漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

  

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求められ、求められない35歳:漂流博士一ヶ月

公園で娘と遊んでいると、小学校4年生くらいの少年三人が近づいてきて「すいません、一緒に入ってもらえますか?」と真剣な目で私に聞いてきた。「あと一人足りないんです」手にサッカーボールを持っているのが目に入り、なるほどそういうことか、とその状況が理解できたものの「お、いいぞ!」と返答する代わりに、「ごめん、ほら今子どもがいるから」と断わると「だから言ったじゃんか」と別の少年がポーンとボールをけって三人は行ってしまった。

3歳の娘が一緒にいたことを考えると致し方なかった、とは言うものの、きっと私に勇気を出して声をかけたんだろうな、と少年の気持ちを察するともっとあたたかな断り方はなかったものか、と今でもふと思う。

しかし、実はそんな断り方よりも、35を目前にした今でも小学生に一緒にサッカーやろう、と声をかけられたことを他の35歳男性に自慢したいくらい誇りに近い喜びと、でも、次はもうないかもしれないなというちょっとした寂しさの両方、そんな入り混じった微妙な感情をこの一ヶ月前の場面を振り返りながら思い出す。

求められる、同時にもう求められないかもしれない、それは35という年齢の社会的、経済的な役割を表しているようにも思える。

私は博士という資格の活かし方は何も大学や研究機関だけじゃないだろう、とは思っているものの別にアンチではないので、求人情報は調べる。そこで応募資格、しかも年齢を見ると、35歳というのは一つのボーダーであるということに気づく。それは突然決められたわけじゃないが、いくら自分が求めても、求められるタイミングは限られているのだということをその数字からしみじみ感じる。

このブログにも書いてきたように、私は35歳が人生の折り返し点だとも、ピークだとも思ってなく、むしろ始まり地点だと思っている。しかし、求める場所と求められる場所というのは適宜変化しているわけで、中でも今しか求められない場所というのもあることも忘れちゃならん、と思う。

求められる、のは自身の意思ではないものの、待っているだけではこれまた不充分なわけで、求められる声を聞き分けるアンテナが基本的には必要になってくる。

私が「漂流」に込める希望は、そうしたアンテナを張りながら、求める、そして求められる方向性を適宜見極めながら進んでいける、柔軟性と判断力である。

フリーになると今日と明日のことに視線が落ちてしまいがちになるけど、もうちょっと先に上げながら進んでいかないと、と漂流博士が船出して一ヶ月の今を思う。

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高校野球で燃える"いま"

大抵のことは何とでもやり直しがきく、だけど絶対に戻れない時は必ずあって、それが手の届かない遠い過去じゃなくふと腹の奥から燃え上がるような今の力になる経験はきっと誰にでもある。私にとってそれは高校野球であって、今でも夏の予選を見ると負ける悔しさ、そして終わってしまうことの安心感と喪失感が入り混じったような何ともいえないスコーッンとした感情が全身を覆う。

この同じチームでプレーをすることはもう二度とない、終わってしまう、という選手の気持ちに一気に近づいてしまうし、さらに、人生を少しばかり経験することで、選手以上に「終わってしまう」ことの重みが冷静に理解できてしまい、試合終了と同時に泣きじゃくる選手を見ると今でもグッとくる。

娘を連れて見に行った埼玉予選準決勝第二試合。延長サヨナラの試合を目にして、私にはまた、あの両手を万歳にしたサヨナラのランナーがホームに向かってきた場面が色濃く蘇ってきてしまった。そして、終わってしまった高校野球が、またメラメラといまの闘争心へと火をつける。

博士号取得はこれから始まる人生の第一歩。終わってしまった戻れない時を経験できたことよりも、これからまだ燃えることのできるスタート地点にいることの幸せを確かめながら、一歩一歩、足並みそろえてやるしかない!

父親=ジャマのイメージと役割

今日目にしたPigeonのメルマガクリックアンケート:

「前回のアンケートは"パパが一週間休みで家にいるとしたら"でした。その結果は、なんと「ジャマです」が一位!」

なんつう結果!と一瞬ムッとするも、よく考えると「亭主元気で留守がいい」は20年経っても色褪せてないし、「主人在宅ストレス症候群」というのもある、のだからこのアンケートはこの結果が想定されていたんだろう。実際メルマガ編集者本人が最後に(その気持ち、よく分かります)と実感込めて一票追加してる。

父親=ジャマなイメージは新しくもなんともない。船長と「確かに、そういう家庭って多いんだろうね」と想像もできる。ただ、それを妊娠・出産・育児をコンセプトとするPigeonが助長するのはいかんだろう、という気になる。

先日久しぶりに電車に乗り広告がジャンジャン目に入ってくると、疲れていないといけないような気になってくる。「疲れた体に」「ストレス」「リフレッシュ」そんなフレーズに、思わず自分の健康状態や食生活を振り返った。幸い、私にそれらは無縁だ。

健康で、疲れてない。しかし、油断していると「疲れたからだ」「ストレス」「リフレッシュ」の波に飲まれてクラクラしてくる。

イメージに左右されずに、自分の居場所を確保して、自分の意見を持つということがさらに求められた時代だということを改めて思う。

そのためには、父親=ジャマのイメージの波に押し流されないように、家庭でちゃんと役割を果たすことが必須だと思う。

「父親の役割とは?」

きっとそれは各家庭によって違う、そのことが忘れられているのかもしれない。家族の形態が変わっている時代なのだから、夫婦の役割だって話し合わないとどれがいいのかなんて分からない。

