漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

  

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新潟で「イスラエル」を考える

天気予報は相変わらず曇か傘だが、嬉しいことに今日も「新潟」では太陽を見ることができる。

どれだけ現場に沿った発言ができるのか。これは私の中で常に大きなテーマであり、またここブログという媒体で書く時にも心がけているかなり重要な課題。私は結果的にイスラエルやそこで話されるヘブライ語にかかわる仕事が多くなっているのだが、「イスラエルは...」とイスラエルを単数化、また擬人化した表現はできるはずもない、というある種諦めの大前提に立っている。

しかし、普段新聞を読んだり、本を読んだりしていると「イスラエルは...」という文のなんと多いことか。これは「日本は...」「アメリカは...」という表現も溢れている中で何もイスラエルに限ったことではないのだが、イスラエルは地理的に遠いことも手伝って、現場とは切り離されたところでどんどん再生産される。

5年前に帰国してから、「イスラエルは」と発した瞬間に現場から切り離される文を読んだり、そのような発言を何度も耳にする経験を重ねることで、イスラエルという空間で生きる人々の生活、思想、それこそ人生と、日本における(日本語での)「イスラエル」に関する言説は別のもの、と理解するようになった。実は、その辺りの感情的な違和感は自分でも理解していたものの、そのことはこれまで自分の言葉として頭の中で整理されてはいなかった。この度池内恵『書物の運命』(文藝春秋)を読んで、その違和感を自分の言葉で表現するヒントを得たようなすっきり感があった。

池内氏はアラブ社会を研究対象とする中東研究者で、各紙の書評やコラムで積極的に発言していてそれを見るたびに「おお、すごい!面白い!共感!」と注目していたのだが、ようやく単著を手に取ることができた。同年代ながら、私などとは比較にならない読書量によって積み上げられたであろう、一文一文の中身の濃い文体を読めることはかなり満足度が高い。

同著ではエドワード・サイードが日本の社会科学で無批判に評価されていることへの指摘は新鮮な気分になるが、「「中東問題」は「日本問題」である」は中東地域を専門とする者にはかなり鋭い切り込みで参考になる。「日本の中東・イスラーム言説に制約を課している「業界的」事情を述べるのは陰鬱な気分にさせられるが、誰かが声に出して正しておかなければ状況を変わらない」と筆者が述べ、「しゃべり過ぎた」ことも含めて自由に語っている文章は、私のモヤモヤの違和感に光を当ててくれた。

改めて私の感じている違和感を振り返った。政治家が「イスラエルは...」(また「日本は」でも「アメリカは」でも)と発するのはその業務上理解できることだとしても、ジャーナリストや研究者がそうした国名を単数化したり擬人化したりして発する時には、そこに何かしらの(時に内輪の)政治性が含まれることもありうる、のだと思う。ジャーナリストであっても、研究者であっても、またそうしたプロが現場に行ったとしても、それが現場に沿った発言につながるとは限らない。そのことをこれから自分の問題として、より謙虚に現場を見続け、より冷静に現場に接しなければならない、ということを池内氏の読書を通じて改めて痛感している。
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言葉の壁

先日、イスラエルとパレスチナで活動するある日本人フリージャーナリストの現地日記を読んだ。真っ先に感じたことが二つ。結局のところ、言葉(ヘブライ語)が分からないことの恐怖、実はそれが様々な思考と現地理解に大きな影響を与えているのではないか、ということ。それから、「民衆」という神聖視し過ぎた表現に自らが束縛されているのではないか、ということ。これら二つは彼に限ったことではなく、その地に足を踏み入れているフリージャーナリストの多くに共通していることではないか、と思い始めると、どんどん「そうだ、そうに違いない」という勝手な確信に進んでいってよろしくない。会ったこともない人に対する考えが一方的に進むのは怖いので、ここで前者のことだけでも書きとめて私一人の狭い考えから開放することを目指したい。

この現地日記にはガザへ向かう検問所での様子が詳細に記述されているのだが、いかに検問所の扱いが厳しいか、また、非人道的か、という問題はこの地を題材にした現地レポートではよく取り上げられるし、その扱いを非難する活動も多い。検問所の扱いに抗議する活動は国際NGOやNPOに限らず、イスラエル人の友人たちからも「微力だけど、抗議の動きは見せないと」と活動の声を聞いた。

