漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

  

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顔と顔をあわせる中東研究会

こうしてブログを書きながら言ったところで全く説得力がないのだが、顔と顔をあわせる場はやはり収穫が多い。先日、中東研究を専攻にする若手研究者(院生含む)が順番に発表する定期勉強会に出席したのだが、特に中東研究においてはそれが必要であることを改めて感じた。「院生になった秋吉久美子への思い」でも書いたことなのだが、基本的に同じ関心を持った者同士が同じ場に集まり、言葉を交わす、そこで得られるものは研究をする上で基本訓練。この研究会は、一人本を読み、パソコンの画面とにらみ合っている時間が多い私にとって、自分の状態を確認できる場でもあるので、特に漂流博士になって以降積極的に出席している。

私はイスラエルの人々とも政治的共同体としてのイスラエルとも長年かかわっていながら、日本での中東研究に関わるようになったのはここ数年のことなので、このような研究会に出席することは実は私にとって今でも新しいイベント。ヨルダン、エジプト、シリア、イラクなどの地域を研究する方々と私の間に、一体どんな共通の関心事項があるのかは正直未だによく分からないのだが、"あの地域"のことを日本語で冷静に議論する貴重な場であることには変わりがない。

中東は、それが断片的であって、せいぜい"あの地域"というぼんやりとしたものでありながら、一方で結構思い切った意見を持てる地域として扱われ、メディアはもちろん、研究者であってもどこまで根拠があるのか分からないことを「中東は...である」と平然と断定することが多い。そんな、イメージを支配しながら、また同時に支配されている"あの地域"中東の状況を目の当たりにすると、私はいつも違和感を越えた危機感に近い感覚を得る。一歩引いて冷めた視点で、かつ現場に接近して見る姿勢を失ってしまっては、それこそ危険な地域になってしまうだろうと思うからだ。そうした私自身の危機感を緩和しながら、現場に冷めた視点で目を向けられると思うのがこの研究会で、私も何度か発表の機会を頂いている。

先日は中東和平への日本のかかわりの歴史を学んだ。私は1990年以降は実体験もあるのだが、アラブボイコットを含むそれ以前のことはほとんど本で読む"むかしのこと"でしかなく、これまで私自身の歴史感覚では1990年代を境に断絶していた。ところが、先日その時代を実際に経験している方の話を聞いたことで、その1990年代を境にあった認識の断絶が少し解消された。同じ話をもし本で読んでいたら、と想像するとおそらくこれまでと変わらぬ"むかしのこと"でそこまでの収穫はなかったであろうと思う。その場には、他にもその時代を共有した方々も出席し、話がより立体的になったことで収穫が得られたのであろう。

現場を理解する、ということは何も現場に行けば解決するわけではない、と常々思っているのだが、逆に現場に行かなくても現場の理解を助ける学びは可能である、ということを学んだ研究会であった。
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金曜日は頭を使う

昨年4月調査のためにイスラエルに行った時、友人(この友人については漂流博士「ハッピーイヤーのハッピーニュース」を参照)が「SUDOKU」に噛り付いていて、へ~こんなところにもあるんだと驚いたことがあった。イスラエルでは金曜日の午後から土曜日一日が週末で、金曜日の朝届けられる新聞は週末でも読みきれないほどの厚さでドサッと届けられる。金曜日だけ購読する人も少なくなく、彼女も「SUDOKUのためだけに新聞をとっているようなものよ」と夢中だった。その後も電車やバス停で鉛筆握りながら数独とにらみ合っている人々を目にした。

ある日、駅のキオスクでそんな「SUDOKUブーム」にのってSUDOKUだけの月刊誌が売られていたが、思わずカメラを向けたのがこの一枚。上のヘブライ語は「エットゥガレイ・スドク」(スドクにチャレンジ!)。ちなみに、これ一冊税込みで19.90シケル、今だと1シケル30円くらいなので、約600円。その下に17.10とあるのは税抜き価格、そうイスラエルは消費税が高い!何%?金曜日のひと時にどうぞ。

SUDOKU

漂流博士、電車に乗る

電車に乗る。なんと2週間振りのことで、昨夜はちょっとソワソワ仕事にならず、麦茶を一杯飲んで落ち着こう、と冷蔵庫を開けると、さっき入れたはずの麦茶の色が出てない。変だな?水だけ入れてパックを入れ忘れたか、いや待てよ、パックは入っている、古いのを入れたままにしてたかな、と新しいパックに手を伸ばした瞬間、待てよ?と手が止まった。
古いパックを捨て、何かに手を伸ばす同じ動作をした、そのことをサッと体が思い出したのだ。だったらコレ何だ?色の薄い麦茶をコップに入れてすこーしだけ口に含んだ。すると、しばらく味のない沈黙の時間が続き、その後でジワーッと薄い味が控えめにあらわれた。うすーく、できるだけ、うすーく、口の中全体に広がるようにカツオ味は謙虚に広がった。ダシを使った料理を内側から覗いたような、貴重な体験だった。そこにちょうど入ってきた船長は「おっかしいね、麦茶パックは上に浮かぶのに、ダシパックは下に沈むんだね、ワッハッハ」と思いがけない大発見をして大喜び。貴重な経験と大発見でソワソワ感は吹っ飛んで、平常心で今朝を迎えた。

普段は船長と自宅で仕事が多いのだが、今日は久しぶりに映像翻訳のために渋谷に向かった。飽きるほど歩いた駅までの道のりも、久しぶりだと足取りが軽い。それに、獲物が待っている狩に出かけるような、手ごたえが確実な道のりは歩いても楽しい。久しぶりに電車に乗ると、人を見たり窓の外を見たり、視線が落ち着かない。一応本を持っていったもののやはり電車で読書は苦手な私は結局ボーっと過ごした。もうブーツをはいている人がいるのか、と横を見ればタンクトップの人がいて、家の中にはない季節の変化を人々が演じていたり、通勤の頃毎日眺めていた頃はまだ工事中だったデパートが随分色鮮やかに装飾され、オープン間近のフレッシュ光線を放っていたり、電車で移動する時間は予想以上に生き生きとしていた。

仕事は予想より遥かに短くシャキッと終わり、見物気分でセンター街を通り過ぎ、まだ軽い足取りのまま帰路に着いた。通勤の記憶はまだしっかり残っているので、電車が楽しい!とは言い切れないけど、こんな狩のような電車、それもちょっと興奮してソワソワするくらいの頻度だったら電車も悪くない。(参照:漂流博士「通勤電車研究法」

いい本の基準:『他者の権利』プチ書評

研究者には、研究(独創性)、書く、口頭で発表する、教える、といった様々な能力が求められるが、何より基本は読む力だと思う。私はこの読む力、というか読むことそのものが苦手。小さい頃から本を読んでも、何が書いてあったのかすぐ忘れてしまうし、「どうだった?」と聞かれても内容を覚えていないので全く答えられないことがしばしば。小学2年生の頃、祖父に送ってもらった『二宮金次郎』を読んだ後、祖父に電話で「どんなお話だったかい?」と聞かれ、しばらく考えた末「最後に死んじゃった」としか言えなかったことはちょっとした屈辱感と共に今でもよく覚えている。そんな私が、"お、この本面白い"と思えるには、とにかく簡単な言葉で分かりやすくないといけない。特に、この本で何を言おうとしているのか、何が言いたいのか、筆者の目標が序論で明確に伝わってくると、いいなこれ、とペースも上がる。