「父親=ジャマ」のイメージの裏には、そうした「父親はこうあるべき」というイメージや思い込みが夫婦別々にあって、共有できていないような気もする。

こんなことを、通勤なくて、家にいて、それで仕事ができるのが最高、と三週間を振り返りながら考えた一日でした。

離れてこそイスラエルの人々が身近に

自宅で仕事をするようになって三週間、随分イスラエルの人々が身近になってきた。これは全く逆説的な感覚の変化である。

通勤していた頃、職場ではイスラエル人をずっと目の前にしてヘブライ語を話し、イスラエルの政局をフォローする日々で、他人からは「まさにイスラエルの中心にいる仕事ですね」と言われても、四年間一度もピンと来ることがなかった。

簡単に言い換えれば、自分が経験してきた複雑に絡み合った色とりどりのイスラエル社会やイスラエルの人々という理解が全く感じられなかった。イスラエルの人々、社会、国家というものが、職場でいとも単純に表層化されてしまって、目の前にイスラエルの人々は存在するもののペロ~ンとしたまるで二次元の存在だった。

今は朝から目の前にいる家族と顔をあわせ、日本語で過ごし、翻訳はもっぱら英語。イスラエルの友人とのメールも英語なので、ヘブライ語と言えばせいぜい取材打ち合わせのために一週間に二~三回プロデューサーと電話する程度。明らかにイスラエルの人々からは遠い位置になった。

しかし、感覚としてイスラエルの人々は近くなっている。フリーになったことで、一言では言い切れない出身地、食文化、母語などの複雑な人々について触れたり、語ったりする機会が増えてきたからだと思う。

先日のトメル・ヘイマン監督の映画の内容やステージトークもその一つ。それに、最近特に相談を受ける日本市場進出を狙っているMade in Israelの品々を作り出す職人達。

思わず大人が欲しくなりそうなデザイン家具、玩具のShani Hay:
KINOKO


そして、元々グラフィックデザイナーだったのに、ある日夢だったファッションの道へ転身、デザイナーとしてのキャリアと夢だったファッションを形にしたアクセサリーLK Jewelry

それに、文具デザイナーのこのホームページは楽しいので一度ご覧になること超お勧め!(要最新JAVA)
Yaron Elyasi

市場が小さいので、返って職人技に打ち込めるんだろうか?"他人と違うこと"を美徳として作業しているんだろうな、と思えるような作品を目にしながら、呼吸を伴ったイスラエルの人々が身近に感じられて少しホッとする。

青空効果?

目を覚まして空を見上げると久しぶりに青!きもちいい!外に行きたい!

「A社に電話して取材アポとらないと、でも明日でも変わらないから、まあいいか」「次いつ晴れるか分からないし、今日という日はもう二度とないのだから」と自分の正当化はいくらでもできる。

スーツに着替えて、電車に乗って、門をくぐれば「仕事」が始まって、何があろうがなかろうが、最低定時まではそこにいる。そこにいる、ということが仕事の一部みたいなもんだし、そこから青空を見上げているだけでも、つまりは仕事だった。

フリーとなった今、仕事は具体的な成果や結果を達成することであって、報酬はその都度その成果に対して得ることになる。そこにいる、だけではダメなのだ。

だから、青空を見ていても仕事にはならない。けど、青空を見ることによって求められている以上の成果や結果が得られるのであれば、、、

そりゃぁ青空を見たほうがいい。

今抱えている翻訳やコーディネーションは、、、

夜だってできる

電話が来たら、、、

携帯を持っていけばいい。

青空の下で体を動かせるのは今しかない!

ということで、今日は出かけることにします!

トメル・ヘイマン監督

トメル監督一日目

来日直後、一日目トークショー(7/17)


トメル二日目01

さっぱりした二日目(7/21)


打ち合わせで熱く語るトメル監督

打ち合わせで熱く語る(7/21)


二日目のステージトーク

拍手喝采でQ&Aを終える(7/21)


上映後囲まれるトメル監督

上映後囲まれながら質問に答える(7/21)

映画祭を通じて感じた近さと遠さ

会場を出ようと顔を上げると、トメルが一点を見つめて顔をこわばらせ重い空気を発しているのが視野に入ってしまった。そこまでの距離を越えても落ち込みようはヒシヒシと伝わってきた。

上映は早々に満席で、上映後のQ&Aでは会場との一体感を感じ、時間切れで会場の外に出た後もしばらくその場を離れられなかったくらい大勢の人に囲まれて質問攻めに合って、写真撮って、「今日は言うことも言えたし、やったな!」とツヤッツヤの表情で二度目の上映を大満足で終えたのが昨日、なのだから、落ち込みようは無理もない。

漂流博士一家も「もしかして」と思わず会場に向かったのもその昨日の余韻があったからで、その盛り上がりを真正面で感じていた監督自身がグランプリに自分の作品を呼ばれなかった時の心境など、ほんの数時間通訳を務めただけの私ではうまく表現する言葉を見つけることができない。通訳は他者の言葉があって初めて仕事が成立するということ、そして通訳者と話者とは実は他の誰よりも言葉に依存した関係であることをちょっとした寂しさと同時に感じてしまった。

