漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

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人生初の骨折

リベリアの首都Monroviaから車で12時間、リベリアとコートジボワールの国境に近い茂みの中。そこで実施中の農村開発のプロジェクトサイトに向かって歩いている時、足元を取られ、足首から「パキパキ!」といい音が。何もない、気のせいだと言い聞かせて歩いたけど痛みは止まらない。運動不足の中年が子どもの運動会で無理をして走ったら、ものすごい音がしてアキレス腱が切れた、という話を思い出す。すぐに、自分とは関係ないと言い聞かせる。

13年前まで続いた内戦で村民が逃げていなくなっていた、という近くの村に病院などあるはずもなく、車で2時間ほど行った宿泊拠点Zweduruという町にも病院はない。森の中を抜けてZweduruに向かうまでも、またZweduruからも道は凸凹の赤土の道。舗装された道路に行くまでも8時間はかかる。8時間行ったところで信頼の置ける医者は、まあいない。同行していた人たちに「折れたかもしれない、足が痛くて歩けない」と言うにはあまりにも条件が厳しすぎる現場。結局「大丈夫、歩けるし」そう自分に言い聞かせて森の中を歩き、用事を済ませて何とかZweduruまで到着。

でも、痛みも腫れも引かないので、もうしょうがないと思い同行していたスタッフに告白。リベリアにはまだPKOが展開中で、ZweduruにもPKOの部隊があり、そこに中国のクリニックがあるというのでそこに向かう。中国人男性の医者1名と女性看護師4名くらいがクリニックに。もう閉院間際だったのか和やかに話をしている医師と看護師。看護師の一人が、「あら?」と僕の存在に気がついて「どうしたの?」と聞くので、立ったままの状態で、足をひねって痛いんだけどと伝える。「足首動かせる?」というので、頑張って動かす。そこで動かせないとなったら「おおごと」になるんじゃないかと思ってそこは我慢してグリグリ動かすと、「動かせるなら骨は大丈夫、これ塗っておきなさい」と炎症を止めるクリームをもらう。骨が大丈夫!ということで安心、それにそこにいた中国人女性の看護師が優しく輝いて見えたので思わず両手で握手「謝謝」。

クリニックをでて食事(国連職員専用食堂、それくらいしか食べられるところがないから)に向かい、食事が終わって歩こうとしたら予想以上に痛い。宿に戻る頃には片足でジャンプするのが精一杯。困った。それにそこはシャワーが出ないから、バケツにお湯を入れてもらうバケツシャワー。この足でバケツシャワーはかなり過酷。座り込み、お湯を浴びる、格好からしてもまさに修行。水で濡らしたタオルを足首に巻いて、10分おきに体の角度を変えながら痛くない体制を探しながら寝るものの痛くてなかなか寝れない。しょうがない。

翌日は首都Monroviaまでの移動、といっても舗装されていないオフロード6時間、舗装された道路で4時間の10時間。なので朝6時に宿を出発。オフロードなので車が揺れる、揺れるたびに足がズキズキ痛むので、ハンカチでかかとを覆い、左手でハンカチを引っ張ると比較的マシなことを発見。それでも大きな凸凹を通過する時には思わず「イテテ」と口から出てしまう、そんな6時間移動。途中で食べた焼きプランテーンがおいしくて一瞬気がまぎれる。舗装された道路に出た時の瞬間、それは本当に天国のよう、車が動いても足に響かない、これは楽だ。あと4時間で首都に着く、だんだんと首都に近づいていると思うと、もう痛くないと思い込むのはやめて、クリニックに行ってちゃんとみてもらおうと思うようになってきた。Monroviaは内戦の傷があちこちにあるし、まだまだ発展途上だけど、コートジボワール国境近くの村からしたら大都会、きっとそこに行けばちゃんと見てもらえると思うと気分も楽に。