軍服に身を包み、自分の知らない言葉を話す人と接する。その時間は、それだけで十分恐怖だ。ヘブライ語同士の会話は時に喧嘩のようにも聞こえるし、自分のパスポートがいったん自分の手を離れ、そんな兵士達の手に渡り、逐一調べられる間、自分が検問所を通過できるかどうか、という不安と共に「独り」過ごさなければならない時間は、誰にとっても気分のいいものではない。

その現地日記を読んでいると、言葉が分からないがゆえに生まれるそうした恐怖や緊張感、それが検問所という場とそこで過ごす彼の時間をかなり支配しているように思えてならないのだが、それは彼本人の恐怖や緊張感と自覚されそうになる瞬間に、パレスチナの人々が日常的に感じている恐怖や緊張感への共感へスルリと置き換わってしまう。私はこの地の現地レポートを目にする時、すでに見るものを行く前から予想しているのか、個性が感じられないな、といつも感じてしまうのだが、それはこのあたりの壁を自分から他人に置き換えていることなのかもしれない、とふと思った。

言葉が分からない空間にいること、そのことは、そのことだけで耐えられないほど怖いのだ。そして、その怖さを受け入れることも怖いのだ。しかし、この怖さは、言葉が分かれば随分と軽減されるものだと私は信じている。いかつい顔でパスポートを手にしながら、案外他愛のないことを話している、それが分かるだけで、スッと恐怖心も緊張感も消えていくこともある。

現地日記を読み進めていくと、そのジャーナリストは長年その地で活動しているので、様々な情報や研ぎ澄まされた感覚を持っていて、そのことには敬服する一方で、そうした体感したことを英語の情報だけで処理しようとすることが様々な無理を生んでいるように見えてしまう。日本にいるジャーナリストが「Japan Time」や「Daily Yomiuri」で情報や地元感覚を得ようとしてもそれは無理がある、それと似ている。

実は、この現地日記を読んだ同じ日の夕方、この住宅に住むブラジル人と会ったのだが、船長はスペイン語で何とか会話ができたものの、その横にいた私は一言も、それこそ「English」の一語も通じず、「目の前にいるのに目の前にはいない」という久しぶりの言葉の壁を冷たく体感した。それだけに、現地日記を読みながら、そのジャーナリストが直面している言葉の壁が見えて仕方なかった。

言葉が違っても通じ合うことはできる。もちろん私はそのことを信じているのだが、言葉が通じないことで立ちはだかる壁があること、特に、現場に行き、現場を描く、という作業に携わる者として、その限界を自覚しつつどれだけ誠実に現場に接近できるのか、ということは基本的な課題なのではないかと思う。

私は、ガザに足を運ぼう、とは少なくとも今の時点では思わないので、現場に行く、というエネルギーと勇気には素直に感心する。ただ、現場に行けば現場が分かるわけではない、まず言葉の壁があって、乗り越えられるものと乗り換えられないものがあることの見分けは必要だろう。現場理解(他者理解/異文化理解)の過程は、限界点から出発している、当たり前のことだが長く接しているとそれを忘れて「分かった」気になってしまう、ヘブライ語の精度をもっとあげないと、と自分を反省しながら「言葉の壁」について久しぶりに考えた。

ジャーナリスティックでアカデミック

研究者は学会論文を書いてナンボなので、書かないと始まらない。評価の基準も、研究者として認められるか否かの基準も、結局は論文の内容と本数。それはどうしようもない事実であって、やるしかない。

私は研究発表などを終えた後に「ジャーナリスティックですね」と言われることがある。「ジャーナリスティックでもありアカデミック」な研究姿勢と研究成果は基本的に目指しているので、「ジャーナリスティック」という表現を耳に出来るのは一瞬褒め言葉のようでもある。しかし、今の自分の研究に対する「ジャーナリスティックですね」という表現は、「でも、まだアカデミックじゃないですね」という表現を和らげたものだと私は理解している。

つかみはいい、多くの人に分かり易い、そして視点が現場に近い。私が「ジャーナリスティックだな~」と感じるのはその辺りが基準なのだが、その部分に関しては自分でも方向性は間違っていない、と自覚している。ただ、「それで何が言いたいの?」という問いについて研究者と土俵に上って勝負をする段階になると、基本的な体力というか、これなら負けない自信のある技というか、耐えうる足腰が弱くてガタガタと崩れ落ちる。「アカデミックじゃないな」と自分で感じるのは、この研究者同士による土俵上での勝負に全く歯が立たない時だ。

「ジャーナリスティックでもありアカデミック」な研究に近づくには、これはもう訓練しかない。淡々と継続する持久力、まずはその力にゆだねるしかないのだ。

こんな改まったことを考えるのも、4月までに学会論文を何本か出したい、とその提出先を考えながら、昨日シミジミと自分の研究について振り返り、また先をにらみ返したからである。