それでも、昨日のQ&Aは彼の言葉がうまく日本語に乗って会場と交流ができた、と少なくとも日本語担当の私は手ごたえがあった。

ヨレヨレのスウェットに型崩れのスーツに無精ヒゲ=トメル監督だったので、「やあ!」と散髪してヒゲ剃ってTシャツとジーンズで現れた青年がとても同一人物だとは思えず「昼間っからテンションたっかいな~」とちょっと引き気味に目をそらして、それから数秒あって「ああ、元気!」とガッチリ握手。「さて、ここら辺に座ろうか!」と早速打ち合わせに入る。見た目も、発するエネルギーからも火曜日に感じたものとは全く別人だったものの、こちらも前回の反省を胸にいいものを!とかなり具体的な意気込みがあったので、すぐに二人のギアはトップに入った。いい滑り出しだった。

さて、打ち合わせ中に盛り上がりながら会場ではあまり触れられなかったテーマの一つが「インタビュアー"する"人と"される"人の境界」について。

これはイスラエル留学中に文化人類学方法論やエスノグラフィー論でガンガン議論して、私もその哲学的な視点にかなり影響を受けて博士論文にも微力ながら反映させたテーマだったので、トメル監督の口から「メラアイェンとメルウヤン」というインタビュー"する人"と"される人"というヘブライ語が出たときには懐かしさもあってつい食いついてしまった。

「ペーパードールズ」はその境界が徐々に消えていくところをかなり意識的に出している。「撮り始めた頃の俺の馬鹿げた質問なんて顔から火が出るくらい恥ずかしくて出したくなかったんだけど、でも撮り終えた今では自分が「ペーパードールズ」の監督というよりも、一員と言った方が適当だし、自分が彼らと出会うことでかなり価値観の転換やものを見る視点が変わったことが大きな収穫だった、それをしっかり出すには監督として一歩引いて見ていたような自分の姿を外すことはできなかった」とかなり力説して、「それお前何とか言ってよ」と振られるものの、二度目のQ&Aは監督の声を聞くというよりも、もっと会場の質問を聞くのが目標だから、とその場の二人の話に留めることにする。も、やはり監督が来日して直接会える機会を閉じ込めてしまうのはもったいないので、ここに書き残すことに。

30分以上充分な議論をしたことで、トメルと私の間では今日は何を言おうか、というポイントを二人で合意して壇上に向かうことができた。前回と大きく違うのはその準備段階での練り具合だった。少ない質問も膨らませながらポイントを強調することができたのは、頭の中にひかれていた補助線がはっきりしていたからだった。

トメルが話しながら乗っていくのは真横で感じられた。言葉が違っても分かり合えるものは確かにあっても、言葉が違っては分かり合えないものも確かにある。この時は事前に言葉が違っても分かり合えるものを確認していたので、彼の口から出る言葉にすっと自分の言葉を乗っける作業ができた。監督あっての通訳であり、その監督と二人で言葉に共感しながら共通の言葉を紡ぎだす様な仕事ができたことは贅沢な仕事だった。

ちょっとだけ文化人類学。他者のことを調査しようと近づいていくと、トメル監督のような境界越えを経験するときがある。それを経験しながら、"書く者"となると変わらず、しかも文字という限られたメディアの中で、文化人類学者はどうやって他者のことを描くことができるのか?そもそも他者と自己との境界がどこに設定されているのか?境界を設定しているのは実は他者を描こうとしている自己であって、その政治性をどう自覚してどう文字に反映させるのか?これらの問いを維持しつつ論文を書くのはかなりのエネルギーが求められるが、やはりここをきちんと抑えないと学問として残りきれないのではないかと思う。

そんな、トメルと共有できる領域を感じたのもこの映画祭であれば、(少なくとも現時点で自分が置かれている立場での)アカデミックと映画が大きく違うことを感じたのもこの映画祭であった。

「映画はつくる人がいて、そして見る人がいてそこで成立する」が今日の閉会式で印象的な言葉になったのは、私が調査方法だ、文字だ、博士だ、と言っても、不特定多数の「読む人」を想定した覚悟という点では今回の映画祭でノミネートされた監督や制作者と全く比較にならない位に自分は甘く、そこをガツン!と食らわされたような痛みが走ったからだ。不特定多数の読む人を頭に浮かべながら、その一人一人に伝えることの覚悟を持ちたい。

作品は見られる、という覚悟が私に欠けており、その点で映画制作者との間にははっきりと境界がある。これは自分で越えなければならない境界なので、あえて自分で設定してもいいだろう。映画人の一員になることはないだろうけど、作品をつくる、そして上映して、できれば直接フィードバックをもらう、その覚悟と経験をより多くのフィールドの人たちと共有できるような研究者を目指したいと思う。

予感当たるか!急遽出勤

今日はSKIPシティ国際Dシネマ映画祭の審査発表。

当初予定はしていなかったものの、何か予感を感じて、クロージングセレモニーとパーティーに出席することに。

昨日のステージトークショーは監督の呼吸と合ってかなり手ごたえあり。その様子は近々、まずは今から川口に向かいます。

週末のないリズム

このブログへ週末訪問する方は少ないのでちょっと一休み。

ただ、漂流博士はフリーなのでカレンダーの暦と関係なく仕事。今日は以前紹介したイスラエル映画のトークショーの通訳。もしご都合つけば遊びに来てください。

Skipシティ国際Dシネマ映画祭にて
14時から「ペーパー・ドールズ」。

対等な娘との会話

仕事は重なる。仕事を引き受けて電話を切った直後、別の依頼が入る。「急いでるんだ、ビザが切れるしすぐに訳せるか?」焦った声のこの手の依頼は得意分野、何を訳したいのかも想像つく。

