漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

  

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

帰国して新鮮に見えること:レジの女性

一週間とはいえしばらく別の国で仕事をしたり、食事をしたりしてから日本に戻って来ると、新鮮に見えることがいくつもある。街がきれいだ、路地裏でもきれいだ、ということはよく耳にするし確かにその通りだな、と思うのだが、それ以外にいつも「お!」と目に付くものがある。それはレジの女性。

立ってる、お~立ってるぞ!と思わず船長に声を発するほど、その姿は帰国直後の目にはかなり衝撃だ。イスラエル、というかそれ以外の国のスーパーでも結構買い物をしたことがあるが、レジの女性(どこでも女性が主流だな~)が立っているのを見たことはない。座って隣の女性とペチャクチャ、横を見ながら商品を読み取り機にかざして「ピ!」、「はい、123シケル」と隣の女性と話しながらペロンと手だけをこちらに向けて、お金だけを求めたその手に私が札をのせる。袋は自分で持っていきな、とは口で言わないものの、商品が流れてきてレシートとおつりが手に渡ったらそれで終わり、いや、どこからが始まりでどこで終わりなのかがよく分からなくてもレジを通過すれば買い物は成立している。

「いらっしゃいませ」両手をお腹の辺りに揃えて一礼、そこから私はお客様になる。目の前のレジの女性はお店の人になる。お客様は神様、熱烈歓迎、丁寧なお出迎え、いずれにしても気分はいい。「じゃがいもが1,2,3、3点でよろしかったでしょうか?」一目見れば三個以外には見えなくても万一のことがあるかもしれない、だからまずは丁寧に確認、「冷凍食品は半額させていただきます」「ピ!」「牛乳が一点」「ピ!」と一つ一つ確認しながら商品を読み取り機にかざし、「合計、1234円です。ポイントカードはお持ちでしょうか?」「いいえ」「失礼しました。冷凍食品のためにドライアイスはお使いになりますでしょうか?」「はい、お願いいたします」「それでは2000円お預かりいたします、766円のおつりです。ありがとうございました」とまた一礼されてお客様とお店の人の関係は終わる。今ではエコバックを持ち込んで「レジ袋は不要です」というカードを予めかごの中に入れておくと「ご協力ありがとうございます」と褒められるおまけもついている、そんなスーパーは世界でもかなり珍しいのではないかと思う。

私は旅行に出かけると寺院や観光地を見るよりも、日用品を買い物するスーパーへ足を運ぶのが好き。その地の自然体を目にできるのはスーパーであるし、生活を垣間見れるような楽しみがある。イスラエルで初めて目にして衝撃を受けたのは、商品として並んでいるジュースを手にしたと思ったらいきなりガバッとあけて飲みだして、レジでその飲み終わったパックを出して「これも入れておいてね」と差し出す"事後報告買い物"。私にとっては、レジを通過しない限り商品は店のもの、自分のものじゃない、というどうしようもない感覚的なものがあるので未だに真似ができないのだが、合理的でいいな、と羨ましく思うこともある。小さな子どもが「あれ飲みたい!」とダダをこねた時など、かなり有効な技だ。

レジの女性にかかわらず、日本では家を一歩出ると、バスの運転手、駅員、と全てが丁寧だなと思うのと同時に、そうした仕事中の人々がその役割を演じているようにも見える。レジの女性も家にいるときには全く違う姿、話し方をするんだろうし、制服に着替えてレジの空間に足を入れると、会社から求められた基準に従い、またお客様から求められる基準を想定してレジの女性に変身するんだ、きっと。

以前イスラエルの友人が「日本では電車の案内になると何であんな声なんだ?"新宿~新宿~"ありゃおかしいぜ。だけどさ、きっとあの電車の声の本人はあの声を楽しんでるんだ、自分の仕事はこの声なんだと思ってるんだよ。あれだけじゃない、タクシーの運転手は帽子かぶって手袋してるだろ、ああいう格好をして俺はタクシーの運転手なんだ、と楽しんでるんだ、きっと。」と"日本演劇舞台説"を主張したことがある。最近のことだが、近所のアパレルショップでは、休憩から戻った従業員が店舗に入る時に一礼しているのを見た。確かに、日本の社会って、日常はOFFであって仕事はON、それがかなり可視的に求められている空間で、"お客様"になることも許されている空間なのかもしれない。

