み上げられたであろう、一文一文の中身の濃い文体を読めることはかなり満足度が高い。

同著ではエドワード・サイードが日本の社会科学で無批判に評価されていることへの指摘は新鮮な気分になるが、「「中東問題」は「日本問題」である」は中東地域を専門とする者にはかなり鋭い切り込みで参考になる。「日本の中東・イスラーム言説に制約を課している「業界的」事情を述べるのは陰鬱な気分にさせられるが、誰かが声に出して正しておかなければ状況を変わらない」と筆者が述べ、「しゃべり過ぎた」ことも含めて自由に語っている文章は、私のモヤモヤの違和感に光を当ててくれた。

改めて私の感じている違和感を振り返った。政治家が「イスラエルは...」(また「日本は」でも「アメリカは」でも)と発するのはその業務上理解できることだとしても、ジャーナリストや研究者がそうした国名を単数化したり擬人化したりして発する時には、そこに何かしらの(時に内輪の)政治性が含まれることもありうる、のだと思う。ジャーナリストであっても、研究者であっても、またそうしたプロが現場に行ったとしても、それが現場に沿った発言につながるとは限らない。そのことをこれから自分の問題として、より謙虚に現場を見続け、より冷静に現場に接しなければならない、ということを池内氏の読書を通じて改めて痛感している。

イスラエルでの9.11

今日からブッシュ大統領がイスラエル訪問中だから、と言うわけでは全くなく、先日お会いした方との会話の中で「最近のイスラエル映画の波と9.11後は関係があるのでしょうか?」といった類の質問があり、久しぶりに「2001年9月11日のこと」を思い出したので書いておく。

キューイチイチ、または、セプテンバーイレブン、という表現で切り取られる時間とそれを巡る言説、それはその日に私が経験し、また今でも記憶していることとの間に大きな断絶がある。私は当時イスラエルの大学に留学中で、その時は図書館でレポート準備に追われていたのだが、「ツインタワーが大変」という情報を聞いたその場にいた友人たちとキャンパス内のカフェにある大型テレビで状況を見ようと走っていった。

カフェのテレビの前に押し寄せCNNの中継を見ていた"かなりの人数"が事の次第を物語っていて、今でも私にとってその事実はその"かなりの人数"を後ろから見た映像でファイルされている。その時、私がCNNで見たものは改めてここで書く必要もないが、その時に私が聞いた声はここで書いておくに値するかもしれない。

「これでようやく(ヘブライ語で"ソフソフ")世界がテロというものを理解するだろう」表現の違いはあれ、さまざまな声の中でこのような声は私の耳に飛び込んできた。世界は分かってくれない、という空気はイスラエルに常に漂っていると私は感じるのだが、2001年9月11日のその時だけは「これから世界は分かってくれるかもしれない」という空気に一瞬変わったように感じられた。実際には「やっぱり分かってもらえない」という元の空気に戻ったのだが、私にとってはあの一瞬の空気の変化がとても印象的で、今でもその時のことを話すときにはこの声とそれで私が感じたことを取り上げることにしている。

さて、最初の質問に立ち戻れば、9.11と最近の「イスラエル映画」の波とは関係がない。これは断定してもいいと思うし、全く関係がないと言い切ることもできる。すでにその前年9月以降テロが日常化し、パレスチナでの軍事行動による惨劇が日々報道で伝えられるいわゆる紛争状態にあったイスラエルで、9.11以降何かが劇的に変わったのだろうか?と考えても私にはうまく見つからない。日常化した紛争報道の一つとしてアメリカから伝えられる9.11が新たな映像として加えられても、言説として何が新たに加わったのかは実はまだ私の実感としてはしっかり把握できていない。映像は随分前からすでに紛争や政治で充分うるさく、騒々しかった。

紛争報道は精神的に疲労感をもたらす。健全な精神状態を保っていつも通り日々の生活を送る(学生の私であれば学校に行き勉強する)ためには、ニュースを見ない、という積極的な選択があることを私も経験によって身につけていた。それによって映像でどんどん創出されたであろう9.11を私は見ないで過ごすことができたし、日々の生活を当たり前に過ごすことに随分とエネルギーを注ぐことができた。

最近のイスラエル映画の波、と言っても私が制作者に声を聞けたのは二作品に限られるのだが、共に「今や映像は騒々しくうるさくなってしまい誰も見たいとは思わない。映画はニュースでも報道でもないのだから、全く新しい映像で別の芸術や美を求めてもいいじゃないか」と言っていたことに私は非常に共感できた。また「日々の喧騒で見放されているもの、忘れられているもの、そうした誰でもが日々感じているはずの小さなものに目を向けてもいいじゃないか」とエラン監督もエトガー監督も同じキーワードで映画制作への原動力を語っていたことがさらに印象的だった。いずれも外側から見えるイスラエル映画の波とは関係がないのだが、9.11とイスラエル映画の波とが関係あるのだろうか?という問に対する答えとしては、経験また彼らの声に基づけば、私は関係がないと思う。

雪だるまはどこ?