「俺の独身証明だけど、ホント数行だけ、いくらかかる?」予感的中。住所を確認すると「待ってろ彼女に代わるから」と電話口に若い女性が出る。

「もしもしぃ」とだらけた声。何となく結婚する、喜びがあるわけじゃないけど、別に何も変わらないからいいじゃん、一言だけで勝手に想像する。自分の娘がこの手で結婚なんてしたら泣くな~と親の気分。

夕方までに投函すれば翌日には間に合うので、超特急で仕上げる。依頼人からしたら電話して24時間以内に翻訳が手元に届くんだから、我ながらいいサービス。

投函した足で娘を迎えに行く。木曜日は同じ三歳代が多いので満足度が高いらしく上機嫌で帰宅する。今日はさらに絶好調。もうノリノリでよくしゃべる。

相撲を見ていると:
「うわっはぁは、みてみて、朝青龍が裸で歩いてるょ」

「ねえ、朝青龍はちゃんとシャワー浴びたかな?」
「え?」
「だってさ~、ちゃんとシャンプーしたかな、朝青龍の頭がさ~、こ~んなになってるの(と握った手を頭にのせ)、洗ってんのかな?」

娘にも幸せな結婚をして、幸せな家族をつくって欲しい、が今日のテーマ。

父親"である"とは?

父親の役割と意識について心理学的視点から卒業論文を書いている、という大学の後輩のインタビューを受ける。

大学時代、私は一学年8人、留学生を含めても全体で40人位の寮で人間関係の濃い~生活をした経験があるんだけど、一度も会ったことのないような後輩でも「寮の者です」と言われるとその濃さを共有している仲間と感じてしまう。そんな初対面の後輩と「父親とは」を語った。

インタビューの中で「父親であることをどう受け止めているか」について問われて、しばし返答に困った。そう問われると、娘と接する時に「父親である」という明らかな意識があるわけではないし、振り返っても「今日から父親だ」と運命的な転換を感じたこともない。授かったことが分かった瞬間も、娘が生まれたことが分かった瞬間も、緊張や喜び、感動、責任は感じても「俺は父親だ」という意識とは違う。

もしかしたら、娘が結婚する時に強烈に「親父なんだな~」と寂しさと共に感じるのかもしれない、とこれから20年以上も先(であることを望む)のことを勝手に想像したけど、彼の質問の意図とは違う。

私は父親である。保育園の書類や健康保険の書類など、行政上は自分の名前の横に父親と明記するし、その都度自分は娘にとって何なんだろうか?と悩むこともない。しかし、後輩が聞きたいのはそんな行政上での分類ではなく、役割や意識といった見えない関係性でのこと。と考えると、目まぐるしく展開する日々と生々しさを父親であるという狭い枠組みに押し込めることはできないよな~と返答できなくなる。

で、悩んだ末の後輩への返答:

「あまり自分が父親だという意識で娘と接していないのかも。三歳とはいえ家族三人が今や対等で日々向き合っているから、父親とか母親とかそういう前提で役割分担したこともないし、父親だからどうだとか、母親だからどうだとか、家族の中の関係性でそういう意識をすることもない。子どもはどんどん成長していくから、当然関係性というのは変わっているけど、それは自分の人生の幅が広くなるような、厚みが増すような感じであって、父親意識が高まったり、父親としての役割を果たさないと、という意識とは違う。だから、こういう関係性を「父親である」という一種外部から押し付けられたような表現では言い表せないんだよな~」

そう考えると、資格や行政上の分類が役割や意識と一致しているかのようについつい考えていることって多いな~と、後輩の卒論に協力して自分の研究についても考えさせられた。

肩書きの便利さと先入観

「肩書きは何にしますか?」う~ん悩むな~、「○○大学教授」だと簡単なんだけどそれもない。戸田奈津子さん位だと「翻訳」だけでもドンとおさまるけど、実績もない私だと「バイト?」みたいでしまりがない。

川口市のSkipシティで開催中の国際Dシネマ映画祭にイスラエルのドキュメンタリー映画、Paper Dollsがノミネートされていて、今日は監督のトメルが来日して会場とのQ&A。その通訳が仕事なんだけど、映画を100倍楽しく見るために映画の背景にあるイスラエルの社会状況についても説明することになったので、「通訳」だけだとしっくりこない。結局「イスラエルの現代史を専門とする」と「漂流博士」を具体的にほぐした現在進行形の内容で紹介してもらい、舞台での仕事が始まった。
PaperDolls Poster


監督は今朝到着したばかりだけど、荷物はロストラゲッジになっちゃったので、スウェットに不精ヒゲ、ヨレヨレのジャケットに帽子とほんとに長いフライトを終えて飛行機から出てきたままの格好。それでも「映画監督ってやっぱり違うな~!」と感じさせちゃうから「映画監督」という肩書きは羨ましい。しかも、彼は長年撮り続けてきた年季の入ったビデオを手にしているので、見た目そのものが「ドキュメンタリー監督」で「粋だ!」とオーラさえ感じさせる。

一方、私は脇役でしかない、、、だからこそ新品のズボン、しっかりプレスのかけたシャツで臨んだ。フリーで仕事を引き受ける今は、全てが一本勝負。初めて会う人と仕事をして、仕事が終わるともう会わないかもしれない。だからこそ、第一印象で「だらしないな~」と思われたらそれでおしまい、身だしなみとイメージには気合が入る。

さて、映画はトメル監督の今日の冒頭挨拶がこれから見る方へのPR。

「おそらく海外のメディアは表層の単純化したものしか伝えられないと思うけど、実際には多層で複雑な社会イスラエルをこの映画では描いている。その意味で、日本で上映できて嬉しい。そして、本来ならば全くつながらない、フィリピン出身の外国人労働者、しかもトランスセクシュアルな人と、敬虔なユダヤ教徒が、ふとしたことからつながっていく。「同性愛者」「外国人労働者」「宗教家」そんなカテゴリーに関係なく、人と人がつながっていく、そんな出会いの魅力を感じて欲しい」

二度目の上映と監督Q&Aは川口市Skipシティで21日土曜日14時から。是非!