こういうことはまたしばらくすれば慣れてしまって新鮮ではなくなるのだが、こういう日常的なことも久しぶりに見るとかなり衝撃で、日常とは決して当たり前や普遍的なんじゃないんだな、と改めて認識できる。今回のイスラエル、パレスチナの訪問で「結局はお互いは同じ人間なんだ、ということを理解することがまずは大きな一歩」という言葉をキーワードのようにどこでも耳にしたが、自分が当然だと思っていることは普遍的なわけじゃない、結構特殊なことなんだ、と思うことも案外他者に寛容になれることにつながるかもしれない、と思う。

PS:関東は雪ですね~、エルサレムとラマラも私達が離れた直後に雪が降ったようです
スポンサーサイト

佐藤真監督:現場に対する一定の距離と執着心

現場に行って見たものをそのまま感じさせてくれるドキュメンタリー作品、「エドワード・サイードOut of Place」(2005年)を見た直後のその感動を伝えた佐藤真監督が亡くなってしまった。

「阿賀に生きる」の人、としか知らなかった佐藤真監督が、中東しかもエドワード・サイードを切り口として映画を作る、と聞いた時は特別な期待が沸いたわけでもなかった。しかし、「さっき編集が終わったばかりで、私も今から初めて見るのです」と佐藤監督が挨拶をした初の試写会で作品を見た直後、怒りや正義といった紛争地を舞台とした作品にありがちな安っぽいメッセージ性が全くなく、現場の空気がそのまま伝わってくるようなストレートさに私はとても感動した。会場を出てその感動をどうしても伝えたい、と佐藤監督に歩み寄って話しかけ、佐藤監督が「勉強不足でしかも短期間で作ったので全然現地のことは分かってないと思うんですけど」と謙遜したのが最初で最後の会話となった。どうしたらあんなに現場の空気をそのまま伝えられるのか、いずれまた別の機会で是非お話を伺いたいと思っていたがそれはかなわぬ夢となってしまった。

この地域を扱ったテレビのドキュメンタリー作品は多数あるのだが、現場で何が行われているのかを伝えることよりも、最初から番組的な視点(物語性)に立った結論ありきで、映像も結局はその結論を縁取るために並べられているだけのような作品が多い。その中で、同作品はとても短期間で仕上げたとは思えないくらいに現場に根ざした冷静な視線が魅力で、途中に入る個別のインタビューの声にもずっと聞き入ってしまう。テレビと映画の違いもあるとはいえ、どれも同じ「ドキュメンタリー」と呼んではいけないのではないか、と思ったのもこの作品が初めてであった。

私はもう何年もこの地域に関わっていながら、佐藤監督のような現場に根ざした描き方ができる自信がまだない。それは描く主体としての視線の問題、それと描き方という技術的な問題、その両方がいずれも未熟だからという自覚はしているのだが、新たに「現場に対する一定の距離感と執着心のバランス」が足りないのだ、と佐藤監督を思い出しながら課題として突きつけられた気がした。

「一流とは継続すること」、4日のNHK『プロフェッショナル』に出演した靴職人山口千尋氏の言葉がまだ耳に響いているが、継続することを自ら断ってしまった佐藤監督の死は、現場をそのまま伝えるという当たり前のようでいてなかなかできない心構えや技術を若手に伝える機会まで断つことになり、本当に残念でならない。

