漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

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村上春樹氏イェディオット紙インタビュー

随分時間がかかってしまいましたが、ようやく村上春樹氏がエルサレムに来たときのインタビューの訳ができたので以下掲載します。長文ですが、よかったら読んでください。どうやら、インタビューと言うよりも、写真を撮りながらの会話をインタビューにしているようで、記者が事前に用意した内容に村上春樹氏の言葉を差し込んでいったという印象をうけるのですが、いずれにしても、いかにしてイスラエルで村上春樹氏が受け入れられて、いかにして村上春樹氏がイスラエルまで来たのか、ということを感じられる興味深い内容になっています。


                     大物作家、イスラエルにて
2009年2月15日付け
イェディオット・アハロノット 別冊 24Hours;4-5

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 日本人の著名な作家村上春樹氏は、ガザの厳しい映像を目にしてエルサレム賞の辞退をほぼ心に決めた。しかし、何度も悩んだ末、とにかく訪れることを決断した。「イスラエルには僕の読者が大勢います。彼らと語りあうことは僕の義務なのです。」単独インタビューで村上氏は、日本文化と欧米の境界に生きる自らの人生について語り、インスピレーションを得る源となる内面に広がる暗黒の領域をさらけ出し、なぜそれほどまでに走ることに熱中するのかを明かした。
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 エルサレム賞受賞のため第24回国際ブックフェアに向かうべきか、村上春樹氏は何度も悩んだ。欧米で最も成功した日本人作家と言われる村上春樹氏は「イスラエルがガザで攻撃を開始した瞬間から、この賞の受賞辞退を考えた」と告白する。「私たちはテレビを通してガザの様子、破壊行為、子ども達、そして死者の映像を目にしました。あまりに多くの無実の人が、罪ある行為により命を落としました、老人や女性、それに子ども達がです。私たちは、あなた方にはあなた方の理由があることを知っています。そして、ガザからイスラエルに向かってロケットが発射されていることも知っています。しかし、これはバランスの問題なのです。あなた方は巨大な軍事力を備えていますが、彼らにはそれがないのであって、そこが問題なのです。報復の度合いがあまりに大きすぎるのです。これは私だけの考えではなく、日本にある一般的な考えです。私たちは、イスラエルを非難しているのではなく、その行為のみを非難しているのです」

  約二週間前、「パレスチナの平和を考える会」と呼ばれる団体が、ホームページ上に公開文書を掲載してエルサレム賞受賞の辞退を求めた時、村上氏の悩みはさらに大きなものとなった。同団体は「私たちは非常にショックを受けている」と述べると共に、「私たちは、イスラエルがガザで1300人以上の尊い命を奪い、500人の重傷者を含む5300人以上の負傷者を出し、大勢の人々の生活を破壊しつくすという戦争犯罪を犯した直後のこの時期に、世界的に著名な小説家であるあなたが、イスラエル外務省、エルサレム市が全面的にバックアップする公的行事であるこのブックフェアに参加され、エルサレム市長から「エルサレム賞」を受賞されるということの社会的・政治的意味を真剣に再考されることを強く求める(ヘブライ語該当部分を同団体サイトから引用)」と村上氏に対して受賞の辞退を求めた。また、公開文書の中では、「パレスチナ人全体がアパルトヘイト政策の犠牲者」であり、「彼らの「社会における個人の自由」はイスラエルによって徹底して抑圧され続けているにもかかわらず、「社会における個人の自由」への貢献を讃えること」が今回の受賞理由であることはさらに懸念されるべきことと述べている。他の複数の団体もその呼びかけに応じたために、日本において特に若者の間で多くのファンを持つ村上氏は、憎悪のメッセージを浴びることとなった。
  「彼らは、僕がこの賞を辞退すると聞けばとても喜んだでしょうし、賞を辞退し、彼らが僕に拍手を送るということで終わらせることが、僕にとっては最も簡単な選択でした。しかし、僕は、とにかく来る決断をしたのです」と明かす。「僕は作家です。作家の役割は、人間の魂について書くことですが、政治的課題もその人間またその魂が生きる世界の一部です。受賞を辞退することは否定的なメッセージです。すなわち、安全で、都合のいい内面の世界に僕が閉じこもるということです。僕にはここイスラエルに多数の読者がいますし、ここに来て直接顔を見て語ることは僕の義務なのです。それは作家としての僕の責任の一つです。本当のところ、僕は賞そのものには関心がありません、それは、一枚の紙とメダルにすぎません。僕の読者がいなければ、いくら賞を受賞しても意味がないのです。彼らは、書くことにおける僕のパートナーであり、僕は彼らに敬意を示す必要があるのです。」

頂点に立つ
  村上春樹氏と陽子夫人は、一昨日エルサレムに到着した。村上氏との単独インタビューは、長旅の疲れが取れた後、(訳注:国際的な文化的催しを開催したり、作家や芸術家が滞在する場所として有名な)ミシュケノット・シェ・アナニムのゲストハウスで行なわれた。村上氏はベランダに出て撮影したいと申し出たカメラマンの要請を快く引き受け、エルサレム旧市街を背景にカメラの前に立った。氏は、今夜、国際会議場でニル・バルカット・エルサレム市長から賞を手にする。「式典では、イスラエルの読者に向かって、僕の心の内にあるものを語ろうと思っています」と誓う。