"ちがい"さがし

娘の本を探しているある日、「ちがいさがし」という言葉にであった。「あ、"まちがい"さがしのことか」と納得するまでにそんなに時間はかからなかったものの、その"ちがい"は考えれば考えるほど奥深い。二枚の絵を見比べて"ちがい"を探すあの遊び。確かにその二枚は"ちがう"のであって、"まちがっている"のではない、言われてみれば当たり前なのだが、目からウロコが落ちるくらいの新鮮さがあった。

私は4歳の頃引っ越しをした。その引っ越した先で遊んでいた同年代の子の輪に入ろう、とかなり勇気を出して「い~れ~て~」と言ったところ、「"かてて"と言わなきゃダメ」と強そうな女の子に一蹴された苦い経験がある。子ども心に「そんなの恥ずかしくって、、、」と結局言えなかったのだが、世の中には場所によって違う言葉やルールがあって、それに従わなければ仲間に入ることができない、ことを初めて体験した瞬間として今でも生々しく記憶している。

文化人類学、異文化理解、などと偉そうな単語を使うまでもなく、自分とはちがうな~と思うことは日々の生活の中で繰り返し体験する。しかし、年齢があがればあがるほど"ちがい"を"まちがい"にスルリと変換して簡単に処理してしまうことが多い気がする。"ちがい"を"まちがい"に変換せずに、"ちがい"を"ちがい"としてそのまま受け入れること、その方が簡単なはずなのに、実際にはエネルギーがいるし、また難しい。

「ちがいさがし」は二枚の絵を比べることで成立する遊び。なら、三枚だったら?と考えたら、「なるほど!」と目の前が明るくなった。二枚だけだと、AはBとちがう、BとAはちがうのだが、三枚だったら、AはBとちがう、Cともちがう、つまり、みんなちがう、のであって"まちがい"にはならない。

ちがうな~、と思う瞬間に、自分と目の前の比較だけではなく、もう一つ三つ目のことを考えれば、"ちがい"は"ちがい"のままで受け入れ安くなるかもしれない。研究で生きる上で三つ目のことを充実させるためには読書、書くのはその次、もっと読まないと。

"イスラエル"映画

「迷子の警察音楽隊」のエラン監督と主演ガバイ氏と四日間ビッチリ時間を共有して、一番感じたことは、彼らはイスラエル映画をつくっているわけではないこと。

私はイスラエルの社会をどう見るのか、という関心で研究に進んでいるのだが、「イスラエルは・・・」とあまりに簡単にイスラエルを主語で語り過ぎている、イスラエルという空間から切り離され議論されすぎている。彼らとの出会いによってその空論を痛感しながら映画祭を振り返る日々である。

脚本、監督、主演全て自分:学会発表

学会発表から二日経ち、ジンワリと頭の中でいろいろなことが広がる。野球の試合の後の、あの感覚と同じだ。何であそこを狙わなかったんだろう、あの球を見逃してなければ、似たような反省だ。ただ、研究を職に目指すのであれば、反省をその場限りで消化しているだけでは不充分。課題、それに対する対応の仕方を含め、船長とのミニ戦略会議も経て今後の目標は随分具体的になってきた。改めてゴー!しかない。

研究者になろう!そのためには博士号がなければ!と思った決定的な要因は、研究のプロセスも当然ながら、自分の責任で発言をしたい、という一言に尽きる。"イスラエル"というその響きから様々な連想がされる地域を対象にする際、この点での覚悟があるかないかで研究の姿勢は随分左右される。自分にはそれができる、というある程度の自覚も今の方向性に導いてくれている。

7月に独立以降、いくつか映画の仕事をさせていただいてきた中で、映画と研究の違いについてもいろいろと考えさせられた。(参照「SkipシティDシネマ国際映画祭に参加して」)

今回の学会発表の準備の過程で感じたことは、学会発表というのは、脚本、監督、そして主演、細かく言えば映像から音響まで、とにかく全て自分で決められる作品であること。どんなに優秀で、潤沢な資金がある映画監督でも、そんな作品は作ることなど不可能だろう。

今回与えられた25分という時間をフルに使って、自分で好きに演じていい、そんな贅沢なことが研究者にはできるのだ。

その贅沢で自由な枠の中を一人占めできるのが研究者の特権であれば、その作品に対する全ての責任も研究者個人に負わされている。

研究者になるには、その自由を満喫する楽しみと、責任に耐えうる覚悟と忍耐力、その両方が必要なんだと思う。そのためには、やっぱり日々の素振りしかない!と気持ちのいい秋晴れの一日に力が入る。