謹んで哀悼の意を表したい。

「絵」を求めるテレビ:仕事と研究

「私たちはアカデミックでもなければ、ラジオでもないんだから、何か絵がなければダメよ」とは今回の番組のディレクターからの指摘。環境にやさしい車両、次世代に向けた新しい技術、それら全て「絵」がないと意味がない、のはテレビ。(文系の)論文は「絵」よりも、テクストによる物語性や資料の独自性、と同時に客観性(従来の流れをきちんと理解するということ)を注意するし、そこが勝負の分かれ目なので、ぱっと見一瞬の「お~」を狙うテレビとは大きく違う。

7月31日からJR東日本小海線で世界初のハイブリッド車両が営業を開始した:地元山梨日日新聞サイト。燃料電池という今後の地球環境を考えた際の大きな代替エネルギー実用に向けた第一歩という位置づけや、何しろ「世界初」という冠がついた事実は充分ニュース性があるのだが、ご覧の通り一見普通の電車なのでイスラエルのテレビが来て「これが世界初です!」と紹介するほど「絵」として真新しいわけではない。円盤みたいな形だったり、運転と同時にピカピカ光ったりすれば別だけど、それは全くテレビの都合でしかない。

「世界初」をちゃんと理解してもらうのであれば、エンジンの構造や従来の車両と排出ガスの量を比較したグラフのような視覚的な資料が必要だけど、今回の番組コンセプトは世界初の新しいものを追跡せよ、というわけではない。実はこの車両、今回JR東日本の広報を通して取材を続けてきてほぼ本決まりだったのに、キャンセルになりそう。というのも、「絵」的に今一ということと、まだ燃料電池が実用化されたわけではないという理由。小海線は周囲の環境もきれいで、別の意味での「絵」としての価値はあるだけにちょっと残念。

一方、少子高齢化については、私も今のところ満足の経過。というのは、日本における少子高齢化の現状、課題の最大公約数を考えた時、高齢者が一人住まいになる傾向にあることがあげられるのだが、その課題を伝えるのに効果的な「絵」があるからである。独居傾向が強まっているのは、最近の台風や地震の際に取り残された高齢者が多いことがニュースで報道されていることからも明らかだ。

ただ、今回の番組ではそうした「問題」を羅列するのではなく、将来的な展望、解決策をイスラエルが日本から学べるものという出発点があるので、希望が持てるような日本の技術、日本独自の取り組みを求めていた。日本は技術、イスラエルの番組がその点を求めるのはイスラエル視聴者の反応を考えた時によく理解できる。例に漏れずイスラエルでもソニー、トーシバは日本の代名詞だ。

少子高齢化を解決するような日本の技術、それが、あった!コミュニケーションロボットのイフボット。そう言えば、愛地球博に出ていた、見たことあるぞ。製品詳細やコンセプトをよく読むと今回のテーマについて、しかも日本の少子高齢問題を紹介するのにピッタリなのでこれは是非とも取材をしたいとビジネスデザイン研究所にアプローチ。Webサイトの「経営ビジョン」には「世界最先端のコミュニケーション技術を搭載した、パーソナル・ロボットのリーディングカンパニーを目指し、少子高齢化社会に貢献します」と当番組と相思相愛のメッセージも見つけて感触抜群。研究所の担当者も番組に理解をしていただき、この度協力していただけることになった。

こうしたかみ合った感触を全ての取材地で求めることは不可能なんだろうけど、でも中身のある番組を目指せば、「絵」とそれを支える現状に沿った理解や説明との距離感を少しでも近づけなければいられなくなる。

論文とテレビの違いは、この「絵」の扱い方の他にもう一つ、テレビは私が作成する分けではないということ。これまでの取材をベースに今月末に来日する取材班とロケを行っても、スタジオに戻って編集をする過程に私は口は出せないし、番組ができるのをただ待つだけしかできない。もしかしたら、全く違う展開になってしまう可能性だってある。私に主導権はない。