(記者質問)今後の不安はありませんか?
  「日本では、僕が授賞式に出席すれば、僕の本の不買運動を起こすと言った人々がいます。僕はそのようなことが起らない事を願います。」
  ドヴ・アルフォン(審査委員長:ハアレツ氏編集長)、ドゥボラ・ギルラ(ヘブライ大学)そしてエトガー・ケレット(作家)で構成された審査員会は、今年のエルサレム賞に20作品が40カ国語に訳されている村上春樹氏を選出した。審査委員は「氏の人間に対する愛情、ヒューマニズム、また、芸術的な完成度に対する審査員の理解に基づき」全会一致で決定したと受賞理由を説明する。また、「彼の小説では、この現実世界とは別次元に流れているもう一つの世界で起こる常識から逸脱した出来事を、アンチ・ヒーロが一人称で語る」と作風を紹介する。
  村上氏の作品からは、アニメ映画やパソコンゲームを傍観しているような感覚を得る。村上氏は経済成長を追い続ける日本社会を批判するが、それによって日本及び世界各国で著名な作家となることは気にしない。彼の作品のおよそ半分はヘブライ語に訳されており、『海辺のカフカ』は数週間続けてベストセラーに名を連ね、最新作の『めくらやなぎと眠る女』ではすでに著名作家陣の頂点に達している。
  村上氏は"ふつう"の人間ではない。1949年、京都において、一般社会とは少し疎遠な世界に生を受けたことがそれを証明している。「両親は日本文学の教師でした(原文ママ)ので、いつも二人でその話をしていたのですが、僕はそのことがひどく嫌いでした」「そのために、チェホフ、ドストエフスキー、フロベール、ディケンスなど欧米文学の日本語訳を読み、学校で英語を習うようになると、アメリカ・サスペンスへと移行していきました。トランジスターラジオを持っていて、エルビスやビートルズを聴きましたが、その瞬間はとても興奮するものでした」。村上氏は、第二次世界大戦を経験した父親の戦いの話や、アメリカの空爆で家が火災にあったという母親の話を聞きながら成長した。「僕は一人息子だったので、父、母そして僕という張り詰めた三角関係の中で生活していました。エディプス・コンプレックスの状態です。日本では、ユダヤ人と同様、家族はとても大切なものとされますが、僕の本の中では、家族は安心できる場所としては描かれていません。」

  村上氏は東京にある早稲田大学で演劇と映画を学んだ。1971年に学生時代からの友人だった陽子夫人と結婚。2人で東京にジャズ喫茶を開き、飼っていた猫から「ピーター・キャット」と名づけた。猫は村上氏が最も愛する動物であり、何か不思議な出来事の前兆を感じさせる、物語的でファンタジー的な登場人物として村上氏の作品の中に度々登場する。『海辺のカフカ』の主人公の一人は、猫と話ができる脳に損傷を負った男性だ。

  「僕の書く行為では、間違いなくジャズが表現しています」「作品のリズム、カッティングオフ、そして即興。自分にリズムの感覚がないと書くことはできません。僕は、ちょうどジャズのように、即興で文章を書きますが、文が互いに交差し、文が文を生み出しあいながら流れていくのです。予めストーリーや構成を考えてから書き出したことは一度もありません、物語がどのように展開するかなど、僕には全く分からないのです」。村上氏の作品の中では、主人公達がジャズについて会話を交わし、作品の中を流れるジャズの演奏曲を次々とかえていく。村上氏自身も、高価で価値のあるレコードを多数蒐集しているのだが、もしも、自宅が火災になってお気に入りの三枚を持ち出さなければならないとしたら何を選ぶかと聞くと、力なく両手を持ち上げながら「三枚を選ぶことは不可能、僕は猫を助けるよ」とこたえた。彼の人生における音楽が果たす重要な役割は、作品の題名からもうかがえる:世界的なベストセラーとなった初の作品「ノルウェーの森」はビートルズの曲。他の題名も、ナット・キング・コール、ビーチ・ボーイズ、それにロッシーニ、シューマンやモーツアルト等の曲名に基づいている。欧米の消費文化も作品の中に響いており、『海辺のカフカ』の登場人物の中にはジョニー・ウォーカー、それにケンタッキー・フライドチキンのキャラクターで知られているカーネル・サンダースといった名前も登場する。

  村上氏はシャイでインタビューを受けないことでよく知られている。「僕がインタビューを受けることが好きではないのは、ジャズ喫茶を経営していた時代、夜な夜なバーの後ろに立ち、生活のために、お客さんと話さなければならず、その7年間で一生分の話をしてヘトヘトになったからです。僕は話し好きではありません。それほど話したくないと思う人には話さないと僕は誓ったのです。それに、僕は作家です。作家の仕事とは書くことであって、話すことではありません」と、日本語のアクセントのあるゆっくりとした英語で語る。
  村上氏は、これまでイスラエル人作家と一度も出会ったことがなく、「もし私にお勧めの本があるなら、何か教えていただけたら嬉しいです」とイスラエル人作家の作品を読んだことがないことを隠さず明かす。村上氏は30歳の時に書くことを始め、1979年『風の歌を聴け』でデビュー、文学賞を受賞した。それから二年後、書くことを生業とすることができると分かると、ジャズ喫茶を売り、プリンストン大学で教えるオファーを受けた(原文ママ)。「日本社会は僕に重くのしかかり、プレッシャーでした。それはとても単一的で狭い社会-1億2千万人が一人の人間のようで、その中で僕は異質でした。欧米では個性は自然なものであって、それについて格闘する必要はありません」と明かす。