『他者の権利』は先日もちょろりと取り上げた最近の私のヒットなのだが(参照:漂流博士「収穫の秋、研究の秋」)、理由はその明確な序論にある。序論を読めば、筆者セイラ・ベンハビブが何を言いたいのかがほとんど分かるので、本を読むことが苦手な私でも、筆者と同じ足並みで読み進むことができて、「何が書いてあったっけ?」と一人迷子になることがない。この本はケンブリッジ大学で行われた講義の原稿を基にしている、ということも読むときには分かりやすい一因なのかもしれないが、講義でも本でも、いわゆる「つかみ」が重要だ。

本書では、政治的成員資格に焦点をあてることで、政治共同体の境界線が検証される。

これが『他者の権利』の第一文なのだが、いきなりこの本の目標から始まる。前置きなく、ガバっと本題に入る本は、筆者のピントも一つにビシッと決まっているので、ボヤッと本を開いてもすぐに読む戦闘態勢に入れる。私なんかはすぐに「政治的成員資格?」と一瞬頭に「?」が浮かぶが、

ここでいう政治的成員資格とは、外国人やよそ者、移民やニューカマー、難民や庇護申請者を、現存する生態に編入するための原理と実践のことである。

と、つかさず次の文でフォローしてくれる。その直後には「政治的境界線は、、、」と続くのだが、こうした読者思いのペースとフォローはうっとりとしてしまう。『他者の権利』という一見モヤモヤしたものを、これくらいすっきりとしたつかみで第一文から書いてみたいものである。

近代の国民国家の境界線は不可視であると同時に、政治的成員資格の加入および脱退を規制する実践と制度も不可視であって、理論的な検証や分析にかけられなかった、というベンハビブの問題提起に納得できるのも、直前の政治的成員資格と政治的境界線の定義付けが明確だからであろう。問題提起まで読者をしっかり引き付けておいて、

そこで本書では、国境横断的な移住が、そして国境を越えた諸国民の移動によって提示された憲法上および政策上の争点が、国家間の関係の、したがってグローバルな正義の規範理論にとって重大であることを論じてみたい。

ともう一段踏み込んだテーマを提示されると、読み手の頭の中には地球上で国境をまたいで移動する人々がイメージされてより具体的になる。

ここまででまだ1ページ、私でも「ベンハビブについていける!」という自信と安心を与えてくれる、素晴らしい「つかみ」である。

本を書く、という作業の前には研究と議論がかなり積み重なっていて、実際に書くのは短時間。私はまだまだその積み重ねの段階なのだが、その過程でこうしたいい本に出会うと、積み重ねた先の目標も明確になっていい。どれだけクリアーな一文で書き出せるのか、それが当面の私の目標である。

思いがけない出会い、工藤慎太郎

思いがけない出会いというのは、本当に思いがけないところに落ちている。

仕事も一息ついたので、散歩ついでに娘を連れて漂流一家でショッピングセンターに出かけた。メインイベントは前日見れなかった猿回し。しかし、残念ながらその日はショーがなかった。"残念だねー"とうつむきながら屋外に出ると、人がわさわさと集まっていて、何やら今から始まりそうな雰囲気。すぐにミニ・ライブが始まるというので、そのまま立って聞くことにした。しばらくして"さわやかな若者"がサッとステージに上がり、ギター一本で歌い始めたのだが、「うまい!」。漂流一家は思わずその場に一時停泊、途中ウルウルしながら最後まで釘付けになった。

「工藤慎太郎と言います!」歌うことが楽しくてしょうがない、そんなはじけるような雰囲気が終始会場を満たし、ストレートな詩とその歌声が私たちの耳に届けられた。とにかく、その歌唱力が素晴らしく、曲を聞くというよりも、その曲の中に安心して身を預けられるくらいの安定した歌のうまさがピカイチだった。ライブだからこそ感じられる、そんなアーティストの生の、そしてダイレクトな"声"に私も船長もまさに心が揺さぶられた。

「ストリートライブをしていた僕をデビューさせてくれた歌」と言うデビューシングル「シェフ」(2006年日本有線大賞新人賞)は、ノートに綴られたばかりのような、加工のない詩、それがまたよかった。27歳の彼に共感する、というのでもなければ、「そうそう、若いときはそんなこと感じるもんなんだよ」「俺もそうだった」とオヤジくさく、また郷愁に浸る、それがいいと言うわけでもない。工藤慎太郎として生きる、というもがきやパワーを詩にして、それを抜群の声に乗せて歌う、そうして届けられた真っ直ぐでエネルギーのある歌声に、ただただしびれちゃう、そんな感動だった。

完全にステージに引き込まれ、最後はステージ近くまで移動し、気がつけば最後の歌、ライブはあっという間に終わった。「すごくよかった、とにかくうまかった」と船長と感動を共有しながら会場を離れたものの、この揺さぶられたこと、しびれちゃったことを直接本人に伝えたくなり、一度離れた会場に戻ってCDを購入、それを持って本人のところへ行った。「たまたま立ち寄ったのに、すごくうまくて最後まで釘付けでした」「ぜひこれからも真っ直ぐでいてください」と伝えて握手、「まっすぐですね、わかりました。ありがとうございます!」という笑顔も上昇気流の真っ只中にいるそんな新鮮さが満ち溢れていて、さらにググッとくるものがあった。行ってよかった、満たされて一家で帰路についた。

ライブの感動やその時のふれあいまで感じられるCDは、一家の大切な一枚になった。もしかしたらずっと知り合えないかもしれないCD、それがある感動と共に我が家に流れる、すごい出会いだ。私はアンコールで歌った16歳の時失恋した思いを書いたという初めての歌「ひまわり」が一番よかったのだが、その曲がCDに入っていないのが残念だった。それに、バックバンド付のCDだと、アコースティック一本のライブのよさも、彼の歌唱力も薄くなっちゃうものの、ライブが抜群にいい工藤慎太郎を証明しているようで返って嬉しい。ただ、このCDをショップの視聴コーナーで聞いたところで買わないだろうな、と思う、無難にまとまっちゃってインパクトは薄い。それから、このジャケットや中の写真を見ても、私たちが見た工藤慎太郎のよさ、弾けるようなエネルギーが表れてなく、もし店頭で偶然手にしても棚に返してしまうだろうなという平均的なもの。まあCDはCD、あのライブはとにかくよかった、もう一度行きたいと思わせてくれるライブであることには違いがない。

オフィシャルサイトで調べると、ファーストアルバムが9月16日に発売されたばかり、まもなく全国ツアー開始、とまさに上り調子。星の数ほど歌を歌う人はいるけど、多くの人の耳に届くような歌を歌えるのはほんの一握り。CDでは伝わらない素晴らしい歌声とあのストレートさを持った工藤慎太郎が、次にどんな歌を歌ってくれるのか、それを楽しみに陰ながら応援していきたい。

私もそんな出会いにつながるような文章を書きたいな、とまた励みになった出会いだった。

収穫の秋、研究の秋

フリーになって最大の仕事テレビコーディネートが終わったら研究を、などと思っていた矢先にドカドカと結構な仕事が入り込み、結局9月に入っても狩の日々、船長と二人三脚ようやく仕事が一息。漂流一家はサバイブできる程度の一ヶ月の目標値を立てているのだが、漂流博士として船出して3ヶ月近く、幸いにもこれまで何とかその目標値を達成。私たちを選んで仕事を依頼していただけることの喜びは、徐々に安心に変わっている。食べる、という現実的な目標が落ち着いてきたところで、研究への気合をググっと入れるタイミングになってきた。研究での業績を上げるのは論文執筆であり、学会発表であり、その限られた土俵でどれだけ相撲が取れるのかにかかっている。その土俵の一つである学会発表があと一ヵ月後に迫った。