夜7時Monrovia到着。以前、出張中の万一の際に使える医療機関を確認しておこう、と同僚と見学したそのクリニックに足を運ぶ。エボラで壊滅的になったところにやってきたその外資系クリニックは結構こぎれいなので気分は落ち着く。参考用に、と以前撮影したベッドに自分が横になる、全く想像していなかった光景だ。医者は南アフリカとドイツといったか、2名ちゃんとした感じの医者がいたので正直に事情を説明。

小型レントゲンで痛いところを撮影。無口の医者が、リベリア人のスタッフにレントゲンの位置を指で支持する。無言のまま部屋を出て、電気が消えてパシャリ。パソコンにつないで3分後に現れる画像を見て、ちょっと眉間にしわを寄せながら「もう一枚」と痛い場所を真上にした角度で再度撮影。それを3回、足の骨が3枚パソコンに現れる。先生は何度も写真を見比べては時折じっと一箇所を睨み続ける、何もないことを切に願う。「ここだな」、もう一人の医師もやってきて、「これはCrack、間違いない」、くるぶしに亀裂を発見。真横にきれいにはいった線が確かに見えた。骨か、、、。がっかりしたけど、それだけで、というのも靭帯とかアキレス腱とかそういう厄介なものじゃなさそうだということで少し安心。と同時に、人生初の骨折か、とあまり想像していなかった事実がドンと目の前に突き出されて戸惑った。あの瞬間ちゃんと下を見ていれば、いや、ゆっくり歩いてさえいれば、とかすっかり遠くになったコートジボワール国境付近の現場を思い出しながら、してもしょうがない後悔が湧いては消えた。

アクラに戻り(飛行機のタラップの昇降がこれまた痛かった!)、月曜日に整形外科医のいるクリニックで再診療。改めてレントゲンを撮り、同じ場所に亀裂(いわゆる骨折線)を発見。でも、幸いに亀裂が真横であること、亀裂がかなり下の方で負担が小さいこともあり、ギブスはせず、サポーターのような固定器具で固定すれば大丈夫との診断が下された。といっても、その器具はクリニックでも、その近くでも販売していないので、翌日車で30分ほどかけて買いに行くことに。器具をつけたとしても痛くて歩きにくいから、松葉杖を貸して欲しい、とクリニックに頼んで貸してくれたのはいいんだけど長すぎて、脇にいれても全く歩けないので丁寧に返却。それなら、とアクラでは普通に市内で見かける道端の木工職人に頼んだらいいんじゃないか、ということでクリニックの帰りに以前本棚を頼んだことのあるおじさんのところに立ち寄り、「つくれる?」と聞いてみる。つくれるらしいので早速オーダー。それで、地面から脇、地面から握る場所までの長さを図り、オーダーメイド松葉杖を作ってもらった。

人生初の骨折、この広い地球上でおそらくアクセスが最も厳しいあんなところでこんなことになるとは。でも、まあこの程度でよかった。リベリアでは、ある国連機関の代表から「自分もアキレス腱切った時大変だった。痛い時は「Deep Heat」というスプレーがよかったから是非使えばいい」と瞬間冷却スプレーをもらったり、足をひきづってアクラに戻ってきた時には、同僚が引越しで使ったという段ボールを持ってきて、それを看護師資格を持った友人、学校の保健の先生だったという友人、それに周りにいた子供たちの大勢が痛い足首を固定してくれたり、もういろいろな人の助けを受けて、それは本当に嬉しかった。現場はとてつもなく遠く、それに出張先で一人ホテルで過ごした痛かった夜が心細かったのでそういう暖かさは素直に心に沁みた。

アクラに来て2年半。リベリアから戻り家族の顔を見て、家のベッドに横になって「あ〜家に帰ってきたんだな〜、我が家は一番いいな〜」としみじみと実感。茂みの中で足元から響いた音も、Monroviaまでの長い長い道中も忘れないけど、この2年半でガーナにも我が家と呼べる安心できる空間ができたことを幸せに思いながら眠りについたその夜のこともきっと忘れない。
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水泳のある人生