一方、論文であれば、私が取材をして私が書く。責任も私にある。これは論文とテレビの違いというよりも、テレビのコーディネーターとしての仕事と、論文を書く研究者としての仕事との違い、と言った方がいいのかもしれない。書くものの主体性と書いた後の責任と言う意味で、私は論文を書くということを目指したいのだが、経済的な意味で考えるとコーディネーターの方が抜群にいい。コーディネーターとしての仕事はテレビ制作の事前準備でありながらその時間だけの対価を手にすることができる。しかし、論文を書くということに関しては、今のようなフリーの立場では科研等の研究費がなければ収入につながらない。

研究をすることで収入を得る、それができる場が少ないというのが現在博士が職に就けない問題であろう。ならば、その場を博士自身が開拓しなければならない、というのが私の目指すところ。テレビの取材を通して生活も確保しつつ、同時に自分の研究に活かせるような資料(聞き取り資料含む)を集めるくらいの貪欲さを維持すること、それが漂流博士としての生き方には求められているんだと思う。

イスラエルのテレビで働くということ

と言い切れるほどまだ豊富な調査や事例が多いわけではないが、イスラエルの民放チャンネル10の日本コーディネーターを三回担当して、特に今は今月末に来日する「The next world」の取材のため大詰めの一歩手前になってきたので雑記メモとして記録しておきたい。

「The Next World」は世界7カ国で取材をして来年2月午後8時から50分間、7回シリーズで放映予定のかなり大掛かりな番組で、タイトルが示すように、テーマ毎に「次の時代の世界」について論じるというドキュメンタリー。日本では京都議定書以降の環境対策の取り組みと、少子高齢化の取り組みについて、それぞれが世界の中でも先端をいっているはず、という番組企画者の発案に基づいているのだが、2ヶ月以上取材をしていながら未だ番組のシナリオはない。昨日事前取材のために何人もの方にお会いしたが、その多くで「どんなシナリオなんでしょうか?」と聞かれて、改めてそれがないことに気が付いた。

番組のシナリオなしでコーディネーターに求められるのは、可能な限り番組コンセプトにあう取材可能な場所をリストアップしていくこと。シナリオはなくても番組コンセプトはあって、今回であればイスラエル社会として将来的に学べるような日本の取り組み、制度、問題点、そして元気な高齢者の紹介をすることにある。

実際に何を撮影したいのかをプロデューサーに聞いても「撮影が可能なもの、できないものは無理して撮らない、だから何が撮れるのかをまず聞け」と受身の姿勢が返って来る。ただ、コーディネーターの立場からすると、Googleで「少子高齢化」と検索してヒットした先から闇雲に電話して「撮影できますか?」といきなり聞くのは全く非現実的。結局、まず現状としてどんなことが実際に行われていて、またどんなことが「日本の」と説明してもおかしくない最大公約数なのかを調べるところから始まるのだが、この過程は、卒論、修士論文を書き始める際に行う先行研究のフォローに似ている。チャンネル10のコーディネートは三回ともほぼ同様の作業手順でロケ班を迎える準備をしている。

一方、かつて日本のテレビ番組製作過程に数度関わったこともあるのだが、最初からある程度のシナリオが固まっていたのを記憶している。最初からインタビューする人、場所が明記された全体の流れ図のようなものがジャンジャン送られてくるのだが、コンセプトというか、思い込みというか、どうも現状抜きの一人歩きという違和感を何度も受けたこともよく覚えている。

チャンネル10がそれとは対称的なのは、とにかくシナリオが存在しないということ。見たこともなければ、プロデューサーと話をする中で出てきたこともない。プロデューサーとのやり取りと言えば、最初にたたき台程度のロケ取材地候補リストが送られてきて、その後も取材可能な更新データをやり取りするのがメインとなる。最初のたたき台に目を通すと、どんな方向性に進もうとしているのかというベクトルは感じ取ることができるのだが、さらにプロデューサーとの詳細な電話連絡でベクトルを具体化して進めていく。最初の候補リストはイスラエル人のリサーチャー(ほとんどが番組毎の短期スタッフ)が英語/ヘブライ語で検索したデータを基本としているので、「日本の」最大公約数からはずれていることが多いし、ローカルな視点が抜け落ちていることも多い。例えば、今回も日本の少子高齢化がテーマでありながら「団塊の世代」「2007年問題」といったキーワードは最初入ってなかった。