その発表の時間割が先日送られてきたが、なんと私は7人中7人目、オオトリである。学会後に懇親会があることを考えると、おそらくその日一番聴衆が多い、かもしれない。自然と準備に気合が入る。この学会発表は若手研究者の発表の場を提供するという趣旨によって設けられて今年で四回目。私のような発表の場を求めている者には嬉しい機会である。

博士論文を基に発表をするのだが、論の展開に幅を広げるために、と少し前に『リベラルなナショナリズムとは』(ヤエル・タミール著、夏目書房、2006年)を読み始めた。しかし、アハッド・ハアムがアチャド・ハーム(28)になるなどヘブライ語表記の訳も甘いことにちょっとテンションが下がり、さらに文が難解で主語と述語を見落としてしまうし、全然頭に入ってこない。そこで無理な抵抗は止めて、同時に購入した『他者の権利』(セイラ・ベンハビブ著、法政大学出版局、2006年)を手に取ったのだが、こちらは訳文もすっきりしていてなかなか面白い。

『他者の権利』はAmazon.com「この商品を買った人はこんな商品も買っています」一覧に出ていた言わば『リベラルなナショナリズムとは』のB面として購入したのだが、テキストデータに打ち込みたい文章も多く最近のヒットだ。何より、脳のシワがジワーッと広がるのを感じながら読み進められるのは嬉しい。
近代以降の政治共同体、すなわち現在の国民国家の境界の外側にいる、外国人やよそ者、移民や難民、亡命者といった「他者」に与えられるべき権利について議論しているのだが、それがアンチョコな正議論とは一線を画している点に好感を持てる。

私はイスラエルという政治共同体の境界の内側に新たな"帰還民"を、国民として取り込む過程に最大の関心があるのだが、この『他者の権利』は内側を画定することで浮かび上がる外側についての考え方にヒントを与えてくれるので大きな収穫である。

収穫の秋、読書の秋、漂流博士も研究へ集中の季節である。

プロ野球も最後は努力、天晴れ!カトケン

※最初に断っておくが、漂流一家はトラファンである。

プロ野球終盤になり、セパどちらも"激戦"となり目が離せない。といってもテレビ観戦はしてられないので、Sanspo.comで多くの情報を入手しているのだが、今日の一面「巨人・加藤、でっかいプロ1号3ラン」には船長共々感激してしまい、漂流博士「野球ネタ」の第一号に取り上げることにした。繰り返すが、我が家は巨人ファンではない。3歳の娘にとって野球とは阪神であり、阪神とは野球である。

私はカトケンこと加藤健がまだ高校一年生で、しかも甲子園予選の一回戦というまさに高校デビューの試合をスタンドから見ていたのだが、高校一年生とは思えない体の大きさ特に肩幅、そして肩の強さにしびれてしまい「覚えておこう、この選手」と頭にメモをした頃から陰ながら応援してきたのだが、船長も高校生の時に予選でガンガン打ちまくっていた頃からカトケンに一目おいている。我が家は夫婦揃ってカトケンの影の"応援団"である。

甲子園に出場した時には現在横浜ベイスターズでプレーする古木が注目スラッガーとして四番を打っていた愛知代表の豊田大谷と対戦し、一回戦で負けた。その1998年の秋のドラフトで巨人に上原、二岡に続く三巡目で指名され入団しているが(古木は横浜から1位指名)、サンスポのデータは1999年となっている。それは大きな間違いだ。1998年のドラフトと言えば松坂大輔の行き先が注目された年で、松坂本人は横浜を希望しながら、西武が交渉権を引き当てた年であり、まさに"松坂世代"がプロ野球選手に放出された重要な年なのだ。サンスポ訂正を頼む。

ちなみに、カトケンと高校時代バッテリーを組んでいた富樫投手はその後川崎製鉄千葉に進み、2001年に6巡目で日本ハムに入団した。

巨人に入団した後のカトケンは、阿部が入団(2000年)してすぐに正捕手の座に就いて以降出場機会が完全に絶たれてしまった。船長と「他の球団だったら試合に出られるだろうに」と巨人での活躍は半ば諦めていたのだが、ここにきて先週金曜日、そして昨日と貴重な活躍。船長と目を細めて喜んだ。

私は素人目に見てカトケンの魅力は肩で、バッティングは荒いし大したことないな、と思っていたのだが、最近の活躍は打撃だ。Sanspo.comを読むと今シーズンは4月からずっと特打を継続していて、ようやくスイングが早くなった、とコーチが感じた頃から結果が出るようになったと書いてある。そうか、やっぱりプロ野球選手も最後は努力だ。

昨日の試合、中日もいかにも中日らしいサヨナラ勝ち、しかも打ったのが中村紀。この時期になるとこういう勝ち方をするところが強い。阪神は期待の安藤が誤算、だが対戦相手がヤクルトというのがタイミングとして悪かった(ということにしておこう)。直前に悔し涙の会見を行った古田監督を見たヤクルトナイン、しかも神宮となれば「負けられない」といつも以上にテンション上がる。

だけど、阪神だって負けてられない。船長と長いこと応援している桜井が今年からようやく一軍で使ってもらえるようになったが、今日は頼むぞ、桜井!と予言のような期待を込めて。

通勤電車研究法

通勤していた頃は一日3時間近くを通勤、しかも朝は満員の中で費やした。座れるはずもない路線の中で、立ったまま。何ともムダな時間、と思えばそれだけムダなので、有効に使おう、と軽めの本を読んで見たり、単語を覚えようとしてみたり、四年間いろいろと試してみたものの、結局たどり着いたのは「ボーッと何もしないこと」。論文を書くことに集中した昨年一年も、その通勤の時間が意外にも有効に働いた。

通勤時間と勤務時間以外で博士論文を書くことになったので、少ない時間で少しでも効率のいい方法を考えた。そこで、家で本や論文を読む時、マーカーや付箋をつけたり横にチョロチョロメモを書く代わりに、それらを全て箇条書きですぐにパソコンに打ち込み、論文ごとに著者名と論文名でテキストファイルを作ることにした。

短時間で論文を書く作業は、特急列車に片道切符で乗っているようなもので、「あっ」と前の駅に戻っていられない。「あれ、確かスチュワートホールの論文で"同一化"という言葉があったけど、、、あれ、どの論文だったかな?」と再び大量の紙をかき回すほどの余裕もない。今やデジタルの時代、全てデジタル化してGREPを活かした検索機能を使えば、"同一化"と入力すれば一瞬で求めるデータに到達できる。その手を使わないわけはない。しかも、打ち込みながらその文章を再び丁寧に読むことにもなって、頭の中にも言葉の一つ一つがしっかり入る。本を読みながら、引用に使えそうな文章、自分が気になったこと、それを論文名、ページ数などの基礎データを含めて全てパソコンに入力する、という作業をしばらく行った。

さて、研究は入力することではない。インプットすることも研究ではない。私は、本を読む作業を通して、自分が持っている情報や乏しい知識と反応して生まれてくるボンヤリした何かをつかんで文字にすることが研究だと思うのだが、私は持っている情報や知識が少ないし、その化学反応までにえらく時間がかかる。本を読むと同時にそうした化学反応をキャッチして、すぐに言葉にして論理的に話をするような人を見るといつも尊敬する。私の場合は本を読んでしばらく経って、ボーっとしている時に「ポコ」と化学反応が起こる。いつも時間差なのだ。