試合でバットを振ってこそ

一人で素振りをしているときのイメージは常にクリーンヒット。スイングしてその先に飛ぶ球は、いつも会心の当たりだ。

しかし、試合で投げられる球を振った後の結果は、決してクリーンヒットではない。なぜ凡打したのか、なぜ絶好球を見逃したのか、試合のバッターボックスに立たなければ反省も悔しさも得られない。

試合で投げられる球は限られている。その数少ない球をイメージ通りにクリーンヒットで打ち返すには、やっぱりひたすら素振りしかない!

昨日の学会発表を終えて、いまジワジワとこの手に感じるのである。

いい本の基準:『他者の権利』プチ書評

研究者には、研究(独創性)、書く、口頭で発表する、教える、といった様々な能力が求められるが、何より基本は読む力だと思う。私はこの読む力、というか読むことそのものが苦手。小さい頃から本を読んでも、何が書いてあったのかすぐ忘れてしまうし、「どうだった?」と聞かれても内容を覚えていないので全く答えられないことがしばしば。小学2年生の頃、祖父に送ってもらった『二宮金次郎』を読んだ後、祖父に電話で「どんなお話だったかい?」と聞かれ、しばらく考えた末「最後に死んじゃった」としか言えなかったことはちょっとした屈辱感と共に今でもよく覚えている。そんな私が、"お、この本面白い"と思えるには、とにかく簡単な言葉で分かりやすくないといけない。特に、この本で何を言おうとしているのか、何が言いたいのか、筆者の目標が序論で明確に伝わってくると、いいなこれ、とペースも上がる。

『他者の権利』は先日もちょろりと取り上げた最近の私のヒットなのだが(参照:漂流博士「収穫の秋、研究の秋」)、理由はその明確な序論にある。序論を読めば、筆者セイラ・ベンハビブが何を言いたいのかがほとんど分かるので、本を読むことが苦手な私でも、筆者と同じ足並みで読み進むことができて、「何が書いてあったっけ?」と一人迷子になることがない。この本はケンブリッジ大学で行われた講義の原稿を基にしている、ということも読むときには分かりやすい一因なのかもしれないが、講義でも本でも、いわゆる「つかみ」が重要だ。

本書では、政治的成員資格に焦点をあてることで、政治共同体の境界線が検証される。

これが『他者の権利』の第一文なのだが、いきなりこの本の目標から始まる。前置きなく、ガバっと本題に入る本は、筆者のピントも一つにビシッと決まっているので、ボヤッと本を開いてもすぐに読む戦闘態勢に入れる。私なんかはすぐに「政治的成員資格?」と一瞬頭に「?」が浮かぶが、

ここでいう政治的成員資格とは、外国人やよそ者、移民やニューカマー、難民や庇護申請者を、現存する生態に編入するための原理と実践のことである。

と、つかさず次の文でフォローしてくれる。その直後には「政治的境界線は、、、」と続くのだが、こうした読者思いのペースとフォローはうっとりとしてしまう。『他者の権利』という一見モヤモヤしたものを、これくらいすっきりとしたつかみで第一文から書いてみたいものである。

近代の国民国家の境界線は不可視であると同時に、政治的成員資格の加入および脱退を規制する実践と制度も不可視であって、理論的な検証や分析にかけられなかった、というベンハビブの問題提起に納得できるのも、直前の政治的成員資格と政治的境界線の定義付けが明確だからであろう。問題提起まで読者をしっかり引き付けておいて、

そこで本書では、国境横断的な移住が、そして国境を越えた諸国民の移動によって提示された憲法上および政策上の争点が、国家間の関係の、したがってグローバルな正義の規範理論にとって重大であることを論じてみたい。

ともう一段踏み込んだテーマを提示されると、読み手の頭の中には地球上で国境をまたいで移動する人々がイメージされてより具体的になる。

ここまででまだ1ページ、私でも「ベンハビブについていける!」という自信と安心を与えてくれる、素晴らしい「つかみ」である。

本を書く、という作業の前には研究と議論がかなり積み重なっていて、実際に書くのは短時間。私はまだまだその積み重ねの段階なのだが、その過程でこうしたいい本に出会うと、積み重ねた先の目標も明確になっていい。どれだけクリアーな一文で書き出せるのか、それが当面の私の目標である。