どれが絶対、ということはないのだが、文化人類学的な調査方法で仕事を進めることのできる専門的な満足感と、仕事の自由さと楽しさという点では今が充実している。ただ、テレビは映像なので「絵になるもの」を求めざるを得ない。文字とせいぜい写真に依存するしかない文化人類学との違いはあって、そこでの不満足度というのもあるのだが、それは次回に。

父親=ジャマのイメージと役割

今日目にしたPigeonのメルマガクリックアンケート:

「前回のアンケートは"パパが一週間休みで家にいるとしたら"でした。その結果は、なんと「ジャマです」が一位!」

なんつう結果!と一瞬ムッとするも、よく考えると「亭主元気で留守がいい」は20年経っても色褪せてないし、「主人在宅ストレス症候群」というのもある、のだからこのアンケートはこの結果が想定されていたんだろう。実際メルマガ編集者本人が最後に(その気持ち、よく分かります)と実感込めて一票追加してる。

父親=ジャマなイメージは新しくもなんともない。船長と「確かに、そういう家庭って多いんだろうね」と想像もできる。ただ、それを妊娠・出産・育児をコンセプトとするPigeonが助長するのはいかんだろう、という気になる。

先日久しぶりに電車に乗り広告がジャンジャン目に入ってくると、疲れていないといけないような気になってくる。「疲れた体に」「ストレス」「リフレッシュ」そんなフレーズに、思わず自分の健康状態や食生活を振り返った。幸い、私にそれらは無縁だ。

健康で、疲れてない。しかし、油断していると「疲れたからだ」「ストレス」「リフレッシュ」の波に飲まれてクラクラしてくる。

イメージに左右されずに、自分の居場所を確保して、自分の意見を持つということがさらに求められた時代だということを改めて思う。

そのためには、父親=ジャマのイメージの波に押し流されないように、家庭でちゃんと役割を果たすことが必須だと思う。

「父親の役割とは?」

きっとそれは各家庭によって違う、そのことが忘れられているのかもしれない。家族の形態が変わっている時代なのだから、夫婦の役割だって話し合わないとどれがいいのかなんて分からない。

「父親=ジャマ」のイメージの裏には、そうした「父親はこうあるべき」というイメージや思い込みが夫婦別々にあって、共有できていないような気もする。

こんなことを、通勤なくて、家にいて、それで仕事ができるのが最高、と三週間を振り返りながら考えた一日でした。

離れてこそイスラエルの人々が身近に

自宅で仕事をするようになって三週間、随分イスラエルの人々が身近になってきた。これは全く逆説的な感覚の変化である。

通勤していた頃、職場ではイスラエル人をずっと目の前にしてヘブライ語を話し、イスラエルの政局をフォローする日々で、他人からは「まさにイスラエルの中心にいる仕事ですね」と言われても、四年間一度もピンと来ることがなかった。

簡単に言い換えれば、自分が経験してきた複雑に絡み合った色とりどりのイスラエル社会やイスラエルの人々という理解が全く感じられなかった。イスラエルの人々、社会、国家というものが、職場でいとも単純に表層化されてしまって、目の前にイスラエルの人々は存在するもののペロ~ンとしたまるで二次元の存在だった。

今は朝から目の前にいる家族と顔をあわせ、日本語で過ごし、翻訳はもっぱら英語。イスラエルの友人とのメールも英語なので、ヘブライ語と言えばせいぜい取材打ち合わせのために一週間に二~三回プロデューサーと電話する程度。明らかにイスラエルの人々からは遠い位置になった。

しかし、感覚としてイスラエルの人々は近くなっている。フリーになったことで、一言では言い切れない出身地、食文化、母語などの複雑な人々について触れたり、語ったりする機会が増えてきたからだと思う。