そんな私には、本や論文を読みながら入力するだけではなく、それをボーっと振り返る時間が必要なのだが、それには通勤がピッタリだった。周りの人に押し付けられて、ストレスの充満した車内という全くかけ離れた空間に身をおいて、グターッと窓の外を見ていると、フッと「!」とひらめく瞬間が何度となくあった。それを忘れないようにメモに書いて家に帰ってまたデータにして、という作業を繰り返すことで全体的な構想は作られていった。

通勤時間がなくなって3ヶ月近く。あれを懐かしいとは思わないが、そんな中でも研究ができたんだぞ、ということを今の自分に向かって一度思い出させたく、書いてみました。

博士="好き"と"努力"が実る資格

同じ団地に住む小6の男の子が「この間さ、あそこにJリーグの選手がいた!」と興奮気味に話してくれた。ここは高級マンションではなく団地なのだが、プロの選手が住んでるのか?と聞いて興奮した。すぐ横にいた小2の女の子が「あのね、403号室、あと別の棟にもいるよ、サッカー選手二人いるんだよ」と追加情報をくれる。私は、プロのスポーツ選手には昔から弱い。

以前、おそらくまだオリックスにいた頃だと思うが、「今野球をやっている子ども達に一言お願いします」とメッセージを頼まれたイチローが、「プロ野球選手は努力でなれるものじゃありません。今練習してうまくなっている、という思う人はプロ野球選手になれないと思います」と、期待を大きく裏切る発言をしたことが非常に印象的で、同時に「なるほど」と納得したことを今でもよく覚えている。

世の中にはいろいろな"プロ"がいるが、スポーツのプロだけは努力だけでは到達できず、真似のできない能力を持っている人だと信じているので、今でもプロのスポーツ選手と聞くと、憧れの原選手(現:巨人軍原監督、ちなみに漂流博士今は一家で阪神ファン)に握手してもらおうと追っかけた頃の少年の気分になる。

私は子どもの頃から野球をやってきたが、プロ野球選手は同じ努力の延長線上にはいない人達、とずっと感じてきたし、今でもプロ野球を見るその目は変わらない。つまり、プロは才能が違うのだ。「いつかは僕も」と練習しながら、目の前のプロの選手が全く手の届かないようなプレーを見せてくれる。その遠さが夢や勇気を与えてくれるわけで、イチローのあの一言は一見冷たく聞こえるが、"プロ"のすごさを言い表していて、かなわないな~と拝みたくなる。

一方、博士はそうしたプロのすごさや才能と言うよりも、"好き"と"努力"が実る何ともありがたい資格に過ぎない。夢や憧れを与える仕事につながるわけではないが、"好き"と"楽しい"を感じながら仕事ができることは何とも幸せなこと。そのことを忘れずに研究者を目指したいと思う。

研究は楽しい!

昨日の『プロフェッショナル:仕事の流儀』(NHK)に出演した生物学者長沼毅氏が何度も「研究は楽しい!」を口にしていたが、そうなのだ、研究は楽しい!初心をくすぐられたようで非常にいい気分になった。

ただ、自分だけではなく周囲の人たちも「楽しい!」または「楽しそうだね」と思えなければ、「楽しい!」と仕事は結びつかないわけで、そのために研究者は口頭発表や論文発表で格闘する。その格闘の段階も仕事になればいいが、少なくとも文系の場合は格闘する資金がないことが多い。

そんな限られた経済状況でどうすれば仕事に近づけるか?が日々の課題で、我が家では家族でいろいろ工夫する。

私のヘア↓。今年の夏は暑かったからなのか、成長が著しく、こんな状況になってしまった。
髪の毛長い


我が家では髪の毛を切るのは船長、ということになっている。が、船長を知る人は結構驚く。船長は相当のおっちょこちょいでうっかり者。まだ生後数ヶ月の娘をひざの上におき、ということを忘れて立ち上がってゴロンと娘が頭から落下、とこの手の話はまぁ枚挙に暇がない。

しかし、「髪の毛を家で切れればどれだけ楽か、自分のしたいような形にもなるし」と本を借りてきて勉強し、最初は娘の髪の毛で随分と訓練して、そのうち私のヘアにも鋏が入るようになった。最初は耳に鋏が触れたりするたびにドキドキ(ビクビク)していたが、今では眠るほどになった。で、今日の完成品がこちら:

髪の毛カット後

よし決まった!スキッとした髪型、さすが船長!

今や10分1000円の床屋もあるので経済的には?と思われる方もいるかもしれないが、髪の毛を切りながら夫婦で楽しい話をして、自分の望むスタイルが確実に仕上がる、ことを考えると自宅で切ってもらうことに勝ることはない。

「楽しい!」を仕事に結び付けるまでにはまだまだ時間がかかる。ただ、その過程を辛いと思わず「楽しい!」と思えるのは、一人ではなく家族揃って歩んでいるから。「楽しい!」を共感できる家族がいれば、どんな道のりでも歩むことができる、そんな心強さはむしろ家族と共に研究者を目指すことでしか味わえない醍醐味、と感謝して「楽しい!」が仕事になるようみんなで進んでいこう!

AERAへちょっと補足

昨日AERAの記事を目にした。本当に目にした程度なので、細かいコメントは別の機会にして、「漂流博士」としてのコメントに一つ補足。

「院に何となく進んだ世代が多い」というのは実際に院の定員が増えたことと、私の周囲の行動を見ての印象で、どれだけが「何となく」なのか統計的なものがあるわけではない。身近な例として、部活の同期が10人いて、5人が就職、院に進んだのが半分の5人で、それも全員文系だった。うち3人は最初から進学を希望していたのに対し、私を含め二人は就職試験を受けてダメだったことが分かってから進学にシフトした。

ちなみに、最初の三人はその後も早めにPh.D.を取得して、現在海外でのポスドクを含め、全員定職に就いている。残り二人のうち、もう一人は修士を取って就職、その後もMBA留学するなど修士で就職時期を待った分ステップアップしている。となると、身近なところで「何となく」は私一人で、博士の就職問題もほとんど真犯人発見みたいな気恥ずかしささえある。

そんな乏しい"統計"にもかかわらず、他の見ず知らずの人たちまで巻き添えにして世代などと思い切った社会の輪切りをしたのは、私が大学卒業した1996年がいわゆる"失われた10年"の入口で、就職試験を受けたところで受かる見込みがかなり限られていたことと、その一方で院の定員が随分と増えて進学の窓口が増えた、という当時の状況を考えると、博士の問題は就職超氷河期と結構密接に絡まっている、と言えるような気がしてならないからだ。

博士が就職できないという問題を議論する時には、どうも当人達の視点が欠けていて、こんな社会背景を踏まえた中での博士自身が選択した過程も実は考慮しなければいけないのでは、と思って発言していることをここで補足させていただきたい。

「就職口がなかったことが問題だ」ということを言いたいのではなく、そうしたいろいろな背景の中で進学したり、そのまま博士を目指している人達がいる、というその過程の多様性を見ることは何においても重要であろう。

私もかつて就職口が見えず、アカデミックというものに希望も見えずに一度博士号取得を諦めたのだが、今回「諦めなかった博士」として登場しているのは正直嬉しい。

漂流博士AERAに登場

今日(2007年9月17日)発売AERAの「博士の就職力 学会も後押し」にこのブログ漂流博士が引用の形式で登場。AERAを見てアクセスしていただいた皆様はじめまして、漂流博士です。この度はアクセスしていただきありがとうございます。

今年の7月に4年勤めた職場を辞めてブログ漂流博士を開設し、就職できない博士の問題について、基本的に1)文系、2)博士号を取得した当人、3)今のアカデミック界の現状と社会でどうやって博士号を活かし研究者に向けて歩き続けられるのかを模索するという立場から、開拓者のような気分で書き続けています。

ちょうど、このブログ開設直後の7月3日にNHKクローズアップ現代『にっぽんの頭脳はいかせるのか?』が放映され、それについて「博士は日本の頭脳なのか?」でコメントしたのを最初に、時に「院生に実践の場を!」等の経験に基づく提案をしながら、日々の"開拓生活"を綴ってきました。今回のAERAでは主に「博士が就職できないという問題について」
(その1)(その2)(その3)を引用していただきました。

このブログは博士問題について物申す!というのがメインではなく、博士という資格を活かしながら経済的に生活を維持し、さらに研究者になる道を獲得するためにはどうしたらいいのか、という視点に立っているので、経済的にサバイブするために日々格闘している通訳や翻訳に関する話題についても、ミニエッセー的に数多く書き続けています。

日野原先生独占インタビュー


日野原先生からアポをゲット!