単なる番号、それが与える喜びについて

8桁の番号、ただの番号なのだが、手にしてちょっとした喜びがあった。

「カケン(科研)」と呼ばれる日本学術振興会の研究助成の募集要項が9月3日に発表され、私もサイトで該当分野の応募資格や締め切りについて確認し始めたところなのだが(ちなみに「若手研究」は年齢制限が37歳、42歳以下なので"若手"の定義は相対的なのだとシミジミ感じる)、基本的な条件として応募者はどこか研究機関に所属していないといけない。

多額の研究助成を支払う対象を、研究の場を研究機関によって承認されている者に限定するのはその合理性も考えて道理に適った方法であろう。私のように一度研究機関を離れた者には、研究室が使えて、図書館が使えること、すなわちある研究機関に研究することを承認してもらうことが最初の関門であって、研究機関に所属するという一見当たり前の資格を得ることは案外大きな一つの目標である。幸い、6月の退職を機に(元)国立大学に所属した「博士研究員」になることができたのだが、それはカタガキ以上の機能を果たしてくれることを改めて実感している。

まず、「博士研究員」を名乗ることによって、論文を発表する際などに「私は研究を生業にしようとする者です」と宣言する効力を与えてくれる。さらに、これが現実的には大きいのだが、研究助成などを申請する際に「所属機関」をきちんと名乗れるようになり、特に「カケン」に応募するには研究機関が取りまとめる「研究者名簿」に記載されている研究者であって、それを証明する「研究者番号」の入手が必要なのだが、「博士研究員」であることはそれを可能にしてくれる。

そうして発行された「研究者番号」がカケンの募集要項が発表されたタイミングで先週届いたのだが、そこに並んだ数字を目にして、新たな扉を開いてくれる鍵のような、また日本の研究機関に所属する他の研究者達の仲間入りを果たしたような、そんな小さな喜びがあった。

単なる番号がある社会へ所属する資格権利を表すことは、パスポート番号や身分証明書番号(日本にはないが)などでもお馴染みだが、個人的な経験としてそうした意味合いの番号を手にして何かしらの心の変化を実感したのは今回が初めてだと思う。

行政システムとしてのパスポートや身分証明書、また国籍という資格と個人の所属意識についての関係は、学部時代からの関心事項でもあり、博士論文でも取り上げている。イスラエルでは建国直後の1950年に成立した帰還法によってユダヤ人であればイスラエルへの移住(アリヤーという上ることを意味する語で表されるので、通常は帰還と訳される)と同時に国籍を入手できるのであるが、その国籍の授与は現在身分証明書の授与によって象徴的に表現される。

昨年実施した調査中に、エチオピアから移住してきた人々にこの身分証明書を授与する機会に出席したことがある。この「身分証明書授与式」は、移住者の一時滞在センターの長が「みなさん、おめでとうございます、これによって皆さんがだれであるのか、どこに所属しているのか、全て分かるようになります」との挨拶で始まった。その後エチオピア出身の人々がエチオピアの礼儀に従って左手で右手を握りながら右手で握手をして身分証明書を受け取り、さらにその身分証明書を手にした腕を上に掲げて喜びを表す瞬間がとても印象的だった。
ID受け取るエチオピム


IDをかざすエチオピム


実際に子どもを学校へ通わせて、就職して、さらに国民保険を受け取る、将来は年金を受け取るといった社会福祉サービスを得るためには国籍の入手が不可欠であって、そうした基本的な生活が保障されるという意味での喜びは当然あるであろう。しかし、国籍には権利を獲得して義務を果たすことの他に、いやまたそれ以上に、所属意識という目には見えないものが隠れていて、さらにその所属意識の獲得には喜びが伴っていることを考えると、身分証明書やそこに記されている番号が与える喜びはもっと複雑であって、手放しで喜べるものでもないのではないよな、などと「身分証明授与式」に出席した時に私はいろいろと考えた。

この度「研究者番号」を見た時、並んだ数字を見たときの喜びという心の動きはもしかしたらこんな感じだったのかもしれない、と私はその「身分証明書授与式」の光景をフっと思い出してしまった。「研究者番号」は所属意識を表すものでも、またそれを求めるものでもない。研究助成を申請するための「研究者番号」と兵役に呼び出されることも意味する国籍を表す「身分証明書番号」とは比較にならないことも充分認識している。しかし、単なる数字であっても喜びを感じることがやはりあるのか、という私の経験と、それによって「身分証明書授与式」の場面とそこで感じたことを思い出したことには何らかの関係がありそうで、まずはきちんと記録することにする。