「現場からの声」地震の取材受ける

夜も1時半になる頃、電話がなる。そんな時間普段は寝ているのに、今日は映画通訳の準備をしてたので、たまたま起きてはいた。けど、こんな時間の電話に「もしもし!」と普通に出るのは安売りのようで、とりあえず不機嫌に出る。

受話器越しに聞こえるこの雑音、国際電話だな、と思うと「すいません、ごめんなさいこんな時間に。まずは謝ります」と女性のヘブライ語。「今、夜中の1時半だけど。偶然起きてたけど一体何?」と安売りはイカンと不機嫌を続ける。「知ってるわ、こんな時間に電話してすいません。イスラエルのチャンネル10の者ですけど」とひたすら謝った後にようやく名乗る。メディアで働くイスラエル人独特のスピードとトーンで「今回の地震のことについて話して欲しいんだけど」といきなり本題に入った。

「あの~その時間掃除とかしていて気が付かなかったんだけど」
「まったく?二回目も?」
「二回目?余震でしょ?」
「いや、夜の11時半頃二回目があったの違う場所で」
「そういや、その時間はここでも感じた」
「どんな風に?物が落ちたりした?」
「いや、ただ揺れただけ」
「朝のは全く揺れなかったの?」
「そういえば、船長(とは電話では言わないけど)の実家があっちの方で、電話したらかなり長く揺れて怖かったって言っていたよ」
と知らぬ間に向こうのペースで助け舟を出してしまう、
「けが人は?家は壊れなかった?」
「いや、みんな無事、だけどかなり揺れて怖かったって」
「家族の名前は?」
「(一応苗字だけ伝える)」
「私の義理の父のお兄さんはまさに震源地でまだ連絡が取れないんだよ」
「大丈夫なの?」
「だから電話もつながらないし、分からないんだよ、現場はライフラインも確保できてないし、食事だってないんだから」

そんな地震なのに全く感じなかった私のコメントなんて全く説得力ないよな~と感じながら最後まで安売りはせずに電話は切れた。

5分位すると、

「すいません、邪魔すんのもう最後だから」と同じ局の別の人から電話がかかる。「そっちが夜中だって知ってるんだけど、ホントゴメン。今回の地震で原発について何か聞かなかったか、それだけ教えてくれ」ともう声が必死。

きっと彼も上司に言われて電話しているんだろうな、みんな大きなシステムの中で求められた仕事を達成するために必死なんだな、と思うと急に協力的な気分になってきてちょうど一時間前に見た「朝日新聞」の記事を参考に、「引用だけど」と断ってと少しだけ話す。

今朝のテレビをつければどこも「現場からの中継」。現場の住民はテレビだって見れず、食事だって手に入らない状況にいるわけで、不安な顔で中継しているカメラの向こうに立っている。イスラエルでは地震を感じなかった私のコメントが「現場からの声」に使われたのかもしれない。

本当の現場って説明したり、ご飯食べれないくらい切迫していて、「現場」なんて感じている余裕はないはず、「現場」は現場にいない者が想像力を欠いて一方的に決めるところ、そのことを忘れてはならない、と改めて思う。

裸で死ぬ、、、までどんな服を着るか

「人は裸で生まれて、裸で死ぬ、そのことを何故だか忘れてしまうのです」と私がメモをとったのは、きょう、大宮教会で行なわれた特別礼拝で聞いた日野原重明さんの一言だ。

8月にイスラエルから撮影クルーが来るときに、元気な日本の高齢者の代表として是非インタビューをお願いしたい、ならば直談判!と思っていた矢先に通勤途中にポスターを目にして今日の日を楽しみにしていたので、台風も振り切って出かけていった。

周りに座っていた教会員の方のように首を縦に振りながら終始「なるほどね~」とひたすら感動しっぱなし、というわけではなかったものの、一時間の講演の中で何度か訪れた日野原さんの人生経験がぎゅっと詰まった一言は、そのまま手帳に書き留めておきたいな、と思わせてくれた。

「裸で死ぬ」の他には、「苦しみの後に忍耐があり、その後に喜びがある」そして「いのちとは、自分が自分のために使えるその時間のこと」の全部で三つ。特に"いのち"については、「苦しみや争いの中にいて、自分の時間として使えない人たちがいる。そういう人たちは"いのち"が感じられん、ということです」という言葉が今でも頭の中に響いている。

そして自分を振り返った時にいまのこの時を、そしてこれからを見据えて、船長と話をしたり、娘と遊んだり、本を読んだり、そして仕事をしたりできているのは、まさに"いのち"を実感している幸せ者だなぁ、と改めて感謝する。

さて本題、「人は裸で死ぬ」。結局人は裸で死ぬんだから、名誉や私利私欲のために生きても結局はむなしい。ということは、表現の違いこそあれミッション系の高校時代に結構耳にした言葉だった。そう言えば、そう言うことをよく聞いたな、という付箋みたいなメモだったものの、死ぬということへの私と日野原さんの意識的な距離なのか、メモをしながら今日は自分の中に新しい反応があった。