映像と文字:中川牧三先生宅訪問

全国古希野球大会


また、先日亡くなられたドキュメンタリー映画の佐藤真監督についてもほんの少しだけ接点があった関係で投稿させていただきました。

佐藤真監督:現場に対する一定の距離と執着心

博士論文は昨今イスラエルに移住するエチオピア出身ユダヤ人の受け入れ過程について、フィールド調査を行いイスラエル"国民になる"という視点でまとめました。その視点の一部は、
単なる番号、それが与える喜びについて

このブログでも少し触れていますが、基本的な関心である「他者や多文化を理解するということ、またそれは文字で表現が可能なのか?」という問いはこのブログを通して意識している点でもあります。

二ヶ月を振り返ると、イスラエル映画のステージトーク通訳(参照)、ドキュメンタリーテレビのアテンド(参照:1.2.3)などが研究に通じる大きな仕事で、現在は東京国際映画祭コンペティション公式作品に出品される『迷子の警察音楽隊』(The Band's Visit)の解説執筆が研究に近く、最も楽しめている仕事です。この映画は非常に面白い、お勧めです。

それ以外にはSwatch.comLast.fmのサイト翻訳/編集などビジネスサイトの英和翻訳も随分こなしてきているので、英和翻訳を探している方は是非ご相談下さい。英文に引っ張られず、かつ本筋から離れずに生きた日本語で訳すことには自信があります。

博士号は自からの意志で取得しているのだから、希望を捨てず工夫しながらでも研究者を目指そう!という夢を持ち続けるのがこのブログの基本的なスタンスです。書くということを仕事にしたいと希望していますが、まだまだ訓練中のようなところがあり、多々読みにくいところもあると思いますがお許し下さい。

初めてアクセスしてくださった方々、改めてよろしくお願いいたします。また、これまで応援してくださった方々、いつもありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。

ハッピーイヤーのハッピーニュース

昨夜は"新年"なのでイスラエルの友人と久しぶりにSkypeでおしゃべり。「最近どう?」と聞いても「相変わらずいつもと同じ」が彼女との会話の変わらぬ出だしなのに、昨日は「最近どう?」「新年でいい年に、そして私にも新しいことが起こった」「え?」「母親になるの」「そうか、それはおめでとう!」「あと、博士論文も来月にはやっと提出できそうなの」二重のハッピーである。

彼女はイスラエル留学時代に共に人類学の課程で学んだ学友。イスラエル国防軍の中でも、裏方の雑用班というだれも入り込まなかった空間をフィールドワークして修士号を取得し、ちょうど博士課程を始めた頃に知り合ってからこれまで6年くらい。彼女とは授業の後に「科学的、客観的に証明できる、って何よ、客観的なんてないでしょ、全て自分の目を通してるんだから、その過程をちゃんと認識しないとダメよ」と人類学の方法論についてガンガン議論したり、週末にご飯食べながら私のヘブライ語の宿題を見てもらったりした仲間。「結局さ、コーヒー飲みながら話をするのが人類学よ」と言うのをそのまま受け入れるくらい、中身のあるコーヒーを何度も飲んだ貴重な友人だ。

彼女は当時他の院生がそうであるように、学内で演習を担当したり、講義を開いたりしたりしながら細々とサバイブしていて(参照、漂流博士「院生の場に実践の場を!」)、「あ~また今月もマイナス、はやく給料もらわないと」と毎月言っていたのが、突然「今度マンション買うことにした」とマンションを購入したのには随分驚いたことをよく覚えている。

口座がマイナス、というのは他でもよく聞いた言葉でさして珍しいことではない。つまり預金するという感覚が私なんかとは大きく異なるわけだけど、それでもマンションが買えちゃう、というのもこれまた珍しいことではない。イスラエルでは結構若いうちから分譲マンションを購入することも、それを賃貸に回しながら自分の家賃を埋め合わすこともあり、なので院生でもそうしたケースはある。

「家賃なんて結局捨てるだけだし、賃貸は自分のものにならないんだから、やっぱり自分の家が欲しい」と早々と購入し、「でも一人でいるのはね~」と言っていたので、昨日のニュースは本当に嬉しかった。それにようやく博士に!「本読んで、もの書いて、それが仕事になるなんていいじゃない」とずっと言っていた彼女がようやくそのスタートラインに立てる、ということにも大きな祝福を送りたい。

イスラエルの漂流博士も着々と歩んでいる、幸せと勇気を与えられた気持ちのいいニューイヤーだった。

ユダヤの新年

シャナートバー!(よいお年を!)

ここ数日こんなメッセージがイスラエルから届く。そう、ユダヤの新年でイスラエルは祝日なのだ、こんな暑い時期に"よいお年を!"というのはいつも変だが、何となく一年を反省し、新たな一年先を期待を込め、あれこれ予想するリズムにフッとあわせてしまう。

ユダヤ暦に基づくため西暦のカレンダーの上では毎年"元日"が異なる。先日も来日中のチャンネル10のスタッフが「日本から帰ったらゆっくり休みた~い!で、今年の新年はいつだっけ?」「13じゃなかったっけ?」「いや14だったと思うけど」としばらくやり取りをしていたけど、どうもカレンダーを見るまで確実ではない、のはいつものこと。

ちなみに今年はユダヤ暦で5768年、天地創造から5768年を迎える、ということらしい。イスラエルでは日常的には西暦を使うものの、9月に開始する学校年度にはユダヤ暦の年数は好都合で、ヘブライ語のアルファベットを使って表記される。ちなみに今年、というか今から来年の9月頃にかけてはתשס"ח(タヴ、シン、サメッフ、ヘットとそのままで読む)。

この新年を境に、来週はヨムキプールと呼ばれる贖罪の日、その後スコット(仮庵の祭)とユダヤの祝日が続く。今日から3連休なんだっけ?と遠くに感じるのと同じくらい私の生活には直接関係ない暦だけど、一年を反省したり、収穫に感謝したり(仮庵の祭の意味については以下のリンク参照)、そんなリズムに合わせるのも悪くないな、と。

皆さんにとっても、よい年となりますように!