映像と文字:中川牧三先生宅訪問取材

取材最終日の29日、イタリアオペラを日本に普及させた大先生、中川牧三先生のご自宅を訪問した。故河合隼雄氏との対談『101歳の人生をきく』(講談社、2004年)が出版され、100歳というイメージを覆す現役音楽家の姿が強烈に紹介されたのはまだ記憶に新しいが、この4月にもイタリア・ボローニャにある自宅に足を運ぶほど元気な音楽家である。中川先生はこの12月に105歳、長寿社会に向かう私たちに少しでも勇気を、という番組内容に理解していただきこの度取材が実現した。

実は今回の取材は一度諦めた経緯がある。初めて7月に連絡をした際、中川先生は5月に転倒して以降入院生活を送り8月に取材に応じられるか分からない、という娘さんからの説明もあり、リハビリの進み具合を見守る状況だった。そして、取材開始した8月22日、やはりその後もあまり体調は芳しくないので取材に応じられる状態ではなく申し訳ないが諦めて欲しい、との連絡を受けて取材陣も一様に理解した。しかしその二日後、せっかくイスラエルから来ているのだからできる限りは協力したい、と再びご連絡をいただき改めてご自宅へ訪問することになったのだ。

今回の取材に向けて、番組内容とは直接関係ないのだが、中川先生が第二次大戦中に上海でユダヤ人難民の人道的保護にかかわったという内容にも関心があった。杉原千畝氏はテレビドラマになるなど大戦中にユダヤ人を保護した人物として有名だが、その他の人々の活動についてはどうもはっきりしない。そこで、今も元気に生きていらっしゃる中川先生に直接当時の話を聞いてみたい、という思いも小さいながらあった。一世紀以上生きている方、古希野球でプレーする方々よりもさらに30年以上も生きているというのは想像もできなかったからだ。

取材当日、お昼過ぎに自宅に到着し慌しく部屋に入ると、シャンとした姿でソファに腰掛けている男性が目に入った。中川先生である。先日取材をさせていただいた日野原先生は本当にお元気だが、首の角度や腰の角度などから90歳を越えているという外見の年齢は否めない。しかし、中川先生は背筋もしゃんとして、顔立ちも本当にすっきりとしていて80歳位にしか見えないのだ、そのスッキリした様子にまずは驚いてしまった。

それでも、「これでも入院してから体重が10キロも落ちてしまって、その前はもっとしゃんとしていたんですけど」と娘の久仁子さんは入院以前のもっと元気だった頃の様子を語る。さらに、体重が落ちただけではなく、入院生活で体力も減退し、いくつか病気も患っており、ベッドから起き上がるのも入院してから今日が初めてだと聞き私は何とも恐縮した。目の前に一世紀以上の歴史を知っている中川先生が座り、お話をいただける、というだけで私は感激だった。

一方、リポーターはじめ取材陣はお話だけでは物足りず、何とかテレビ的に現役音楽家としての中川先生の様子を取材したいと翻弄していた。すぐ横にあったピアノを弾いて欲しい、座るだけでも、とリクエストは出るのだが、四ヶ月ぶりに初めて起き上がった中川先生にはソファから立ち上がるのも腰が痛み大きな負担だ。リポーターはいろいろ頭をひねって「オーソレミオ」を口ずさんだりするのだが、中川先生はニコニコ見ているだけで一緒に口を開くことはなかった。中川先生はイスラエルからのお客さんを向かえるということだけで大きな第一歩であったのだ。

結局ご自宅での取材は1時間、お話をうかがうことはできたが、現役音楽家としての映像は取材ができなかったというテレビ的なまとめで取材は終了した。

取材陣が家を出て機材を片付けている間、私は最後に中川先生としっかりと握手をしたのだが、その大きくツヤツヤした手を握っただけで理由もなく目頭が熱くなってしまった。ほんの一時間お話をしただけだが、104年生きるというのは私たちが言うほど先生にとってはスゴイことではないのかもしれない、と言うのが私の第一の感想だった。しかし、握った手からは想像も絶する生きた深い時間がジワジワと伝わってきて、そのまま私の全身に伝わってきて胸と目頭をキューっと押し付けてきた。そんな経験ができたこと、私は先生を目の前にお話できたこと、また最後に手を握れたことで満たされた思いで家を後にした。