「裸で死ぬ、、、のはそうだけど、今生きているこの瞬間しゅんかんまで裸っちゅうわけにはいかんだろう?」という今の自分からの声だった。正論は時に"いま"を超越する。30代半ばで、社会の中でどんな位置づけができるのかを考えつつ、今まさに家族三人で船出したばかりの私にとって、「裸で死ぬ」ということはずっと先のことで、それよりもどんな服が似合うのか、どんな服で表現したいのか、がやっぱり身近に頭の中を駆け巡っている。

この時代に、この空間に生を受けて、そして世界中の誰とでもないこの家族と時を一緒に過ごす中で、時代、社会、家族、自分の全てと向き合ってしっくりする服を探したり、体にあわせて直したりすることが今の私達には"いきる"ことなんだ、と「死ぬ」ことを考えながら実感した。

「裸で死ぬ」時に、家族と「この服一緒に作ったね、こんな形にこんな色、自分達にしか似合わないよね」と思い出を語り合いながらたためる、そんな服を身につけて生きていきたい、と思う。

講演が終わってすぐに日野原さんに講演の感謝をして握手をしながらインタビューをお願い。生きるためには働かないと。「人はパンのみで生きるのではない」けど、パンがないと生きられない、その目的もしっかり果たして実のある特別礼拝だった。

漂流博士、法廷に立つ

名刺交換しながら、ヘブライ語と日本語の通訳/翻訳やってんですよ、と自己紹介すると「へぇ~珍しいですね~」と羨ましがられるものの、「珍しい」は仕事だと厳しい。

ヘブライ語は希少言語なので、仕事機会も希少で「珍しい」。全国でもそれほど人数がいるわけではないけど、仕事の機会が少ない分競争は常に全国規模で繰り広げられる。

競争の激しい主なヘブライ語通訳の一つ、法廷通訳の依頼が急遽入った。場所は東北。久しぶりの依頼なので、ガッチリと確保し、新幹線に乗って東北方面に向かった。

新幹線の中で起訴状などを下読みし、しっかりイメージをつけて法廷へ。通訳は裁判官、検察官、弁護士が口から発したものを訳すのが主な任務。

被告人がヘッドフォンをつけて通訳がマイクで話す機器が整っている場合だと、同時に進行していくので、法廷で今何が行われているのか、という空気を感じることは結構難しい。

今回はそうした機器がなく、裁判官も検察官も「ではここまで」と丁寧に一時停止のサインを入れてくれたので、それぞれが話している間は聞きながら傍聴席を眺めたり、被告人や弁護人の目を見たりできて、初めて法廷の空気を感じることができた。

通訳人は裁判官の真下という、法廷全体を見える位置に座る。野球で捕手を務めた時期が長い私としては、「しまってこうぜ~」と言いたくなる、そんな場所が通訳人に与えられる。

今回は本当によく見えた。緊張しているというよりも、長期の拘留で疲れきった被告人と、何となく「イスラエル人だってよ、見てみるか」と軽いノリで座っている人たちの傍聴席のアンバランス具合、そして最もキリリと顔を引き締めて、エネルギーを発している検察官。そして、すでに対応を決めているのか、のんびりと経過をうかがう弁護人。

そうした全体の空気を感じられると、通訳としての自分の役割を冷静に理解して、その場に馴染んでいくような通訳が必要、ということを今回初めて実感した。

私は通訳の個性にこだわっているものの、法廷ではそれは極力抑えてきた。しかし、今回法廷全体を見渡し、疲れた被告人の表情を見たとき、反射的に彼に適した表現の仕方が思い浮かんできた。その表現が被告人によく伝わっている、ということも今回通訳人としてはっきり実感できたのは嬉しい収穫だった。

希少言語で希少な機会をしっかりと獲得するためには、他とは違う個性をしっかりと確立しなければ、と改めて思う。公正さと事実の理解という法廷での基本事項を維持した上で、その場と伝える相手に適した表現を見つけ出していく、それが法廷通訳の役目なのかもしれない。

言葉は機械ではなく、人間が語るもの、そこに通訳人の仕事があるという魅力を感じながら、帰りの新幹線に乗った。

なんだかんだ人生は短い(その2)

35歳って結構ターニングポイントだよな~と実感しながら帰宅すると、ポストに「神戸ロマンズ」から手紙。

「神戸ロマンズ」、70歳以上だけの古希野球チーム。

といっても、おじいさんの野球、、、ではない。

勝負にこだわり、日々練習に励み、今は来月の全国大会優勝を狙う現役バリバリの野球チームなのだ。

8月末にイスラエルのテレビ局が取材する際に日本の元気な高齢者として出演していただくことになり、その承諾の手紙が送られてきた。

手紙も熱い。先月行われた西日本大会を振り返る内容で始まる。経験をつんだ左右三名の層の厚い投手陣をそろえ、6点リードしながら後半逆転されて野球の厳しさを味わった、と悔しさがまだ滲む。手紙の主で「神戸ロマンズ」の総監督である小西さんはかつて糖尿病で歩けず、喋れずの状態から還暦野球の存在を知り、若いころ打ち込んだ野球で再びグランドに立つことを目指し、77歳を迎えた今では元気に白球を追う。それも、楽しんで白球を追うだけではなく、勝負に勝つために追っているのだから、すごい。電話口での声にもツヤがある。

古希野球チームは全国に100以上ある。同封されてきたチーム紹介はどれも現役のエネルギーに満ち溢れている。「銀ちゃんは一球目から手を出すからダメなんや」と病床で搾り出すようにして88歳で逝った監督の「遺言」に奮起した銀ちゃんが、次の試合でじっくりと見極めてきれいにヒットを打つとその日は三安打、チームは劇的なサヨナラ勝ちで沸きあがった、と読みながらゾクゾクする元気いっぱいのチームがゴロゴロしている。

35歳でターニングポイント、、、

いやいや、漂流博士があと35年生きてやっと古希野球のルーキーじゃないか!