ユダヤ暦に関するリンク
ユダヤ暦に関してはこちらのサイトがお勧め、カレンダーも閲覧できます。
www.hebcal.com

日本語だとこの辺りでしょうか、詳しいの。
日本ヘブライ文化協会
ミルトス

日が暮れるのが早くなりました

日が短くなりました


日が暮れるのが早くなり秋の空気、仕事を一つこなしてほっと一息。家の近くの好きな場所で。

英文契約書翻訳との戦いを終えて

ある企業の英文契約書翻訳のために数日間閉じこもっていたが、先ほど提出。契約書翻訳は原文との睨み合い、まさに勝負である。例えば、こんなの、

The Franchisee declares and acknowledges that The Company and/or any of its agents and/or representatives and/or anyone on its behalf have provided no declaration whatsoever, neither verbally not in writing, concerning the sales, incomes, revenues and/or economic potential with regard to the operation of The Branch;

"declares and acknowledges"とクドクドの繰り返しで始まり、"The Company"と中学生でも分かる簡単な単語で油断させておきながら、and/orで右に左にかく乱し、ようやく";"にたどり着いて、ふ~っと一息つきながらその長~い一文を振り返ったところで「結局何なんだ?」とまた"The Franchisee"に戻ってかき回されて、そんな作業でビッチリ15pのワード文書と格闘すると、一戦交えたような空気が頭からつま先までド~ッと押し寄せる。

普段手がけている多くのコマーシャル文や一般的な英文は、読んでいくうちに文が自分の中に入り込んできて、いい文だと自分が文にも入り込んで行き、時には英文から私を見るくらいの原文と私との位置関係の大逆転さえ生じる。そうなれば訳者としてはしめたもので、原文も訳文も自分の言葉になって、翻訳は言葉を生み出す作業となり、楽しくウキウキとしているうちにあっという間に時間が過ぎる。

一方、契約書はどれだけ読んでも、その活字と私の距離が全く変わらずに、目の前にジッとしたまま動かずに、乾いた攻撃的な単語と文で、これでもか、これでもか、と攻めてくる。その攻撃に耐えながら、その乾いた英文を乾いた日本語に変換させてその攻撃性を弱めるのが精一杯。原文はずっとあっちのままで、私もずっとこっちのまま、翻訳が終わってもどうもまだ戦いが終わってないような、そんな思いをさせるのだから私は完敗である。

こんなところで英文契約書翻訳敗北宣言をしたところでしょうがないのだが、業務としては終了したのに、一戦を終えて振り返ると結局原文に手玉に取られたような悔しさが消えなくて、つい。

単なる番号、それが与える喜びについて

8桁の番号、ただの番号なのだが、手にしてちょっとした喜びがあった。

「カケン(科研)」と呼ばれる日本学術振興会の研究助成の募集要項が9月3日に発表され、私もサイトで該当分野の応募資格や締め切りについて確認し始めたところなのだが(ちなみに「若手研究」は年齢制限が37歳、42歳以下なので"若手"の定義は相対的なのだとシミジミ感じる)、基本的な条件として応募者はどこか研究機関に所属していないといけない。

多額の研究助成を支払う対象を、研究の場を研究機関によって承認されている者に限定するのはその合理性も考えて道理に適った方法であろう。私のように一度研究機関を離れた者には、研究室が使えて、図書館が使えること、すなわちある研究機関に研究することを承認してもらうことが最初の関門であって、研究機関に所属するという一見当たり前の資格を得ることは案外大きな一つの目標である。幸い、6月の退職を機に(元)国立大学に所属した「博士研究員」になることができたのだが、それはカタガキ以上の機能を果たしてくれることを改めて実感している。

まず、「博士研究員」を名乗ることによって、論文を発表する際などに「私は研究を生業にしようとする者です」と宣言する効力を与えてくれる。さらに、これが現実的には大きいのだが、研究助成などを申請する際に「所属機関」をきちんと名乗れるようになり、特に「カケン」に応募するには研究機関が取りまとめる「研究者名簿」に記載されている研究者であって、それを証明する「研究者番号」の入手が必要なのだが、「博士研究員」であることはそれを可能にしてくれる。

そうして発行された「研究者番号」がカケンの募集要項が発表されたタイミングで先週届いたのだが、そこに並んだ数字を目にして、新たな扉を開いてくれる鍵のような、また日本の研究機関に所属する他の研究者達の仲間入りを果たしたような、そんな小さな喜びがあった。

単なる番号がある社会へ所属する資格権利を表すことは、パスポート番号や身分証明書番号(日本にはないが)などでもお馴染みだが、個人的な経験としてそうした意味合いの番号を手にして何かしらの心の変化を実感したのは今回が初めてだと思う。

行政システムとしてのパスポートや身分証明書、また国籍という資格と個人の所属意識についての関係は、学部時代からの関心事項でもあり、博士論文でも取り上げている。イスラエルでは建国直後の1950年に成立した帰還法によってユダヤ人であればイスラエルへの移住(アリヤーという上ることを意味する語で表されるので、通常は帰還と訳される)と同時に国籍を入手できるのであるが、その国籍の授与は現在身分証明書の授与によって象徴的に表現される。

昨年実施した調査中に、エチオピアから移住してきた人々にこの身分証明書を授与する機会に出席したことがある。この「身分証明書授与式」は、移住者の一時滞在センターの長が「みなさん、おめでとうございます、これによって皆さんがだれであるのか、どこに所属しているのか、全て分かるようになります」との挨拶で始まった。その後エチオピア出身の人々がエチオピアの礼儀に従って左手で右手を握りながら右手で握手をして身分証明書を受け取り、さらにその身分証明書を手にした腕を上に掲げて喜びを表す瞬間がとても印象的だった。
ID受け取るエチオピム


IDをかざすエチオピム


実際に子どもを学校へ通わせて、就職して、さらに国民保険を受け取る、将来は年金を受け取るといった社会福祉サービスを得るためには国籍の入手が不可欠であって、そうした基本的な生活が保障されるという意味での喜びは当然あるであろう。しかし、国籍には権利を獲得して義務を果たすことの他に、いやまたそれ以上に、所属意識という目には見えないものが隠れていて、さらにその所属意識の獲得には喜びが伴っていることを考えると、身分証明書やそこに記されている番号が与える喜びはもっと複雑であって、手放しで喜べるものでもないのではないよな、などと「身分証明授与式」に出席した時に私はいろいろと考えた。

この度「研究者番号」を見た時、並んだ数字を見たときの喜びという心の動きはもしかしたらこんな感じだったのかもしれない、と私はその「身分証明書授与式」の光景をフっと思い出してしまった。「研究者番号」は所属意識を表すものでも、またそれを求めるものでもない。研究助成を申請するための「研究者番号」と兵役に呼び出されることも意味する国籍を表す「身分証明書番号」とは比較にならないことも充分認識している。しかし、単なる数字であっても喜びを感じることがやはりあるのか、という私の経験と、それによって「身分証明書授与式」の場面とそこで感じたことを思い出したことには何らかの関係がありそうで、まずはきちんと記録することにする。

イスラエル映画の新たな仕事

通勤していた時のような曜日感覚はすっかりなくなったのですが、ブログのカウンターで「週末なんだな」を実感します。

Skipシティ国際映画祭での仕事で好評いただき(参考ブログ漂流博士7月23日)、この度あらたなイスラエル映画を解説する仕事が入りました。この映画も面白い!