全国の週間天気予報では毎日雪だるまマークが表示される「新潟」で2日から家族一緒にすごしているのだが、意外にも毎日太陽が顔を出してくれている。「雪だるまはどこ?」と船長と喜んで正月気分を味わっている。

自宅を出る前にはずいぶん船長と覚悟した。どんよりと重い雲が空を覆い、横殴りの雪、ワイパーを全開にしながら前方を凝視しての運転。おそらくそんなに外出はできないだろう、と毎日晴天の関東の冬に後ろ髪を引かれながら新幹線に乗った。ところが、である。天気予報では相変わらず雪だるまマークが並んでいるのだが、実際は明るい太陽に目を覚まし、まぶしい西日に目を細めながら運転する日々を送っている。あの天気予報を見る全国の人々は「新潟」では太陽など見えなそうだ、と想像しているに違いないが、実際は結構太陽が出ていて、雪も積もっていない。確かに新幹線から見えた越後湯沢や浦佐の辺りは真っ白だったが、新潟市内も、そしてこの辺りも積もっているとは言えないし、天気も案外いい。

あの全国の週間天気予報の「新潟」とはどこなんだろうか?新春からなかなか答えが見えない大きな疑問である。県庁所在地であれば「新潟市」だろうが、「新潟市」はここのすぐお隣である。雪だるまはどこだ?

新年の悲しいニュース

同じ人類学仲間で今でも連絡を取り合っているイスラエルの友人(このブログ参照)から件名「Bad News from Israel」というメールが届く。4月に出産予定の彼女からのメールなので一瞬ヒヤっとしたが、「あなたもお世話になったあの先生が永遠の眠りについた、新年の最初のメールがこんなんでゴメン」という内容のもの。私は直接彼の授業を受けたわけではなく、院生が担当する演習のスタッフを取りまとめる心強いボスとして随分とお世話になった。

以前このブログでも書いたが(参照)、イスラエル留学中、授業の演習を担当するスタッフとして一年間教壇に立ったことがある。一コマ45分。ただそれだけでも、初めてヘブライ語で人前に立ち授業をする、というそれまで経験したことのないものすごい緊張感とプレッシャーを目の前にして目が痙攣して夜も眠れないような日々が続いた。そんな時、スタッフ5名の前でその先生が「おそらく彼の気持ちを分かるのは俺だけだろう。俺もアメリカで初めて授業をした時、ものすごい怖かった。あれは怖いとしか表現できなかった。そういうものなんだ、それだけでも分かってあげよう」と言ってくれた。「だれでも怖いんだ」と自分に言い聞かせることで、緊張感が和らぎ何とか初めての授業に臨めたことをよく覚えている。

そんな心強いボスにとってその年が現役最後だった。彼の現役最後の演習スタッフとして私は一年間授業を担当したのだが、彼と他のスタッフの支えのおかげで、最後は教え子達と共に安心感、満足感、そして充実感と共に仕事を終えることができた。「よくやった」とねぎらってもらい、「ありがとうございました、お疲れ様でした」と先生の教員生活最後の日に挨拶したのが彼と言葉を交わした最後だった。

今、映画監督の通訳として人前に立っても、また舞台に立っても、冷静に仕事に打ち込めるのも、ヘブライ語で授業を担当したという経験と自信があるから。その初めての授業に臨む前に私にのしかかっていた「怖い」という緊張感とプレッシャーを和らげる一言を与えてくれた先生がこの世を去った、ということを聞き、寂しさと共に感謝の気持ちを持って彼の冥福を祈りたいと思う。

今年求められる「強さ」

あけましておめでとうございます!

大海に浮かんでも自分たちの居場所をきちんと確認し、進むべき方向性を見失わずに日々を一歩ずつ大切にすごしていきたい、漂流一家そんな新たな気持ちで新年を迎えている。

今年の課題は「強さ」。今年求められていることは忍耐力、継続力、そして持久力であり、耐えながらも先に進み続ける力。荒波に巻き込まれそうになっても、自分たちの手で舵を取り続け、逆風になっても自分たちの進路を見続けていきたい。当たり前のことに感謝して楽しく過ごす、という不動の心構えに加え、今年はそんな「強さ」を家族一丸となって培っていきたい。

今年一年もよろしくお願いいたします!
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