最後のブログを書いた一週間後のこと、というのは今から1年と一ヶ月前。いつものようにテルアビブの海岸沿いを走り、7キロ付近を過ぎたあたりで右足のふくらはぎがつっぱり走れなくなった。急に痛くなったのだ。あまりにショックで、トボトボと家に帰ってもその痛みが取れない日々が続いた。

順調に準備を進めていたはずの第3回目のフルマラソンは結局あきらめざるを得なかった。その右足の痛みは、時にモモの裏にきたり、時に膝の裏に来たり、結局痛みは消えることなく、最後まで諦め切れなかったけど諦めざるを得なかった。目の前のことだけを我慢して一生走れなくなるよりも、70歳になっても、80歳になっても走れることのほうが大事だと思っての決断は、僕なりに大人の決断だった。

それから1年以上が経過し、僕等は住み慣れたテルアビブを離れ、日本に帰国して新たな生活を始め、すでに4ヶ月あまりが経過しようとしている。未だその痛みというか右足の変な感覚がすっきりしないまま、長距離を走ることもできず「あ~またマラソン走りたい」と思いつつも時間だけが経過する。振り返れば、マラソンで痛くなるのはいつも左足であって、右足は全くのノーマークだった。今や左足は消しゴムでその痛みをきれいに消したように何も無くて、右足だけにマラソンの足跡のようなものが残っている。

マラソンの代わり、、、と言うわけではないけれども帰国してから今日まで、ほぼ毎日プールに通い、水泳が生活にとって欠かせないものとなっている。

これは僕の中ではかなりの驚きなのだ。なんと言ってもこれまで平泳ぎしかできず、それだって成人になって独自で身につけたものに過ぎない。地元の小学校にプールはなく、中学校でもプールはなく、水泳授業というものを経験したことがなく、結局泳ぎを習う機会が無いままに大人になってしまったのだ。それだけに、泳ぎというものに対する不動のコンプレックスがあって、僕の人生にとって水泳という存在は疎遠のものであって、近づかなくてもいいものでもあった。

ところが、である。今では、毎日夕方にプールに行き、ゴーグルをつけてクロールで25Mを何本か泳ぐという日々を送り、泳がないと「なんか物足りないな」と体が疼くのだ。日本に行ったら水泳をやろう!とか、「絶対クロールを泳ごう!」と決断してプール通いを始めたのではないのに、プール通いは日課となり、泳ぎが生活に密着した。これは僕の人生にとって革命的な変化だ。といっても全然大げさなことではない位に大きな変化だ。

日本に帰国し、進路も決まらない不安な日々の中で、近所のプールに家族で通うことだけは毎日続けることとして日々の日課になっていった。帰国して、失業状態となり、求職手続きなどを進めていくと、帰国前には想像もしなかったプレッシャーや怖さを感じることが多くなった。社会はドンドンと遠ざかり、それでも時間は僕の存在など目もくれずにドンドンと流れていく。そんなことを感じることは初めてだった。そんなつかみどころの無い日々の中で、プールに通い、そこにきているおじさんたちに指導されて、全く泳げなかったクロールが徐々に泳げるようになるということは、「あ、前に進んでいる」と僅かに実感できる貴重な貴重な時間になった。そのうち徐々に「泳げるようになりたい」と真剣に思うようになったけど、最初はとにかく決まった時間にプールに行くという行為が多くの支えとなってくれた。

今日は週一回の休館日。体が疼く。少しでもきれいな泳ぎで、少しでも楽に、いつか遠泳を泳いで見たいと思い、身体を休める月曜日。また明日から新しい一週間が始まる!