フリーの宿命

フリーの仕事ってなぜだか重なる。忙しい時に限って「お願いしたいのですが」と依頼が入る。

「船長!どんどん押し寄せてきますどうしましょう!」

「前進あるのみ!」

漂流博士邁進中につき、「なんだかんだ人生は短い?その2」は明日続きますので、お待ち下さい!

なんだかんだ人生は短い、、、(その1)

三歳半になる娘の急成長を見たり、同年代の活躍を見ると最近思う、「なんだかんだ人生って短い」。

仕事の合間に六本木で同年代の友人二人とご飯食べる。海外に行ったはいいが、「○年行ってました」という時間はやけに強調するんだけど「何やってたの?」という中身がよく分からない「なんちゃって留学」が結構同年代に多い、という話題にそれぞれの経験談が飛び出して盛り上がる。

漂流博士世代が大学卒業した1996年は超氷河期で、周りを見渡しても就職しない仲間がゴロゴロしていた。寮の同期で就職したのは8人中2人、残り4人が大学院進学/留学、あとは就職浪人と留年だったし、部活の同期で就職したのは半分、残り半分が大学院、というのが漂流博士が経験した進路の統計だった。

ちなみに、漂流博士は大学院進学。ただ、大学院を目指したというよりも大学院が自分に向かってきた、と表現した方が的確な博士倍増計画の序章時期故のいいタイミングだった。

海を渡れば何とかなる、という発想はきっといつの時代でもあるんだと思う。だけど、1996年頃は氷河期と言ったって渡航費くらいは簡単に稼げたし、多くは学生時代にすでに海を渡る練習はしていたし、何たって就職先が少なかった。そんな中で日本社会に背を向けて、まずはフラリと海を渡ったのが案外多い世代なのかもしれない。

それから10年以上経過し、何か手につかむわけでもなくフラリと日本に戻ってきたものの適応できず、職も見つからず新たな課題に直面する同世代。統計はないけど、掘り起こせば案外まとまった層を形成しているんじゃないかと思う。

社会の中で自分の居場所を見つけなければいけない、ということは就職、進学の区別なく時を過ごしながら身につけていくもので、海外であろうが日本だろうが関係ないよな~、という見解は三人が納得した。

35歳で生きるすべを見つけられないともうやばいだろうな~、40歳過ぎるとさすがに焦りそうだよね~とうなずきながらランチを終えた。

帰路一人になると、他人事だと思ってい話していた「生きるすべ」が突然自分のこととして降りかかってきて、残り一ヶ月で35歳を向かえる漂流博士はちょっと引き締まった気分になった。

漂流歯かせ

左下奥から二番目と三番目の歯。口を開いた時に治療されるこの場所のこの感触、もう何度目だろうか?

もう10年以上前に一度型を取って銀を詰めたのに、その隙間から虫歯になった。手がシワシワの爺さんが、「なんだ今畜生」と力任せにグイグイとその銀を取ったのがこの奥歯君たちの壮絶な人生の始まりだった。

イスラエル留学中、そこの詰め物が取れたので「つけてください」と、とホコリまみれの建物に足を運ぶと「うわっはっは、こんなもの持ってきたのか。こんなんただのプラスチックじゃ!」と手のひらに乗っていたその詰め物をポーンと上空に飛ばしてあっけなく消えた。

で、そこでつめなおした銀が一年もたたないうちにまた取れた。「あそこは腕がいいぞ」と新しい歯医者を紹介してもらってバスで向かった。

そこはロシア系出身の医者が経営する歯医者。今やイスラエル人の5人に一人が旧ソ連出身なのでおどろくことではないが、彼らは日本から来た、と言うとかなり食いついてくる。

ロシア語訛りのヘブライ語で、奥歯の治療で口が開きっぱなしの私に向かって「日本じゃ何食べてるんだ?」「みんな金持ちなんだろ」とお構い無しに質問攻撃をしてきた。私はサービスだと思って精一杯の努力で対応した。途中で目の前に「FUJI」と書かれた薬剤を見せて「これは日本製、こいつが頑丈で一番いいんだよ、高いんだけどさ」と教えてくれた。きっと、私のサービスと努力へのお返しだったのかもしれない。

この二本の歯だけが経験積んだな~とさいたま市の歯医者で口を開きながらぼ~っと思い出していた。2007年7月5日。

漂流博士、狩に出る

通勤していた頃と同じ時間に家を出て、同じ電車に乗って、同じ経路で同じ方向に向かっても、なんだか違うんだよな~。

自分が社会にむき出しに晒されて、何だか風通しがいいのだ。同じくらいに混みあって、特にこの時期のムワッとした熱気があっても、肩からヘソにかけてす~っと軽いものが心地よく流れる、いい感じ。