空から降ってくる魚
  1995年、村上氏は、彼が生まれ育った京都の両親の家が全壊する被害をもたらした大地震(原文ママ)の後に一時的に帰国した。村上氏は欧米の読者と日本人の読者の間にある、氏の作品の読み方に対する明確な違いを理解している。「僕が書く作品にはシュールレアリズム的な特徴があります」「日本やアジアでは、なぜ僕が書くものはこれほどにも奇妙なのか、なぜ猫が話し出し、なぜ天から魚が降るのかといった疑問を読者が持たず、それはそのような話として受け入れられます。それが、アメリカやヨーロッパでは、「ポストモダン」または「非現実的現実主義」と解釈されるのです。」と述べる、
  多くの作家は、同じ世代の登場人物について描き、作家が年を重ねると共に主人公も年齢を重ねるものだが、村上氏の作品では登場人物は青少年か若者のままで変わらない。
15歳の田村カフカは、幼児期に彼を置き去りにした母と姉を探すために、虐待する父のもとから逃げ出す;彼の耳では、将来のカフカが母と姉と寝るという父の預言的な呪いがずっと響いている。「初めての作品を書いたのは僕が30歳の時、主人公は20歳でした。僕は1月で60歳になりましたが、まだ若者について書くことが好きなんです」「『浜辺のカフカ』を書いた時、僕の実年齢は50を過ぎた辺りでしたが、僕自身が主人公と全く同じ15歳になり、彼の目を通して社会を見たり、彼のように感じたたりしたのです。それはとてもスリリングでした。二年前(原文ママ)には『アフターダーク』(ヘブライ語版近日発売予定)を発表しましたが、その中の女性の主人公は18歳です。僕は18歳の少女にもなりきることができます。一般的に読者は作家と共に年をとりますが、僕にはとても例外的に若い読者が多いので、僕はそのことをとても嬉しく思っています。」

  村上氏と陽子夫人の間には子どもがいない。「なぜって?そのことについては話すと長くなります。僕は書くことと移動で忙しく、その間に年月が過ぎ去ってしまいました。だけど、僕の子ども達は僕の読者です。僕の作品を読んだ若い方が、彼らの両親と僕とが同じ学校に通っていたことを知り、親にせがんで僕の家に遊びに行きたいと電話をかけさせる、なんてことはいつも起ります。そのような時、僕はいつも受け入れるんです。」
陽子夫人は彼の一番最初の読者であり、また、影の"編集者"でもある。「彼女は非常に厳しいひとで、僕にたくさんの指摘をします」と語る。村上氏は彼の感情の変化に合わせ、すべての作品で書くスタイルを変える。「僕の初期の作品では、主人公はみな孤独でしたが、時間と共に、僕の主人公たちは他人との人間関係を求めるように変わってきたと思います。」

現実と想像
  村上氏は非常にストイックな生活を続けており、毎朝早朝4時に起床して朝8時まで書く。その後、トレーニングウェアに着替え、自宅のある東京の高級住宅街にある公園などを10キロ走る。または、1キロ半、自転車をこぐかプールで泳ぐ。午後になると、レイモンド・カーヴァー、ジョン・アーヴィング、トゥルーマン・カポーティ、スコット・フィッツジェランド、そしてサリンジャーなど、お気に入りの欧米文学の邦訳に取り組む。日が沈んでから仕事をしたことは一度もない。

  村上氏は、33歳の時に体重を落とすために走り出し、今では欠かせない生活の一部となった。過去20年間に渡り、一年に一回マラソン大会に出場している。最高記録は3時間27分。練習のため、数ヶ月で350キロ走ったこともあると言う。「年と共にマラソンの成績はどんどん悪くなる一方ですが、最近参加しているトライアスロンでは、むしろ年をとってからの方がよい成績が出るようになっているのです」と言う。

記者:走り続けることはなぜそれほど大切なのですか?
  「僕は、書く時に、脳と精神の深い領域にまで、意識の中、そして、無意識の中へと降りていきます。そこは暗黒の場所です。もし僕に十分な肉体的な力がなければ、非常に危険な状態に陥ります。僕は書くことをそのまま体験しているのですが、それは、はっきりと目を覚ましているのに夢を見ているような状態です。」
  2001年9月のテロ発生以降、「世界は、どんどんと僕がつくり出した世界に近づいています:超現実的でカオスに満ち、そして危険な状態へ。今でも、ツインタワーに飛行機が突入する写真を見つめても、本当にそれが現実に起ったとは信じられません。僕が物語の中で描いてきたものは悲観主義であり、世の終わりだったのですが、それらが現実に起っているのです。今の世界は、まるで作り話のようであり、架空の世界であり、僕が書いてきた最も恐ろしい悪夢のようです。僕らはどんどん悪化する世界に生きていて、これが僕達が生きる本当の世界であるとは未だに信じられないのです。」

記者:かつてエルサレム賞を受賞した作家の中で、オクタビオ・パス、V・S・ナイポール、それにJ・M・クッツェーの三人は、その後約15年でノーベル賞を受賞しています。それについてはいかがお考えですか?

  村上氏は顔を赤らめながら「僕は60歳です。ノーベル賞を受賞するかは分からないし、そのことについてあまり多く考えません。僕の頭を悩ませていることといえば、これから受け取る賞のことではなく、これから何冊本を書くことができるかということだけです。僕はドストエフスキーの大ファンです。彼が『カラマーゾフの兄弟』を執筆したのは、60歳の時です。僕は日本版「カラマーゾフ」を書いてみたいと思っています。それから、走ることと書くことは、同時に始めましたし、僕の人生では一方が欠けたら前に進まないようなものですから、70歳、それに80歳になっても、同じように続けられることを願っています。」

インタビュアー:イラット・ネゲブ
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ああ青春の福岡出張

先週は思いがけない出張で二泊三日福岡まで出かけた。初の福岡、フリーになって初の飛行機出張、とワクワク気分で始まった福岡出張。男性三人+犬一匹でマンションの一室に篭って仕事に集中し、まるで合宿のような日々を終えて帰ってきた。