再びスタート地点へ

また走り出した。次のスタート地点は4月8日のテルアビブマラソン。それまでに、20日の15キロレース、そして、2月19日は世界最低の地、海抜下400メートルに位置する死海でハーフマラソンを順次走っていこうという計画を立てる。家族プロジェクト第二段の始まりである。

日本も空前のマラソンブームだということを、今回の一時帰国中、あちこちで見たり聞いたりしたけど、テルアビブのランナー人口も結構なものだと思う。ついでに、自転車人口もずいぶん多いのには驚く、日本と比べると本格的な自転車はかなり高価なのに。

さて、日本でちょっと気になったランナーのファッション。テルアビブでは、ランナーのウェアがカッコいい、と言えるのは女性ランナーだけで、男性ランナーは、ランニングにランニング短パンというクラシックなウェアが95%で、上半身裸というのも全然珍しくない。一見したところ、女性は走ることとウェアを選ぶ楽しみを両立させていそうだけど、男性は基本的にマッチョイズムの延長線上にジョギングがあって、ガンガン走って気持ちよくなって、ついでにそんな姿を見られるのも結構すきすき、というナルシスト的なのが多い気がする。

そういうなかで、僕のように、長めのスパッツと結構ぴっちりぎみの上着に身を包み、さらに深めの帽子をかぶって、ガンガン走るわけではなくじっくりとゆっくり走る男性ランナーなんて珍しいなと自分では思うのだけど、実際のところ、どこまでそういう視線で見られているのかはよく分からない。少なくとも、僕は上半身裸では走らないし、そんな姿あまり見られたくはないと思う。

音楽を聴きながら走っている人も多いけど、僕は昔から音楽も聴かないし、基本的に何もしない、とにかく数メートル先を見ながらモクモクと足を動かすという方が好きなので、毎日走る場所を決めて、ジッとしながら走る。

ジッと走っていても、いろいろな感情は敏感に反応しているのだけど、いつも「いいな~」と思うのは、地中海沿いにしばらく長い間走っている時。信号もなく、邪魔になる車もなく、ただ大きく広い海の横を走っているというのはものすごく気持ちがいい。山と湖に囲まれて育った僕にとって、海というのは家族旅行で夏休みにしか目にできない特別なもので、これだけ海に近い場所で二年間生活してもそれは変わらず、その海を目の前に、自分の足で移動していると考えるだけで格別な思いになる。

まだまだ練習を始めたばかりなので、本当の格別な思いはまだまだ先だけれども、それに向けてまたこうして動き出せたということが、まずは嬉しくて。船長、海、また頼むよん!

アビシャイ・コーヘンにしびれた

ちょっと興奮して眠れないので書く。

アビシャイ・コーヘンを生で聞いた。今回は二度目である。ただ、前回は小さなライブハウスで、歌付だった(彼のファンには驚きかもしれないが、最近彼はイスラエル在住でヘブライ語の歌を歌っている、それが実にいい!)。今回は彼が16の時に知り合ってからその才能に惚れていると言うピアニストと、ベースだけの共演だったので、僕は初めてアビシャイ・コーヘンのすごさに直に触れた。

スローに入り、どんどんと乗ってくると、何だか何かにとりつかれたようになり、ほえはじめた。やっぱりほえるのか!とキースジャレットを想像しながら目が釘付けになった。ベースの早弾きというのは全身運動で、アートと言うかスポーツと言うか、頭から指先までひたすら細かく動き回っている、とにかくすごかった。

今日は彼のコンサートだけではなかったので、聞けたのは一曲だけ。その一曲にかけた集中力とエネルギーのこめ方に感動した。やっぱり生の演奏は文句なしにしびれる。

今日は、ニューヨークのNew Schoolとテルアビブにあるコンサーバトリオン音楽学校が共同プログラムを開始!というイベントで、その新しいプログラムへの寄付という形で僕らはお金を払って、イスラエル国内のみならずNew Schoolで教えている重鎮ジャズプレーヤーの演奏を聴くというもの。

オープニングは、今年のRed Sea Jazz Festivalサイトがかっこいい!ジャズ好きじゃなくても来たくなります、きっと)でも演奏すると言うテルアビブのBig Band。まだ若手の、でも将来のある選ばれた演奏家達の演奏はキリッとよかった。そして、最近ニューヨークからイスラエルに戻ってきたというピアニスト、Alon Yavnai。もっとかっこいいかっこうすればいいのに。世界的なピアニストだということを今日まで知らなかったが、彼のひくpianoは本当に素晴らしかった。これからテルアビブで演奏する時には絶対聴きに行こう。

そして、2時間半後にやっとあらわれたオオトリがアビシャイ・コーヘン。天晴れ!