フリーの身でタイミングよく仕事が入ることは本当にありがたく、また仕事を評価していただいて新たに仕事を引き受けることほど嬉しいことはありません。

ということで、本日も楽しく仕事をしております。

院生になった秋吉久美子への思い

【お知らせ】原稿は朝のうちできていたのですが、FC2サーバーの障害のため更新が遅れました。
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理想の女性は?好きな芸能人は?と聞かれれば間髪いれず「秋吉久美子」と答えてきた。私が10代の頃から一貫していて、他の芸能人に変わったことなど一度もないし、今後も変わらないと確信している。つかみ所のない我が道行く感じがいいのだが、この度早稲田大学院進学が決まり、しかも関心分野の一つに文化人類学が入っているようで、思い込みだと知りながらも手に届く位置に近づいてきてくれたようでついつい胸はときめく。

何とも羨ましい、とは早稲田の現役院生に対してのミーハー的な気持ち、もまああるのだが、これからキャンパスに通う秋吉久美子である。離れて分かるのが、大学という空間が与えてくれる刺激である。院生ともなれば花のキャンパスライフとは無縁になる。しかし、似たような関心を持った友人と議論をし、最近読まれている本について意見を交わす、そうした対話があるのは大学という空間であるし、研究はそうした対話からフッと生まれることが多いように思う。本を読むのも、論文を書くのも結局は一人の孤独な作業で、院生にはその孤独感に耐えるだけの精神力も求められるのだが、そこに至るまでの対話が大きな原動力になっていることも確かだ。

院生は何も毎日大学に足を運ぶわけではない。論文を書く年はほとんど自宅に閉じこもる院生も多いだろう。しかし、いつでも対話の空間が確保されていることは院生でいることの特権であって、当たり前のようだがいざ大学を離れるとその空間は遠くなる。これは是非とも現役の院生に一度思い出して欲しいと思うのである。

「"個"への関心も進学の理由」とは秋吉久美子の所属事務所の発表のようだが、一人でつらつらと「個」について考えたいのなら何も院生になる必要もないであろう。新しい関心も対話から生まれる、まずは大学に足を運んで対話の機会を一つでも多く持って欲しい。そして、女優業で忙しいとは思うが、器用に論文を仕上げるだけではなく少しでも多く大学に通って欲しい。

秋吉久美子のことを思うとついつい熱くなってしまうのであるが、対話の意義を是非実感して欲しい、とは院生の皆さんにも是非伝えたいメッセージでもある。

佐藤真監督:現場に対する一定の距離と執着心

現場に行って見たものをそのまま感じさせてくれるドキュメンタリー作品、「エドワード・サイードOut of Place」(2005年)を見た直後のその感動を伝えた佐藤真監督が亡くなってしまった。

「阿賀に生きる」の人、としか知らなかった佐藤真監督が、中東しかもエドワード・サイードを切り口として映画を作る、と聞いた時は特別な期待が沸いたわけでもなかった。しかし、「さっき編集が終わったばかりで、私も今から初めて見るのです」と佐藤監督が挨拶をした初の試写会で作品を見た直後、怒りや正義といった紛争地を舞台とした作品にありがちな安っぽいメッセージ性が全くなく、現場の空気がそのまま伝わってくるようなストレートさに私はとても感動した。会場を出てその感動をどうしても伝えたい、と佐藤監督に歩み寄って話しかけ、佐藤監督が「勉強不足でしかも短期間で作ったので全然現地のことは分かってないと思うんですけど」と謙遜したのが最初で最後の会話となった。どうしたらあんなに現場の空気をそのまま伝えられるのか、いずれまた別の機会で是非お話を伺いたいと思っていたがそれはかなわぬ夢となってしまった。

この地域を扱ったテレビのドキュメンタリー作品は多数あるのだが、現場で何が行われているのかを伝えることよりも、最初から番組的な視点(物語性)に立った結論ありきで、映像も結局はその結論を縁取るために並べられているだけのような作品が多い。その中で、同作品はとても短期間で仕上げたとは思えないくらいに現場に根ざした冷静な視線が魅力で、途中に入る個別のインタビューの声にもずっと聞き入ってしまう。テレビと映画の違いもあるとはいえ、どれも同じ「ドキュメンタリー」と呼んではいけないのではないか、と思ったのもこの作品が初めてであった。

私はもう何年もこの地域に関わっていながら、佐藤監督のような現場に根ざした描き方ができる自信がまだない。それは描く主体としての視線の問題、それと描き方という技術的な問題、その両方がいずれも未熟だからという自覚はしているのだが、新たに「現場に対する一定の距離感と執着心のバランス」が足りないのだ、と佐藤監督を思い出しながら課題として突きつけられた気がした。

「一流とは継続すること」、4日のNHK『プロフェッショナル』に出演した靴職人山口千尋氏の言葉がまだ耳に響いているが、継続することを自ら断ってしまった佐藤監督の死は、現場をそのまま伝えるという当たり前のようでいてなかなかできない心構えや技術を若手に伝える機会まで断つことになり、本当に残念でならない。

謹んで哀悼の意を表したい。

35歳以上の特権:人間ドックへ

フリーだからこそ自分の健康は自分で守る。研究も、仕事もまずは健康から!ということで、本日は人間ドック行ってきます。

35歳以上だと国保の補助金が3万円。自己負担1万2千円で人間ドック。

という事実、実はあまり知られていない。船長がいろいろ調べて見つけたのだが、担当している病院に電話して「実際問題大勢来ても対応できないので、こっそりやってるんですよ」と言われると、しばらく浸れる位の喜びを感じてしまう。

自分の身は自分で守るべし、これも常勤的職に就いていない一つのリスク。しかし、探せばあるものですいろいろな制度。「正しい便の取り方」(説明書にそう書いてあるんです)に従い正しく取れたし、まずは行ってきます健康チェック!

老いも気から

もう一度だけテレビ取材ネタ。高齢社会と環境維持を軸にした取材を終えて一言、それだけは言っておかないと完全に終わらない。

環境については、NS両生類さんからのMy HASHIへのコメントで代用することにして、ここでは高齢社会について。

よく言われる少子高齢化という問題設定は人口減、それから高齢者を支える若手の減少といういずれも国家的な視点からの問題であって、個人の問題ではない。

番組ではその個人の生き方に着目した。今後さらに長寿社会になる中で、個人が長い人生をどう楽しむのか、先輩から学ぶことを目的としていたのだが、私も大いに刺激を受けた。

中川先生、日野原先生といった著名な方々をはじめ、古希野球の神戸ロマンズ、それから配偶者を亡くした70歳を過ぎて再婚して今幸せに生きる80歳の夫婦にお会いしたのだが、共通しているのは

「老いは気から、気持ちが若ければ体も若くいられる」

という心構えで皆さん元気だということ。

日野原先生は自身で設立した「新老人の会」で会員を75歳以上、75歳未満をジュニア会員と定義しているように、以前よりも高齢者が元気なのだから老人というイメージを自ら変えなければならない、と行動する。

80歳の夫婦は、人生は片道切符の旅、だからちゃんと楽しまなければならない、と声をそろえる。

周りで80と言ったらもうヨボヨボしてるけど、元気でいようと思えば元気でいられる。ジムに行って体を鍛えて、外に出るときにはちゃんとこうしておしゃれするように心がけているんだよ、というお二人はほんとにチャーミングで幸せ感が私にも伝わってくる。

古希野球については今回も一試合見せていただいたのだが、とにかく「昔は体が動いたのに」という振り返る一言がないことに大きな勇気を与えられる。今回も先発した投手は「川崎のときよりも球が走っとるな、今日は遠征もなく地元だからな」といい球を目の前で見せてくれる。

年金制度に基づいた65歳定年、それに自らの気持ちや健康状態まで合わせる必要はなく、いつまででも元気に生きる、その気持ちがあれば長寿社会を楽しんで迎えられるという勇気をたくさん与えられた。あくまでも個人の生き方、であるのだが、元気な高齢者が増加することは社会にとっても大きな財産ではないかと思うと、まずは自分が元気に年をとる、それを心がけるにはまだ早いが、30年以上経っても忘れないでいたいなと思う。