約二年前、「日本人女性と結婚するからヘブライ語の書類を翻訳してほしい」との依頼を福岡在住のイスラエル人男性ガビ(仮)から受けたのだが、その一年後にガビから「日本でビジネスをはじめたいから翻訳してほしい書類があるけど頼めるか?」と依頼を受けた。その翻訳の一部については、実はこのブログでも取り上げたことがあるので「あ~」と思われる方もいるかもしれない、あの翻訳の依頼人である。(参照)

書類翻訳っていうのは一回訳せばそれで終わりだし、顔を合わせるなんてことはまずない(参照)。それが、ガビの場合、日本で結婚、子どもの誕生、ビジネスを開拓、と生活を築いていくプロセスの一つ一つで「訳してくれないか?」と訳者としてかかわる、というなかなか貴重な関係を築いてきた。電話の会話だけでもかなり親しくなり、たかが翻訳者なのだが、彼を見守るようなそんな感覚ができていた。そんなガビから二月末「いよいよ販売開始。イスラエルからパートナーも来るし、集中して2,3日福岡で俺たちと一緒に仕事してほしいんだけど」と「直接」仕事をする依頼を受け、私は反射的に「しっかりサポートしないと」という気分になって二つ返事で引き受け、朝4時におきて羽田発6時半発001便というフレッシュなフライトで飛び立った。

朝8時半には福岡着。ガビと初の感激の対面!何度も電話をする中で私はガビ=ヒョロリとした男性のイメージを勝手に抱いていたので、目の前に現れたかなりガタイのいい男性を見て一瞬そのギャップに戸惑った。仕事は大量にある、というので感激の対面を最低限に済ませ、ビジネスパートナーの同じくガビと座り込んで仕事開始!ビジネスの内容はイスラエル製の完全ナチュラル天然ソープ、それに、死海の泥、塩などの天然コスメティック製品の販売、なのだが今回の仕事の内容はサイトのアップとその中身の日本語サイト製作。二日間で済ませるにはかなりの量だ。

男三人、それに終日ストーブの前で横になっている犬一匹とマンションの一室に座り込み、各自のパソコンとにらみ合い、時折「ガビ、ここの文章はどんな意味?」と最低限の会話を交わしながらひたすら、黙々と仕事に集中した。昼飯はガビがホカホカ亭に買出しに行き、黙々と食べて、また仕事。かなり天気がよかった"らしい"のだが、一歩も外に出ないので外の空気は分からない。そもそも、一体自分がどこにいるのか、私は二日間分からないままだった。朝6時半発の飛行機内ではずっと熟睡していたし、目を覚まして空港からタクシーに乗ってガビの自宅兼オフィスに到着し、ホテルまでの送迎をガビの車でしてもらったので、時折「本当に福岡にいるのか?」と思うほど。

会話の少ない部屋に男三人座り込み、パソコンとにらみ合う二日間を終えて、何とか予定通りのところまでこぎつけた。二日間を終えて私は久々に放心状態、もうパソコンを見たくもない、という極地に達したまま(のでブログ更新もこんなに遅くなってしまいました)飛行機に乗りこみ帰宅した。

ガビからの依頼は翻訳者、というよりも保護者のような感覚で引き受けるので、今回も頼まれたことをこなす、というよりも「きちんとビジネスが軌道に乗るかな」ということを第一に考えた。かなり研究した、という天然ソープはパッケージも含めてかなり出来がいい。きちんとした手順と、きちんとしたPRをすれば、その結果は出ると信じている。そこまでのプロセスはまだあるが、これまで通り着々と進んで行けるな、という確信を直接対面して得られたことも大きな収穫。翻訳者にはまだまだ知らない魅力があるのかもしれない。

「行く」と「来る」/「もらう」と「あげる」

4歳2ヶ月の娘の話していることを聞くと「行く」と「来る」、それに「もらう」と「あげる」の使い分けがどうも怪しい。「また遊びに来るよ」と一瞬日本語そのものはしっかり成立しているのだが、内容を聞くと「また(おもちゃがたくさんあって、おいしいものが食べられた○ちゃんの家に)遊びに行きたい」と「行く」のだということはよくある。それに「これ○ちゃんにあげたよ」と、あげたのならここにはないはずの飴玉やお菓子を手に持ちながら言うこともよくあって、「もらったでしょ」と直すこともよくある。ただ、この種の混乱は「子どもだから間違っている」と片付けてしまうほど単純ではない。

これら「行く」「来る」や「もらう」「あげる」は、それぞれA点からB点へ移動する、移動させる、と動作としては同じで、その動作をAから見るのかBから見るのかという立ち居地で、「行く」だったり「来る」だったりに変わる、、、。じゃあ立ち居地をしっかり意識すれば間違えなくなるようになるのか、というとそれだけではないような気もする。そういえば、イスラエルで日本語を教えていた時には「もらう」と「あげる」がうまく使い分けできない学生が結構多かった。説明としては「自分の方に移動する」のか「自分の方から移動する」のかとシンプルなはずなのだが、日本語を学ぶ学生にとってはそれだけでフムフムという納得するものではないようだ。

似たような混乱はヘブライ語の「借りる」と「貸す」。日本語だとほとんど混乱することはないし、間違って使っている人を見たことはないのだが、ヘブライ語だとかなり混同して使用される。学生によく聞く質問で「寮に住んでる?それともアパート借りてる?(リスコール)」と言う時も「寮に住んでる?それともアパート貸してる?(ラハスキール)」と借りると貸すの混同をよく耳にした。その度に私が指摘するのも変なので、「動作が同じだったらいいじゃん」という感覚があるのかもしれないな、と思うようにしていたが、実際のとこなんでそんな混乱があるのかは今でもよく分からない。