フィールド・オブ・ドリームスのような空間でのプレーは本当に気持ちがいい、でも、やっぱりスポーツは勝たないと面白くないのだ。勝負事は勝ってナンボであって、特に今のように日々の練習が実を結ぶ、という試合までのプロセスも楽しめるわけではない本番勝負では、勝たないとしょうがない。

う~ん、そんな煮え切らなさを感じながらも、仕事を終えた後、一週間に一度、ナイターで一ゲームプレーする、そんな贅沢な趣味に体が随分と慣れてきて、ガシガシと軋まなくなったのは嬉しい。あとはスピード。頭は反応するのに体がワンテンポ遅い、この筋肉の鈍さを戻せれば何とか満足できるプレーができるかもしれない。とにかく基本的な体力が復活してきて日常生活にもかなりハリが出てきたのは嬉しい限りだ。

ソフトボールをするようなイスラエル人は大半以上が米国出身。その中でも宗教的な人々が多いので、帽子を取ると頭にキッパをしていたり、腰の辺りにチョロチョロとツィツィットと呼ばれる宗教家が身につけるチョッキが出ていたり、絶対にイスラエルでしか見れない「プレーヤー」を目にすると今でもちょっとワクワクする。そんな楽しみもイスラエルでのソフトボールにはある。

試合が終了するのはいつも夜11時15分。それから夜のお祈りをする宗教的な選手達。暗闇に野球のユニフォームを着た大の大人達がエルサレムの方を向きながら頭を前後に揺らす姿に、僕はかなり興奮する。長年野球をやってきたが、こんな場面は一度も見たことがない。

最近、政治的には、首相やその周辺が、和平プロセスに向けてまずは「ユダヤ人国家イスラエル」としての国家の定義を認めよ、とは言っているものの、そもそもユダヤ人ってだれよ?ユダヤ教徒?といっても僕の周辺にはそんな宗教的な人たちはいない。ソフトボールの試合で僕が体験しているのは、かなりマニアックなイスラエルの空間なのだ。試合中は完全にアメリカ英語。話題はMBA。イスラエルにいるのにアメリカ体験、なんてのはやっぱりオマケみたいなもので、スポーツは日本であろうとイスラエルであろうと、勝たないと意味がないのだ。

フィールド・オブ・ドリームス

イスラエルで野球?ソフトボール?
イスラエルの人気スポーツを知る人はまず信じられない、僕もそうだった。
スポーツ紙を独占するのはサッカーとバスケで、テレビ中継のスポーツもサッカーとバスケ。グローブもバットを売っているスポーツ店など見たことがない。

留学してたころ、NY出身の友人ダニ(カメラマンとしての作品はこちら)が「TSUYOSHI SHINJOは日本でも人気あるのか?」とふとしたことから話題が野球になって、「なんでその名前を?」「俺は子どもの頃からメッツのファンだから」とあれよあれよと、「ソフトボールのリーグがあって俺もやっているけど、一緒にやるか?」と、ダニと一緒にプレーしたことがあった。

35を過ぎて、年齢と体力を考えると、もう一度野球やるなら今のうちだな、と思うようになり、今シーズンから再びダニと同じチームで白球を追うことにした。
プレーボールは夜9時、一週間に一度、仕事が終わってからユニフォームに着替えて球場に向かう気分は何とも言えない。

球場に入りボールを握ると気分は高校生なのだが、気分と体力の距離がまだ遠い、ものの、これまで二試合を終えて随分と戻してきた、と少なくとも自分ではいい感触を得ている。