映像と文字:中川牧三先生宅訪問取材

取材最終日の29日、イタリアオペラを日本に普及させた大先生、中川牧三先生のご自宅を訪問した。故河合隼雄氏との対談『101歳の人生をきく』(講談社、2004年)が出版され、100歳というイメージを覆す現役音楽家の姿が強烈に紹介されたのはまだ記憶に新しいが、この4月にもイタリア・ボローニャにある自宅に足を運ぶほど元気な音楽家である。中川先生はこの12月に105歳、長寿社会に向かう私たちに少しでも勇気を、という番組内容に理解していただきこの度取材が実現した。

実は今回の取材は一度諦めた経緯がある。初めて7月に連絡をした際、中川先生は5月に転倒して以降入院生活を送り8月に取材に応じられるか分からない、という娘さんからの説明もあり、リハビリの進み具合を見守る状況だった。そして、取材開始した8月22日、やはりその後もあまり体調は芳しくないので取材に応じられる状態ではなく申し訳ないが諦めて欲しい、との連絡を受けて取材陣も一様に理解した。しかしその二日後、せっかくイスラエルから来ているのだからできる限りは協力したい、と再びご連絡をいただき改めてご自宅へ訪問することになったのだ。

今回の取材に向けて、番組内容とは直接関係ないのだが、中川先生が第二次大戦中に上海でユダヤ人難民の人道的保護にかかわったという内容にも関心があった。杉原千畝氏はテレビドラマになるなど大戦中にユダヤ人を保護した人物として有名だが、その他の人々の活動についてはどうもはっきりしない。そこで、今も元気に生きていらっしゃる中川先生に直接当時の話を聞いてみたい、という思いも小さいながらあった。一世紀以上生きている方、古希野球でプレーする方々よりもさらに30年以上も生きているというのは想像もできなかったからだ。

取材当日、お昼過ぎに自宅に到着し慌しく部屋に入ると、シャンとした姿でソファに腰掛けている男性が目に入った。中川先生である。先日取材をさせていただいた日野原先生は本当にお元気だが、首の角度や腰の角度などから90歳を越えているという外見の年齢は否めない。しかし、中川先生は背筋もしゃんとして、顔立ちも本当にすっきりとしていて80歳位にしか見えないのだ、そのスッキリした様子にまずは驚いてしまった。

それでも、「これでも入院してから体重が10キロも落ちてしまって、その前はもっとしゃんとしていたんですけど」と娘の久仁子さんは入院以前のもっと元気だった頃の様子を語る。さらに、体重が落ちただけではなく、入院生活で体力も減退し、いくつか病気も患っており、ベッドから起き上がるのも入院してから今日が初めてだと聞き私は何とも恐縮した。目の前に一世紀以上の歴史を知っている中川先生が座り、お話をいただける、というだけで私は感激だった。

一方、リポーターはじめ取材陣はお話だけでは物足りず、何とかテレビ的に現役音楽家としての中川先生の様子を取材したいと翻弄していた。すぐ横にあったピアノを弾いて欲しい、座るだけでも、とリクエストは出るのだが、四ヶ月ぶりに初めて起き上がった中川先生にはソファから立ち上がるのも腰が痛み大きな負担だ。リポーターはいろいろ頭をひねって「オーソレミオ」を口ずさんだりするのだが、中川先生はニコニコ見ているだけで一緒に口を開くことはなかった。中川先生はイスラエルからのお客さんを向かえるということだけで大きな第一歩であったのだ。

結局ご自宅での取材は1時間、お話をうかがうことはできたが、現役音楽家としての映像は取材ができなかったというテレビ的なまとめで取材は終了した。

取材陣が家を出て機材を片付けている間、私は最後に中川先生としっかりと握手をしたのだが、その大きくツヤツヤした手を握っただけで理由もなく目頭が熱くなってしまった。ほんの一時間お話をしただけだが、104年生きるというのは私たちが言うほど先生にとってはスゴイことではないのかもしれない、と言うのが私の第一の感想だった。しかし、握った手からは想像も絶する生きた深い時間がジワジワと伝わってきて、そのまま私の全身に伝わってきて胸と目頭をキューっと押し付けてきた。そんな経験ができたこと、私は先生を目の前にお話できたこと、また最後に手を握れたことで満たされた思いで家を後にした。

取材陣は映像資料を集めている、しかもロケというのはその場、その瞬間での映像記録にこだわる。ピアノもなく、歌声もなく、座ってお話しする姿から現役音楽家は描きにくい、というのも仕事の性質上理解できなくもない。彼らはこれから今後の編集で頭を悩ませるのだろう、元気な現役音楽家を映像で描きたい、という当初の予定に照らし合わせながら。

私は調査に出かけると文字しかない、という限界を感じる。私の後ろからずっとビデオカメラを回すカメラマンを同行すれば何て簡単なんだろうか、と思うこともある。

しかし、今回の取材を通して、表現方法としての映像はやはり強いが、その資料の収集過程を見ると映像の完全勝利ではないよな、と改めて学ぶことが多かった。

取材陣や番組内容によって取材の過程はいろいろあるとは思うが、取材をするという意味ではカメラをどこに向けて何を撮るのか、ということと、何を見て何を聞いて何を書くのかということはいずれもある制限の中で行われている。カメラであってもペンであっても何か意味のあるものを最初から求めているのであって、その意味のないものは最初から除外される。カメラは限られたフレームでしかのぞくことができず、さらに録画を中止すればそれ以降何もない。ペンの場合も全てを書くなどということは不可能で、どこかにフレームを設定して、記録をするものとしないものに分けなければならない。ただ、ペンの場合には取材者がフレームを少しでも広げることができる。その可能性に改めて気づくと共に、ペンであっても文字を扱う能力によっていかようにも描くことができるという希望を胸に、まずは10月の学会での発表、そして論文発表を目指したいと思うのである。

ひとまず日野原先生取材写真

一枚だけなのですが、部屋に入ってすぐにカメラを回して取材をしたところ、先生のオフィスです。あいさつもそこそこに、非常に気さくにお話してくださっています。

その後、フロアーをスタスタ歩き取材班が大慌ての様子は私も一度見失ってしまったので、撮れていません、、、残念。
Dr Hinohara

猛獣使い終わる

テレビのスタッフは国がどこであれかなりエネルギッシュで、しかも海外ロケとなると「もう今しかない」というプレッシャーもあるからストレスと緊張感がグワーッと盛り上がっちゃう。今回はそこにガンガン言いたいことを言うイスラエル人4人というもう一つのエネルギーが加わっているので、現場の「もう止めて下さい」と言う声を無視して「遠くから来てるんだからあと数分、あとちょっと」等と押し切る強引さで、まるで猛獣である。

そうか、私の仕事はそんな猛獣達を連れた猛獣使いだったのだ、と振り返ると目がクラクラになってしまい、心身ともに平常に戻すまでに丸二日間かかってしまいました。

テレビは映像、絵で作る。目に入る情報はテクストよりも強烈で、分かりやすい、それが強さでもあるんだろうけど、制作の過程を見ていくと絵になるものを追うがために見落とさざるをえない弱点があることも見えてくる、それを何度も感じた9日間だった。

私はテクスト(文字)でしか表現できないのだが、インプットされる情報は目に見えるもの、聞こえるもの、何でも全て資料になることができると言っていい。一方、テレビは目に見えてそれだ、と分からないといけない。私が面白い!と思っても絵にならなければ採用されない。(明日へ)
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