先日のトメル・ヘイマン監督の映画の内容やステージトークもその一つ。それに、最近特に相談を受ける日本市場進出を狙っているMade in Israelの品々を作り出す職人達。

思わず大人が欲しくなりそうなデザイン家具、玩具のShani Hay:
KINOKO


そして、元々グラフィックデザイナーだったのに、ある日夢だったファッションの道へ転身、デザイナーとしてのキャリアと夢だったファッションを形にしたアクセサリーLK Jewelry

それに、文具デザイナーのこのホームページは楽しいので一度ご覧になること超お勧め!(要最新JAVA)
Yaron Elyasi

市場が小さいので、返って職人技に打ち込めるんだろうか?"他人と違うこと"を美徳として作業しているんだろうな、と思えるような作品を目にしながら、呼吸を伴ったイスラエルの人々が身近に感じられて少しホッとする。

「現場からの声」地震の取材受ける

夜も1時半になる頃、電話がなる。そんな時間普段は寝ているのに、今日は映画通訳の準備をしてたので、たまたま起きてはいた。けど、こんな時間の電話に「もしもし!」と普通に出るのは安売りのようで、とりあえず不機嫌に出る。

受話器越しに聞こえるこの雑音、国際電話だな、と思うと「すいません、ごめんなさいこんな時間に。まずは謝ります」と女性のヘブライ語。「今、夜中の1時半だけど。偶然起きてたけど一体何?」と安売りはイカンと不機嫌を続ける。「知ってるわ、こんな時間に電話してすいません。イスラエルのチャンネル10の者ですけど」とひたすら謝った後にようやく名乗る。メディアで働くイスラエル人独特のスピードとトーンで「今回の地震のことについて話して欲しいんだけど」といきなり本題に入った。

「あの~その時間掃除とかしていて気が付かなかったんだけど」
「まったく?二回目も?」
「二回目?余震でしょ?」
「いや、夜の11時半頃二回目があったの違う場所で」
「そういや、その時間はここでも感じた」
「どんな風に?物が落ちたりした?」
「いや、ただ揺れただけ」
「朝のは全く揺れなかったの?」
「そういえば、船長(とは電話では言わないけど)の実家があっちの方で、電話したらかなり長く揺れて怖かったって言っていたよ」
と知らぬ間に向こうのペースで助け舟を出してしまう、
「けが人は?家は壊れなかった?」
「いや、みんな無事、だけどかなり揺れて怖かったって」
「家族の名前は?」
「(一応苗字だけ伝える)」
「私の義理の父のお兄さんはまさに震源地でまだ連絡が取れないんだよ」
「大丈夫なの?」
「だから電話もつながらないし、分からないんだよ、現場はライフラインも確保できてないし、食事だってないんだから」

そんな地震なのに全く感じなかった私のコメントなんて全く説得力ないよな~と感じながら最後まで安売りはせずに電話は切れた。

5分位すると、

「すいません、邪魔すんのもう最後だから」と同じ局の別の人から電話がかかる。「そっちが夜中だって知ってるんだけど、ホントゴメン。今回の地震で原発について何か聞かなかったか、それだけ教えてくれ」ともう声が必死。

きっと彼も上司に言われて電話しているんだろうな、みんな大きなシステムの中で求められた仕事を達成するために必死なんだな、と思うと急に協力的な気分になってきてちょうど一時間前に見た「朝日新聞」の記事を参考に、「引用だけど」と断ってと少しだけ話す。

今朝のテレビをつければどこも「現場からの中継」。現場の住民はテレビだって見れず、食事だって手に入らない状況にいるわけで、不安な顔で中継しているカメラの向こうに立っている。イスラエルでは地震を感じなかった私のコメントが「現場からの声」に使われたのかもしれない。

本当の現場って説明したり、ご飯食べれないくらい切迫していて、「現場」なんて感じている余裕はないはず、「現場」は現場にいない者が想像力を欠いて一方的に決めるところ、そのことを忘れてはならない、と改めて思う。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。