何より、生活の中に野球があるということは僕にとっては自然であり、生活そのものがグッと熱くなるのがたまらなくていい。青春、と言えばちょっとクサイけど、投げて、走って、打って、ヨッシャ!と握りこぶしをつくり、アチャー、、、と天を仰ぎながら、もう味わえないかもしれないと思っていた湧き上がるような感覚を全身で感じることは最高だ。

そして、イスラエルで白球を追うことの楽しみはその球場。今プレーしているのは二つの球場なのだが、どちらも球児魂をくすぐる。下は7年前の留学時代の写真だけど、今も走り回っている球場は同じ。ここでのナイターは、まさに『Field of Dreams』そのもの!(懐かしの劇場予告)

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(ちょっと無理しながら)あけましておめでとうございます。
海もいつもどおりに幼稚園に通い、仕事も普通どおり。街のバーでは2008年から2009年へのカウントダウンというのは存在するものの、それ以外の新年ムードというのはなく、盛り上がりに欠ける新年。ここでは直接危険を感じるわけではないけど、実際に多くの命が失われる紛争が漂わせる重く嫌な空気はここでも感じるので、なお更今年はいい年になって欲しい、とまずはガザと南部を頭に思いながら願う。

一昨日はかつて留学していた街にロケットが着弾し、以前から報道されていたロケット推定最大距離40キロに到達した。今日はお世話になった先生が亡くなって(参照:)その街にある大学で先生を偲ぶ記念講演が予定されていたのだが、(避難命令を指導する)民間防衛軍によってガザから40キロ区域内の教育機関の閉鎖指導があったために中止になった。私は、空爆が開始され、ロケット推定距離にその街が入っている事を確認した時点で、出席をキャンセルしていたが、あくまで「念のため」だったので、まさか本当に飛んでくるとは想像していなかった。

すでにガザへの空爆で400名近い死者が出ても、ロケットは発射され続け飛距離は着実に推定距離に到達している。武力ではテロの戦力を落とすことにはつながらない、という事例はアフガン、イラク(目標は国家であったが)そして第二次レバノンと枚挙に暇がない。先日の閣議で新たに追加された予備役2500名の召集に自分も入っているのではないか心配だ、という友人の言葉を引用すれば「どうしようもない命と時間の無駄」だ。そう言いながら銃もって戦場に向かう気分など、私には全く想像さえできない。

さて、2009年1月1日の一面は以下の通り。今日はイェディオットとマアリヴの写真は対照的です。

ハアレツ
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写真は、ロケット被害に遭った建物を訪問するリヴニ外相
大見出し:閣議は紛争継続を決定;国防軍早い展開を求む
小見出し:対ハマス戦争:政府はフランスによる停戦案を拒否。イスラエルの条件:国際社会による査察。ロケット約70発がイスラエルに着弾、ガザの死傷者は395名へ。民間防衛軍は緊急状況区域を拡大。
世論調査:52%ガザへの空爆継続、19%地上戦を含む作戦の拡大、20%即時停戦努力、9%分からない/未回答
(対象は472名)
ちなみに、左下の広告は左派政党による停戦を訴える広告。

補足:フランスによる停戦案とは、人道的観点による48時間の一方的停戦。オルメルト首相は、開戦時から一日約100台の医薬品、食料を搭載したトラックをガザへ通過させている事実より、ガザに人道的な危機が存在せず、フランスの提案は受け容れられないとの説明。


イェディオット・アハロノット
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写真は、ロケットが着弾してもカウントダウンパーティーで2009年到来を祝福するベエルシェバの若者。
大見出し:危険範囲拡大、ガデラ町でも休校;オルメルト首相バラク国防相を非難
小見出し:首相、フランス外相と停戦について接触したバラク国防相を激怒○国防相オフィス:指導者と会話をするのは大臣の権利
補足:フランスの停戦案はフランス外相からバラク国防相に直接伝達。オルメルト首相はインターネットで初めて知りそれが逆鱗に触れたとの報道も。国防相が停戦情報を報道に流し、その後国防軍がそれを否定する、という稀な展開が起こりました。