今日は朝から営業回り。ウォーミングアップがてら霞ヶ関の弁護士会に「当番弁護士の登録」へ。所定の用紙に記入して免許証で本人確認をするだけの簡単手続き。悩んだ末に職業欄には「通訳者」と記入。

私のようなフリーランスは、その場その場で職業がコロコロ変わるので、「あなたの職業は?」という質問が一番困る。博士ってのは資格だし、研究者って希望だけどまだ違うし、、どっちかって言うとフリーターなんだけど、弁護士の通訳を引き受けるのに適した職業じゃない。フリーになって始めて実感、職業というのは面倒だ。

ランチは銀座で新聞記者と約束があったので、霞ヶ関から日比谷公園を通って銀座へ歩くことに。日比谷公園を通るのも仕事の一つなので一石二鳥。

今抱えている最も大きな仕事が、8月下旬にイスラエルから来日するテレビのコーディネート。日本の環境保護対策がテーマなので、ビジュアル的に「都心にある緑」となりそうなポイントをうろうろしながら探す。一箇所見つける。よし!。

ちょっと満足しながら日比谷公園を出て、「コーディネーター」は終業。住所だけ片手に、太陽の光で方向を感じながら何となくカンに任せて銀座の「左京ひがしやま」へ向けて歩く。

勤務中にお世話になった方と、「改めてよろしくお願いします!」ランチ。「○○のAさん」という肩書きがなくなったので、初めて一個人で向き合えた感じがしてすごくいい。

アカデミックとジャーナリズムの垣根を緩く、もっと交流していくことで生産的な議論が生まれるのではないか、という話しで盛り上がる。これは私の目指す一つの方向なので、話しながらメラメラと研究者希望の思いが燃え上がる。

研究者への希望を改めて胸に感じながら、渋谷へ。それにしても、この人たちこそ何なんだ?という人ごみをかき分けながら今度は映像翻訳の営業へ。

ニュースその他の映像資料をヘブライ語から日本語へ翻訳する仕事。勤務中は午後6時以降か土日のみという非常に限られた時間枠にもかかわらず使っていただいたので、まずはそのお礼。

そして「今度はいつでも飛んできますから、どんどん仕事下さい!」と頭を下げ、「フリーになりましたので、ギャラをあげてください!」とさらに頭をぐぐぐ~っと下げてひたすらお願い。私はお願いは単刀直入にする。熱意が伝わったのか、どちらも了承していただき、達成感を胸に帰路へ。

こうしたライフスタイルだと仕事は狩に出かけるようなものだ、と今日実感。狙いを定めて、しっかり射止めて、収穫したものを家族の待つ家にもって帰る。

今日一日で何か確実な仕事を確保したわけではないものの、収穫は大だったような気分で玄関を開けた。

漂流博士が船出

 先月一杯で四年間勤めた職場を退職、漂流博士としての生活が始まった。30歳で初めて就職した記念すべき場所を去り、改めてアカデミックの道へ歩みだそうとする第一歩を踏んだのだ。その心境を表すとすれば「卒業」であり、人生で何度も味わってきたまっすぐに伸びる道を目の前にしたときの、あの何ともいえない胸の高まりを35歳を目前にした今再び感じられるのは極めて贅沢である。しかし、これまでの卒業と違い私には家族がいる。この先の道のりを歩くのは一人ではなく家族全員であって、そのため覚悟と生きていることの実感もこれまた贅沢すぎるほど生々しい。

 初めて社会人生活を始めた四年前とは、形となる成果を得ることなく未完成のままイスラエルの留学を終えた時でもあった。社会人生活を始めてすぐ、その未完成の留学を完成させるべく博士論文を完成させよう!と夫婦で誓ってほぼ四年。終わらせなければ始まらない、それをひたすら言い聞かせて昼は仕事、朝と夜は論文という生活を乗り越えて今年の一月に学位論文を提出。晴れて三月に博士となってひとまず留学の成果を完成させた。

 博士号を取得することは今や研究職に就こうとする者に求められた最低限の資格でしかない。大学を含めた研究機関を研究者専用列車にたとえるなら、博士号は入場券どころか入場整理券程度の意味しかない。「研究者になりたければ博士論文くらいは書かないと認めないよ」と言いながら、博士論文を書いたところですぐに研究者になれるほど研究職の現状は甘くない。研究職に就くには、そんな根性試しのハードルが一番最初に待っている。しかし、プロ野球選手は根性だけじゃなれないが、博士はそれができるのだ。根性勝負なら負けてられない、このスポ根魂が論文執筆のもう一つの大きなエネルギーだった。

 博士号取得してすぐに大学や研究機関へ就職するケースは極ゴク稀だ。「朝日新聞」(5月22日)は「漂流する博士」でその現状を報告し、その中で「任期付職でしのぐ」と博士の就職口が広がっていないことを指摘している。しかし、私は任期付職や複数の非常勤で食いつなぐだけが博士の生き方ではないと思っている。

 じゃあ、どうやって生きていくのか?それがこのブログの大きなテーマである。私の場合、まず第一に根性勝負に勝ったのだからこの先何でもできるんじゃないか、という全く不確実な確信と、その勝利が家族全員によるものだからきっと間違いない、というさらなる不確実な確信がある。その確信に立って、ヘブライ語の翻訳や通訳、またイスラエルと日本のビジネスコーディネートでの生計維持を目指している。

 漂流することを嘆くのではなく、目標に向けて家族と手を取り合い進みながらどう流れを自分達に持ってくるのか。地に足付いた日々を送りながら、自由に道を切り開く。漂流博士の船出である。
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