「行く」「来る」/「もらう」「あげる」/「借りる」「貸す」は立ち居地によって違うだけで同じ動作を表わす表現だから混乱するのだろうが、混乱が混乱として残るのにはきっともっと深い説明が必要なんだろうな。と頭の中でウダウダ考えながら似たようなことをもう一つ思い出したので最後にもうちょっと、「Go」と「Come」。

中学生の英語の授業で「Go」は行く、「Come」は来る、と覚えていたのに、「明日あなたの家に遊びに行くよ」と言いたいような時には「I will come tomorrow」と言うのだ、と聞いて私はとても混乱した。きっとそういう経験をしたのは私だけじゃないと思う。英語では相手の立場に立って話をするのが丁寧な言い方で、相手から見たら自分が来るのだからcomeと言うのだ、という感じの説明を受けたことをはっきり覚えていて、今でも私などは相手に「I will come」と言う度に自分が相手に対して謙って丁寧な言い方をしているのだ、という感覚が抜けずにいる。のだが、その説明とこの感覚はgoとcomeが含む意味合い、つまり、それらの言葉を発する時のフィーリングからすると適切じゃない。というのは、A点から見るか、B点から見るかという立ち居地が違う、ことに加えて、goは"離れる"、comeは"近づく"というニュアンスを含む決定的な違いがある。「I will come tomorrow」がなんで「go」じゃなくて「come」なのかはそういう「近づくよ」という、comeと発する時のフィーリングをつかまないとやっぱり分からないと思う。

「行く」と「来る」、「あげる」と「もらう」にもそんな立ち居地の違いだけではない、もっとフィーリング的な違いがあるのかも。でも違いがあるなら混乱しないだろうな、、、とよく分からなくなってきたので今日はこの辺で。まとまりなくすいませんです、、、

トメルと再会、サリーの死

漂流生活に入って初の仕事と言ってもいいDシネマ国際映画フェスティバルで通訳をした「Paper Dalls」のトメル・ヘイマン監督が来日していたので都内で再会した。(このブログでの参照1参照2)  

先週横浜で公演のあったイスラエルのダンスカンパニーの代表格バットシェバ舞踏団を撮影しているトメルは舞踏団と共に来日。四日間の滞在で会う時間はほとんどないだろう、と電話だけで会話を交わしただけだったのだが、急遽(雪のため?)飛行機に乗れなくなり二日間滞在日数が延びて都内で数時間会う時間ができた。電話口でトメルも「できれば、じゃなくて是非会わなければ」と言っていたのだが、是非直接会って聞かなければいけないことがあったので、飛行機に乗れなくなったことは私にとっては幸運だった。「是非会わなければならない」、それは「ペーパードールズ」の中心的な登場人物であったサリーが祖国フィリピンで亡くなった、それも殺された、というショッキングなニュースを耳にしたばかりだったからだ。

「Paper Dalls」は近年イスラエルで増加しているフィリピンからのでかせぎ労働者の生活を(確か)5,6年追ったドキュメンタリー映画。イスラエルの外国人労働者、特にアジア諸国からはフィリピン、中国、タイが圧倒的多数を占めているのだが、フィリピンは高齢者介護、中国は建築、タイは農業、となぜか棲み分けがされている。映画「Paper Dalls」で登場する彼らも高齢者介護に従事するのだが、彼らにはまたドラッグクイーンとして毎週末テルアビブ市内の舞台に立つ別の顔があり、そのドラッグクイーンのショーを「Paper Dalls」といった。イスラエル国内における外国人労働者、そしてトランスジェンダーという二重とも三重ともいえる周縁的な立場で生活をしている「Paper Dalls」の姿を追った映像が私には魅力だった。

その中に登場するサリー、そして死を看取るまで介護したハイムとの関係は特に心に残るものであったし、映画祭での質疑応答でもサリーとハイムの心温まる関係についてのコメントが多かったことを覚えている。イスラエルでは外国人労働者排斥の動きが強くなるのだが(そのために日本人でも巻き添えになることがある)、「Paper Dalls」も最後は解散してイスラエルを離れ、サリーはフィリピンの家族の元に戻って映画は終わる。サリーは家族と共に祖国にいるんだ、という漠然とした理解で今までいたので、殺された、というのは何ともショックだった。

トメルとの再会は数時間、ほとんどは今回のバットシェバの撮影、同じプロジェクトでインタビューをした日本人女性現代アーティストとの出会いについての話だった。「フィリピンにはどれくらいいたんだ?」という何とも遠まわしな言い方で私はトメルに話題を振った。

去年の12月、サリーの家族ともあったりしたんだよ。フィリピンの大学などを回って映画を上映し、その後講演するということをしていて、サリーも一緒に講演していた。ある日、予定時間になっても現れずにどうしたんだろうかと思っていたところ、殺されたことを聞いた。

それが短いながらトメルが私に話してくれたことだった。フィリピンにはサリーの葬儀に出席するために行ったと思っていたので、トメル自身がフィリピンにいる間、しかもサリーと共に講演活動をしている間に起こったことだとは全く予想外だった。それ以上彼もサリーについては話さなかったし、私も問いかけることができなかった。

このブログでは「死」についていくつも取り上げてきた(佐藤真初代佐渡ヶ嶽親方イスラエルでの恩師)。全て一度は会ったことのある人や、共に仕事をした人の中で、サリーとだけは実際に会ったことがないのだが、サリーの死は私にとっては最も寂しさを感じる死となった。

イスラエルでの9.11

今日からブッシュ大統領がイスラエル訪問中だから、と言うわけでは全くなく、先日お会いした方との会話の中で「最近のイスラエル映画の波と9.11後は関係があるのでしょうか?」といった類の質問があり、久しぶりに「2001年9月11日のこと」を思い出したので書いておく。