マアリヴ
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写真は、ガザとの境界で待機する国防軍兵士
大見出し:ガザへの分かれ道:イスラエルは地上戦に向けて前進、しかし政治レベルでは停戦を模索
小見出し:地上戦は不可避の模様■しかし、政府は政治主導での作戦終了の可能性を諦めず、ハマスにロケット中止を強く迫る■本日時点、20万人の生徒が自宅で待機。

12月25日、久しぶりにブログ更新をしたら27日に空爆開始となり、久しぶりなのに紛争情報ばかりが続きますが、少しでも早く終わることを心から願いつつ。

セットアップ終了

引越しをして一週間後、ようやくネットが開通。
最近イスラエルでかなりのシェアを拡げているケーブルテレビとのセット。

日本を出る時に出した船便が無事到着。
全部で35箱のダンボールたちが再び部屋を占拠したものの、徐々に荷解き。2月くらいから続いていた引越し生活からようやくようやく脱却できそうな雰囲気。

車が納車間近でウキウキ気分。
滞っていた車購入手続きがようやく進み、あと10日くらいで手元に届く、したら旧友訪問のドライブに!と今から計画中。

前回留学していた際に出会ったマットメーカーにオーダーしていたマットが到着。
出荷までに一ヶ月くらいかかる、というので覚悟していたら10日で到着、こだわりの一品でかなり快適睡眠。

テルアビブは夏真っ最中だけど、今のところほとんどクーラーなしで自然の風だけで生活。日本の生活を振り返ると信じられないが、気温30度、湿度80%弱なので条件は同じようなのだが体感暑さというか不快感はこちらが下。

テルアビブへの引越し騒動で2ヶ月もかかってしまったが基盤構築が完了間近。あとはパソコンを置いているこのアイロン台の代わりにどこから板を購入して完了するまで、あと少し!

新居の生活が始まったものの、ネットがつながってなく更新ができず。不思議なものでネットが無いとどうも生活未完成という感触。
今も臨時でアクセスポイントからチョイ更新。

投票をお願いした、俳句コンテストが10日にテルアビブ大学で発表されました。

3位: 氷った地 静かに寝るや 熊の夢
2位: 冬の夜 蜘蛛は巣を張る 虫を待つ
そして1位は、
    葉を追って 道に迷った 紅葉狩り 

私は、3位、2位には投票していましたが、1位は斬新さが感じられずに投票していませんでした。
皆さんの投票した作品はいかがでしたか?

海、イスラエルの幼稚園へ!

アパートが決まらず、ホテル内で部屋を移動。ダンボールに囲まれた生活が1ヶ月以上も続くとさすがに、、、。
が、娘の海は「幼稚園に行きたい」ということもあり、テルアビブ市内北部の幼稚園に昨日から通い始めた。テルアビブ市内も幼稚園が足りないので、入れたのはラッキー。
写真は船長が激写した出発の一瞬。
画像

やっとつきました~テルアビブ

やっと着きました~テルアビブ!
(ネットアクセスが改善してやっと全文アップできました↓)

これからここで船長、海と三人での生活が始まる。楽しみ、今の気持ちを一言で表現すればこれしかない。

それにしてもイスラエルの通貨シケルがえらく高くなった。と、知識として知ってはいたが、いざ両替すると実感。いや、痛感にちかい。1シケル25円で換算していた5年前と比べると同じ円で買えるシケルの額があまりに違う。今や1シケル30円。なので、イスラエルで拡大しているコンビニのAM/PMに陳列されている品物を全て円換算するとえらく高いぞ。

まあ24時間営業のコンビにだからなんだろうが、トマトが1キロ9シケル(270円以上)というのは目が点。今世紀初期にイスラエルに滞在した私の記憶によれば、最安値の時期だと2シケルを切っていた。ただ、その記憶がここ都心のテルアビブではなく、もっと南のベエルシェバというちょい田舎町だった、ことを考えると単純比較はできないかも。