取材陣は映像資料を集めている、しかもロケというのはその場、その瞬間での映像記録にこだわる。ピアノもなく、歌声もなく、座ってお話しする姿から現役音楽家は描きにくい、というのも仕事の性質上理解できなくもない。彼らはこれから今後の編集で頭を悩ませるのだろう、元気な現役音楽家を映像で描きたい、という当初の予定に照らし合わせながら。

私は調査に出かけると文字しかない、という限界を感じる。私の後ろからずっとビデオカメラを回すカメラマンを同行すれば何て簡単なんだろうか、と思うこともある。

しかし、今回の取材を通して、表現方法としての映像はやはり強いが、その資料の収集過程を見ると映像の完全勝利ではないよな、と改めて学ぶことが多かった。

取材陣や番組内容によって取材の過程はいろいろあるとは思うが、取材をするという意味ではカメラをどこに向けて何を撮るのか、ということと、何を見て何を聞いて何を書くのかということはいずれもある制限の中で行われている。カメラであってもペンであっても何か意味のあるものを最初から求めているのであって、その意味のないものは最初から除外される。カメラは限られたフレームでしかのぞくことができず、さらに録画を中止すればそれ以降何もない。ペンの場合も全てを書くなどということは不可能で、どこかにフレームを設定して、記録をするものとしないものに分けなければならない。ただ、ペンの場合には取材者がフレームを少しでも広げることができる。その可能性に改めて気づくと共に、ペンであっても文字を扱う能力によっていかようにも描くことができるという希望を胸に、まずは10月の学会での発表、そして論文発表を目指したいと思うのである。

朝青龍と綾部恒雄:ホームと人類学

今日はタイトル負け、と最初から陳謝。それでもこのタイトルにしないと気がおさまらないのであえて強行。いつかこのタイトルでショートエッセーでも書いてみたいなぁ、今日はそのブレインストーミング。綾部恒雄さんは北アメリカや東南アジアをフィールドとして数多くの研究を発表し、日本の文化人類学の体系を整えた大御所だが、昨日亡くなられた(享年77歳)Asahi.comより。私も学部の頃入門的な本を読んでいて、ざっと本棚を見ると『現代世界とエスニシティ』弘文堂(1993)、編著『文化人類学と人間』三五館(1995)が目に入る。

一方、朝青龍はいわずと知れた渦中の横綱。今回の朝青龍に対する処分でモンゴルに帰国できない、との文言が含まれているけど、それって自国中心主義的な考えであんまりじゃないか?という問題提起を、昨今の文化人類学でもホットな視点、つまり、国境を自由に越えるようになった昨今の人々の動きをホームとアウェイ、もう一歩踏み込んで、ホームとディアスポラという枠組みで考えてみよう、というのが今日のここでの目標。

一般的な解釈として、ホームと言えばそれは一つで、何か揺れ動かない絶対的な場所にとらえられると思うし、文化人類学も結構その視点から研究が成立してきた、いやまだ完全に過去形では言い切れない。人には一つのホームがなければいけない、みたいなちょっとしたプレッシャーは思いのほか結構強い。

しかし、ホームって必ずしも一つではないんじゃないの?という声が文化人類学の中に増えているのは確かで、特に対象を移民や出稼ぎとする研究者には敏感なテーマだ。移民や出稼ぎ者にとって、現在生活している場所だってホームだし、出身国だってホームだし、そうした複数の地を心情的に、また物理的に行ったり来たりしているのが現状ではないかと指摘されることが最近多い。ホームは一つと決めちゃうのは研究者の思い込みで、その視点で対象に近づいては現状理解できないでしょ、という突っ込みには私も同感である。

そこで自分の研究から一言:イスラエルはユダヤ人の帰還によって国が成立しているとよく言われる。しかし、それはシオニズムをなぞった説明に過ぎず、実際に最近移住するユダヤ人の声を拾うと経済的なものだったり、また家族が一緒に住むためだったり、イデオロギーによるものよりも、もっと現実的な要因が彼/女らを移住へと導いていることが分かる。イスラエルの文化人類学者の中では、帰還(ヘブライ語では「上ること」を意味する"アリヤー"と言う。その反意語は「下ること」を意味する"イェリダー"と言う。すなわち、イスラエルへ移住することは上京、イスラエルから他国へ移住することは都落ち、というニュアンスが含まれる)というイデオロギー的な視点から研究者自身が自由にならないと、イスラエルの移民研究が現状に密着していけないという自己批判的な指摘が特に90年代後半以降強まっている。