キューイチイチ、または、セプテンバーイレブン、という表現で切り取られる時間とそれを巡る言説、それはその日に私が経験し、また今でも記憶していることとの間に大きな断絶がある。私は当時イスラエルの大学に留学中で、その時は図書館でレポート準備に追われていたのだが、「ツインタワーが大変」という情報を聞いたその場にいた友人たちとキャンパス内のカフェにある大型テレビで状況を見ようと走っていった。

カフェのテレビの前に押し寄せCNNの中継を見ていた"かなりの人数"が事の次第を物語っていて、今でも私にとってその事実はその"かなりの人数"を後ろから見た映像でファイルされている。その時、私がCNNで見たものは改めてここで書く必要もないが、その時に私が聞いた声はここで書いておくに値するかもしれない。

「これでようやく(ヘブライ語で"ソフソフ")世界がテロというものを理解するだろう」表現の違いはあれ、さまざまな声の中でこのような声は私の耳に飛び込んできた。世界は分かってくれない、という空気はイスラエルに常に漂っていると私は感じるのだが、2001年9月11日のその時だけは「これから世界は分かってくれるかもしれない」という空気に一瞬変わったように感じられた。実際には「やっぱり分かってもらえない」という元の空気に戻ったのだが、私にとってはあの一瞬の空気の変化がとても印象的で、今でもその時のことを話すときにはこの声とそれで私が感じたことを取り上げることにしている。

さて、最初の質問に立ち戻れば、9.11と最近の「イスラエル映画」の波とは関係がない。これは断定してもいいと思うし、全く関係がないと言い切ることもできる。すでにその前年9月以降テロが日常化し、パレスチナでの軍事行動による惨劇が日々報道で伝えられるいわゆる紛争状態にあったイスラエルで、9.11以降何かが劇的に変わったのだろうか?と考えても私にはうまく見つからない。日常化した紛争報道の一つとしてアメリカから伝えられる9.11が新たな映像として加えられても、言説として何が新たに加わったのかは実はまだ私の実感としてはしっかり把握できていない。映像は随分前からすでに紛争や政治で充分うるさく、騒々しかった。

紛争報道は精神的に疲労感をもたらす。健全な精神状態を保っていつも通り日々の生活を送る(学生の私であれば学校に行き勉強する)ためには、ニュースを見ない、という積極的な選択があることを私も経験によって身につけていた。それによって映像でどんどん創出されたであろう9.11を私は見ないで過ごすことができたし、日々の生活を当たり前に過ごすことに随分とエネルギーを注ぐことができた。

最近のイスラエル映画の波、と言っても私が制作者に声を聞けたのは二作品に限られるのだが、共に「今や映像は騒々しくうるさくなってしまい誰も見たいとは思わない。映画はニュースでも報道でもないのだから、全く新しい映像で別の芸術や美を求めてもいいじゃないか」と言っていたことに私は非常に共感できた。また「日々の喧騒で見放されているもの、忘れられているもの、そうした誰でもが日々感じているはずの小さなものに目を向けてもいいじゃないか」とエラン監督もエトガー監督も同じキーワードで映画制作への原動力を語っていたことがさらに印象的だった。いずれも外側から見えるイスラエル映画の波とは関係がないのだが、9.11とイスラエル映画の波とが関係あるのだろうか?という問に対する答えとしては、経験また彼らの声に基づけば、私は関係がないと思う。

「ジェリーフィッシュ」で浸る

エンディングの音楽がドーンと流れ始め、そのなんとも言えない渋く低い声に刺激されるように体の奥底から涙腺にかけてジーンと熱くなり、映画にドップリと浸りながら映画館を出ることができた。字幕の仕事としてDVDで何度も見ていたものの、映画館で見た「ジェリーフィッシュ」は全く違うものだった。私は映像美というものがどういうものか分からないのだが、この映画をDVDで目にしたときに「これは映画館の大画面で見てみたい」と思った初めての作品だった。船長にも一切映画の内容を言わず、映画館で初めて見ることを共有したい、とこの試写会を随分心待ちにしてきたが、その期待以上の感動を得て大満足の一日となった。

これ以上はまだ見ていない方に対して過大な情報提供となるので、内容や感想はここで我慢。3月上旬に渋谷シネ・アミューズで公開されるので是非そちらへ!

試写会場は渋谷東急本店の目の前。船長と二人で渋谷を歩く、というのも楽しみの一つだった。お昼過ぎに渋谷駅に到着すると、いつもの喧騒ながら何かフレッシュな空気。なるほど冬休み、都内の学生だけではなく、"旅行"で渋谷に足を運んでいる若者(と言うと何ともオヤジくさいのだが)が視線を上にキョロキョロしながら歩いているのが、何とも新鮮で初々しい。
「ジェリーフィッシュ」に浸ったのは船長も同じで、その感動をゆっくり二人で楽しみたいなと近くのカフェに入った。子育てをしていると二人でゆっくりコーヒーを飲む、という時間が本当に貴重。しかも、映画を見て二人でその作品に満たされたまま顔を見合わせ、刺激を受けてあふれ出す言葉を交わしながら、"二人の言葉"を探し当てる、何とも至福のひと時であった。

時の流れ

12月25日はクリスマス。そんな当たり前が実は当たり前ではない、という驚きを経験したのは今から15年前、それもイエスキリスト生誕の国イスラエルだった。

私自身はクリスチャンではないが、高校、大学とミッション系ということもあって、一度はクリスマスをイエス生誕の地ベツレヘムですごしてみたい、という思いを実現すべく興奮気味にベツレヘムのミサに参加したのが1992年12月24日。かなり寒い中、生誕教会の外で世界中から集まった人たちと手をつなぎながら「メリークリスマス!」と口を揃えたことは、今でもいい思い出となっている。