まあ、いずれにしろシケルが強くなって物価が上がっているのは確か。生活者としてはチョイつらいぞ。

これまた浦島的記憶だが、かつては米ドルで払うことは歓迎された。それが米ドルで払おうとしたら「ドルは価値が下がるからな、できればシケルにしてくれ」と言われる。いや~驚きだ。そういう経済的というか貨幣的な変化、以外にもそんな変化を最も身近に感じた第一日目であった。まあそれもそのはず、空港とホテルしか移動していないから、見えやすいのはそういう数値的なこと。

もっと足を使ってこの街を歩いて、人々に迫って、空気をすってじ~っくり自分をこの地に接近させないと生活や変化というのは見えてこない。二日目の今日はいい天気、ホテルの部屋から近い地中海に向かって三人で散歩する。本当の意味での三人での新たな地での新たな生活の第一歩、はじまりである。

博士って頭脳?

以下、昨年7月にアップしていたものですが、このエントリーに迷惑広告コメントが多数入るようになっていたので、掲載場所を変更させていただきます。
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漂流博士の船出とタイミングよく、NHKクローズアップ現代『にっぽんの頭脳はいかせるのか-苦悩する博士たち-』(7月3日放送)を見た。90年代に国がドクター二倍計画を立てたが、大学のポストは増えないために職につけない博士があふれている、その現状を探るというもの。

私はまさにその博士課程促進の流れを受け、1998年に修士課程から博士課程へ入学金免除でほぼエスカレーター式に進んだ生き証人。前年入学していれば30万円近い入学金の納付が必要だったので、免除は幸運だと思ったことをよく覚えている。

博士号取得を促進して日本の博士が二倍になっても、就職ポストが二倍になるはずもない、が常識的な理解だったこともよく覚えている。少なくとも私のような文系の学生は「博士になったところでつぶしがきかなくなるだけ」「博士号っていうのは足のうらに付いたご飯粒みたいなもんだ。取ろうと思っても取れないのに、取ったところで食えない」と言ったものだ。

番組ではもっぽら理系の学生を取り上げていたので、現状や受け止め方が違ったのかもしれないが、文系の私には就職が厳しいことは承知の上で博士号を取得する、のが現状だと思うのでどうも番組はしっくりこなかった。

そもそも

「博士は日本の頭脳、、、なのか?」

「末は博士か大臣か」と言われたように、確かにかつて博士は研究者の頂点だった。博識、博学、何でも知っている極めた人が博士だった。しかし、90年代以降博士は大学の研究者採用の資格になり、研究者になるためのスタート地点に立つ条件でしかなくなった。

日本ではかつて博士号のあるなしに関係なく大学教授になれた。私の修士課程の指導教官も日本民俗学では大御所でありながら、博士ではない。私のように業績もまだ少ないペーペーが博士で、その私を厳しく指導した大御所が博士ではないのだ。

博士は有資格者

この理解は現状として間違っていないと思う。こうした制度として博士号取得を促進する流れは、研究論文を書いていないのに教授になれてしまったり、一度常勤に就いてしまえば大した研究をしなくても知らぬ間に教授になれる従来の高等教育の教職員制度改革に向けて私は賛成である。

博士になってどうするのか、それは博士号取得する以前の学生時代からの課題であって、博士になった後に突然直面するものではない。

スタートでしかない博士という称号を、どのように活かして進んでいくのか。私と同世代の博士達が乗り切っていかなければならないのは、むしろそうした工夫と持久力ではないだろうか。私は当面、大学や研究機関の常勤職に限らず、アカデミックと社会、アカデミックとジャーナリズムといったオープンな関係の構築を目指したいと思う。

博士になりなさい!と国家に命令されたのではなく、研究者になりたい、そのために博士になるしかない、と個人の意志で博士になっていることを忘れてはならないと思う。
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