で、ここから朝青龍。朝青龍は大相撲という今のところ日本にしかないスポーツで生業をたてる横綱で、東京に自宅もある。そしてモンゴルに実家があるし、家族もいる。朝青龍にとっては、自宅と実家と二つのホームがあるわけで、その往復は朝青龍にとってきっと自然なことなんだと思う。私の疑問は、そのもう一つのホームへ帰国する極めて個人的な権利を職場の管理職が奪うことってどうなのさ、ということ。

朝青龍に対する処分を巡る議論では、横綱ならそれくらい、という処分に理解する声が大勢に見えるけど、朝青龍にとってのモンゴルが全く考慮されてないことが全く取り上げられず、それについての批判の声が出ないのが不思議でならない。大相撲の横綱であろうがなかろうが、日本にいなくちゃいけない、なんて相撲協会に決める権利は何もないはずで、もし、イチローか松坂が似たようなスキャンダルを起して、MLBから出場停止、さらに日本への帰国禁止、という処分が出たら、それこそ日本メディアは大騒ぎ、世論も黙っちゃいないだろう。

出身国に帰国するかどうか、それは法治国家においては法を犯さない限り本人の自由意志で決められるべきであって、職場はむしろその個人の自由をきちんと確保するべき、と思うのは朝青龍に対する甘すぎる主観なのだろうか。

私は相撲協会に恨みがあるわけでもないし、常日頃から批判が溜まっているあるわけでもない。むしろ、一度生の稽古を見てから魅力を体感した相撲ファンの一人でもある。

そうであるからこそ、開かれたスポーツであるためにも、時代遅れの自国中心的な視点を是非とも見直して、個人の権利と協会の権威が及ぶ範囲をきちんと見極めていただきたいと思う。

言葉が通じず、家族と離れ離れになりながら自らの職業を全うすることは、想像を絶する努力と強靭な精神力が求められることも忘れちゃいけないと思う。

日本語を身につけないとならない、しきたりを身につけないとならない、それに、何かしでかしたら日本から出れなくなるかもしれない、とでもなったら「外国人力士」(いまやそんなカテゴリーも無意味化していると思うけど)でさえ来なくなっちゃうのではないか、と相撲界の心配をしてしまうのは相撲のことを分からない者の単なる余計なお世話なんだろうか?

父親"である"とは?

父親の役割と意識について心理学的視点から卒業論文を書いている、という大学の後輩のインタビューを受ける。

大学時代、私は一学年8人、留学生を含めても全体で40人位の寮で人間関係の濃い~生活をした経験があるんだけど、一度も会ったことのないような後輩でも「寮の者です」と言われるとその濃さを共有している仲間と感じてしまう。そんな初対面の後輩と「父親とは」を語った。

インタビューの中で「父親であることをどう受け止めているか」について問われて、しばし返答に困った。そう問われると、娘と接する時に「父親である」という明らかな意識があるわけではないし、振り返っても「今日から父親だ」と運命的な転換を感じたこともない。授かったことが分かった瞬間も、娘が生まれたことが分かった瞬間も、緊張や喜び、感動、責任は感じても「俺は父親だ」という意識とは違う。

もしかしたら、娘が結婚する時に強烈に「親父なんだな~」と寂しさと共に感じるのかもしれない、とこれから20年以上も先(であることを望む)のことを勝手に想像したけど、彼の質問の意図とは違う。

私は父親である。保育園の書類や健康保険の書類など、行政上は自分の名前の横に父親と明記するし、その都度自分は娘にとって何なんだろうか?と悩むこともない。しかし、後輩が聞きたいのはそんな行政上での分類ではなく、役割や意識といった見えない関係性でのこと。と考えると、目まぐるしく展開する日々と生々しさを父親であるという狭い枠組みに押し込めることはできないよな~と返答できなくなる。

で、悩んだ末の後輩への返答:

「あまり自分が父親だという意識で娘と接していないのかも。三歳とはいえ家族三人が今や対等で日々向き合っているから、父親とか母親とかそういう前提で役割分担したこともないし、父親だからどうだとか、母親だからどうだとか、家族の中の関係性でそういう意識をすることもない。子どもはどんどん成長していくから、当然関係性というのは変わっているけど、それは自分の人生の幅が広くなるような、厚みが増すような感じであって、父親意識が高まったり、父親としての役割を果たさないと、という意識とは違う。だから、こういう関係性を「父親である」という一種外部から押し付けられたような表現では言い表せないんだよな~」

そう考えると、資格や行政上の分類が役割や意識と一致しているかのようについつい考えていることって多いな~と、後輩の卒論に協力して自分の研究についても考えさせられた。
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