翌日、ベツレヘムから戻ってイスラエル人(ユダヤ人)の友人に「クリスマスをベツレヘムで迎えて感動したよ」と言ったら、「へ~、クリスマスって今頃なんだ」と予想外のコメントが返ってきて拍子抜けしたこともいい思い出であるし、その頃日本から送られてきたクリスマスカードを見た同じ友人たちが「これがサンタか!」とサンタのイラストに複数の目が釘付けだったことも、今となってはもう経験できないかもしれない貴重な記憶かもしれない。

それから15年が経過した今では、イスラエルの友人からも「メリークリスマス」というメールが届くようになり、スカイプなんかで話をしても「メリークリスマス」と最後に言われるようになり、驚くような寂しいような不思議な気分になる。

「ユダヤ人国家イスラエル」でクリスマスが認知されるようになったのは、90年代以降イスラエルに押し寄せた旧ソ連からの移民の波以降だと私は理解している。ひとつの季節の挨拶だとしても、キリストを救世主とは認識していないユダヤ人(教徒)がキリストの生誕を祝福するクリスマスを認識する、とは1992年当時は想像できなかった。とはいえ、もともと宗教的に敬虔なユダヤ人よりも世俗的なユダヤ人のほうが多いイスラエルにおいては、時が経てばまあそうだよな~というある種の納得もできるし、いずれにしてもイスラエルにおいてもクリスマスというものが以前よりもずいぶん認識されるようになったことには違いがない。

ちなみに、旧ソ連出身者はロシア正教での1月1日、また旧ソ連の名残の1月7日も祝福するので、1月1日にクリスマスツリーを飾りながら「新年おめでとう」という。「クリスマスは12月25日」とは、日本にいると地球上どこでも知られている当たり前のことのようではあるが、聖地イスラエルにおいてさえも当たり前ではない。

時の流れ、は年末のこの時期になると否応なしに感じる。一年を振り返ると、漂流博士として船出してからはあっという間だった。

幸運にも数々の興味深い仕事をさせていただいたが、その中のひとつ「迷子の警察音楽隊」が週末有楽町シネカノン2で公開された。公開日当日、早速満員だったと配給の日活のOZさんから丁寧にご連絡いただいた。満員だった、ということよりも、公開直後のお忙しいさなかに私なんかにご連絡していただいた、そのきめ細かな配慮に本当にうれしくなり、寒さを一瞬忘れることさえできた。

もうこのブログでは随分宣伝しましたが、もう一回、お正月映画にぜひ「迷子の警察音楽隊」!!

自分の言葉を取り戻す

自分ではなく他者の言葉を口から発する、そんな非日常的な行為が通訳。1時間半もすると非日常性に頭がモヤッとするのだが、一日、二日、と続けると自分がその他者になった錯覚に陥る。

映画「ジェリーフィッシュ」(来年3月渋谷シネアミューズ公開)の監督エトガー・ケレット氏が来日、二日間彼の言葉に浸かった。イスラエルの売れっ子作家で「イスラエルの村上春樹」、というのはちょっと言い過ぎかもしれないが、ポストモダン的作家としてイスラエルの比較的若い層に支持される作家であることには違いない。

作家との通訳、その響きにケレット氏と会う前はかなり緊張したが実際に会って安心。偏屈でもないし、言葉の一つ一つが丁寧で、本音、また同じ質問にも新しいネタを含める楽しみ方も見せるムードに私もすっかり乗って、ある段階から一心同体のような不思議な時間になった。

二日間を終えた後は、脳のしわがモヤ~と広がりきったような一種の快感。ケレット氏の言葉に支配されてもいるから、もう自分がだれなのかも分からない。

彼に別れを告げた後の昨日は、言葉を発する力も、口を開く力もなく、一日静かに静かに過ごした。クールダウン。徐々に自分の言葉を取り戻し、エトガーケレットではない自分の形をゆっくりゆっくり取り戻しながら、今日の新しい朝を迎えた。関東の冬はいいなぁ。このすばらしい青空、なんと言えばいいんだろう。

"イスラエル映画"の波

7月に漂流博士として船出した時、これほどまでに"イスラエル映画"の波に乗った生活をするとは想像していなかった。とはいえ、船出後の初仕事はSkipシティDシネマフェスティバルの監督通訳であったことを思い出せば(参考)、何か大きな前ぶれは随分前から始まっていた。いずれにしても、ブログ漂流博士でこれほどまでに映画について書くとは、全く想像もしていなかった。

"イスラエル映画"とわずらわしくも""付にするのは、少ないながらも私が目にした映画のテーマや描き方に何かしらの共通性を見出すことはできず、見出す必要もなく、また、監督や製作者たちの口から"イスラエル映画"を作っているという意識が見えないことを考えると、"イスラエル映画"というカテゴリーを作るのは本人達ではなく、それ以外の者であるんだな、ということを常に意識しておきたいからである。そのカテゴリーが誰にとって、どのように必要なのか、これは映画だけではなく、ナショナリズムだとか、アイデンティティということを考える時にもおそらく共通する問いのような気がする。

そうは言っても、登場人物がヘブライ語の映画、またイスラエルを舞台とした映画が日本にやってきているおかげで、私は通訳や翻訳といった重要な橋渡しの仕事を得られることには感謝しっぱなしだ。言語を扱う仕事の中でも、原稿も依頼されることは心から嬉しい。質の高い作品の背景について、明らかな読者を目の前に想像しながら文字で描く。文字で表現する行程は、"イスラエル映画"と関係なしに私が仕事としてできる分野でもあるし、目指していきたい方向性でもある。

最近意識的に"イスラエル映画"を見たのだが;

『ケドマ:戦禍の起源』アモス・ギタイ監督
イスラエル映画の重鎮と言われる彼について論じるなら全作品を見ないと、と思っていたところ、たまたま近くのレンタル屋で目にしたので借りてきた。感想は「おんなじだな~」(参考)

『The Bubble』エイタン・フォックス監督
テルアビブに生きる20代の若者の空気がものすごーく伝わってきて、どんどん吸い込まれていったのだが、最後に撃沈してしまった。

基本的に同じ世代の監督がつくった作品は見ていて、共感しやすい。世代という輪切りは結構大きな影響力があるのだと改めて感じる。

フリーランスの集い

フリーランスの集い、正式にはJNバイリンガルセンターという某TVのニュース翻訳を手がける翻訳/通訳家の謝恩会に家族で出席。英語、中国語、スペイン語あたりはもちろん、ペルシャ語("濃縮ウラン")、ビルマ語(邦人犠牲者でニュースが多かったですね)、クロアチア語(オシム監督、、、)、と「おぉ~」と反応してしまう言語から、中にはダリ語という「それってどこの言葉?」という言語まで、バイリンガルセンターという名称では抱えきれないほど扱うマルチな言語と触れて楽しかった。

約200名の出席者の名札には扱う言語が明記されているので一つ一つ見るのも楽しいのだが、会場全体の雰囲気も他のパーティーとちょっと違って居心地がいい。各自が斜め上を向いている、というか、フリーランスでいることのある種の自信のようなものが表れていて、自分は自分、という確固たる「個」が集まっているのがよく分かる。決して「私はわたしよ!」(通訳翻訳家は女性が多いのです)と主張しているわけではないのだが、着ているものだとか、ふるまいだとか明らかに他人の目を気にしているとは思えず、パーティー会場で一人立っていても、手持ち無沙汰で周りが気を使ってしまうようなものもないし、自分の居場所を無理して探さなくていいので居心地がいい。

恒例のビンゴでは娘の海がかなり上位で入賞。昨年は乏しい収穫だったので、今年は仕事が少なかった分しっかり取り戻した。イスラエル周辺地域は今年大きな動きがなかったので、同センターから依頼されたヘブライ語翻訳は例年と比べても少なかった。ヘブライ語通訳/翻訳は、テロや戦争、また日本国内での逮捕者が増えると仕事が増える、という人の死や不幸が仕事になる何とも皮肉な市場。それに比べると、映画関係の仕事は心の潤いも得られるので私は好きだ。

出席者の中には、東海道新幹線の場内英語放送のアナウンスをしている方も。ちょうど先週東海道新幹線に乗ったばかりだったこともあるし、いつもJRの英語放送はどんな人がどんな風に選ばれて録音しているんだろうか、と結構気になっていたところ、目の前にその人が。そう思っていた人は私だけではなかったようで、実際に"Welcome aboard---"と会場が一瞬「のぞみ」の社内のようになって会場は大いに盛り上がった。言語で食べるのは大変、だけど個人事業主って皆たくましいな~と実感したパーティーだった。

「ジェリーフィッシュ」!

あと一回だけ東京フィルメックスに出品された"イスラエル"映画ネタ。

同映画祭の最高賞「テヒリーム」の他に、「ジェリーフィッシュ」というイスラエル映画も出品されていたのだが、これが!!!。フィルメックスではイスラエルから三作品上映されたが、どれか一作を選ぶのなら、文句なしで「ジェリーフィッシュ」。カンヌでカメラドール(新人監督賞)受賞作らしいが、この際あまり関係がない。観て単純にいい!、また観たい!と思える映画だ。

作業用のDVDで何度も見たのだが、ぜひぜひ劇場で観たい!と思わせてくれる映画。ヘブライ語の監修や映画背景の説明などで仕事を依頼されるのだが、映画そのものには疎い。そんな私でも、映画的芸術、映画的美しさ、というものがあるとするなら、きっとこういうことなんじゃないかなぁと思えるほど、映像が美しくて惚れた。これは劇場の大画面でこそ観たいなぁ、とこの目の前の画面が物足りなくて仕方がないのだ。

「テヒリーム」の受賞理由にある「普遍性」を言うのであれば、私はむしろ「ジェリーフィッシュ」の方にその「普遍性」を感じる。「普遍性」とまで言わなくても、どちらが映画の中に引き込まれるような身近さを感じるか、と言えば「ジェリーフィッシュ」。ただ、「テヒリーム」を観ると、自分が長男という部分で主人公のメナヘムを身近に感じる部分があったことは受賞作への敬意として触れておきたい。

「ジェリーフィッシュ」はシネカノンの配給により2008年渋谷シネ・アミューズ で公開予定。
ぜひぜひ!と言う私が早く行きたくてたまらない。

フィルメックス最高賞に「テヒリーム」?

え~!?

東京フィルメックスの最高賞がイスラエルの「テヒリーム」と聞いた瞬間、最初に口に出たのがこの一言。
この作品は三回程見たのだが、ピンと来なかったし、観終わった後も「え~!?」だった。

他の出品作品を一つも観ていないので具体的なコメントはできないが、正直な感想は今でも変わらない。受賞に至った審査員の講評を是非見てみたい。

なお、同映画祭に特別出品されていたアモス・ギタイ監督の「撤退」についての私のコメント「鑑賞後感その二」を随分書き換えました。まとまりが悪く、私の「鑑賞後感」もうまく伝わっていなかったという反省もあり、この週末手を加えさせていただきました。

関心のある方はこちらから、「アモス・ギタイ撤退鑑賞後感その二改訂版」を参照してください。
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