漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

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3回目へ

3回目に向けて走り出している。
フルマラソン、3月30日朝6時30分発。
去年のようにエネルギーしないこと、そして、4時間をきること。それが目標。

船長コーチの練習メニューで変わったのは、
1 一回の練習で長めに走ること。基本を15キロ、時間があるときは20キロというメニュー。最近では15キロはずいぶん軽く走れるようになり、体が強くなっているのが分かる。足の回復力も早い。それに、ものの付け根が痛くなる例年の悩みが今年はない。靴のバランスをきちんと調整していただいたおかげで体重が外側に逃げなくなったのが大きな成果。

2 4時間で走りきるスピードを体に覚えこませること。4時間で走るためには一キロ5分40秒平均。去年の練習は、そのペースが最高のスピードで、それ以上では走らなかった。ぎりぎり、スレスレでは走りきれない。今年は、5分30秒を最低ライン、15キロ以上走るときも、5分20秒ほどで走る。そして、途中で1キロ5分前半のペースに上げて、それで3キロ走る。ちなみに、今日は4分50秒まで上がっている。

そして、夏からの筋トレで筋肉に「動くんだ、耐えるんだ」という指令を送り込んでいる。去年のペースダウンは完全にエネルギー切れで、筋トレ不足を痛感したので、今年は何としてもそれだけは避けようとつとめている。失敗が一番の教訓である。

スタートまで60日ちょい。今年はコースが街中になって、気分も盛り上がりそうだ!よし!
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やるだけやった(その2)

(「やるだけやった」(その1)の続きです)

気がつけば周りを走る人たちの数が随分減っている。時計は5分30秒台をキープしているのだが、後ろからも抜かれるし、前のランナーもドンドン遠くなるような、自分のペースが落ちているような感じだ。全体の流れがはやいのかもしれない。雲行きは怪しく、また降りそうだ。

それまで空っぽだった沿道も、21キロ地点には固まった50名くらいの応援がありひさしぶりに引き締まった感触で前を見直すと、船長がいる。作戦通りスペシャルドリンクを口にし、りんごとオレンジと黒砂糖と梅干を手にする。「いいペースだよ!」そう言ってもらってはじめていいペースなんだと自信が足に伝わる。僕も「いける」と応える。フルマラソンで梅干はいいと何度も聞いていたが口にしたのは初めて、確かに「ビシッ」とインパクトを与えて、その後「ジワジワ」と疲れていた体が力を取り戻していく、梅干に秘められた力を感じる。直後のラップは5分19秒、ちょっと上がりすぎだなと抑えるが、いい感じ、快調だ。

その後、30過ぎまでの間、唯一走ったことのない、つらつらと長い区間に入る。クロスカントリーのような軽いのぼりとくだりを二度ほど繰り返す狭いコースを数人が重なって走る。23、24と距離を刻みながら、さっきまで違和感程度だった左足が徐々に重くなり、はねる感覚を失い、「前へ」という気持ちと力がかみ合わなくなる。時計は5分29秒でも体調はそれ程快調でもなく、5分40秒を超えていないものの、もうそれ以上ペースが上がりそうもない体と照らし合わせると、徐々に残りが長いなと感じるようになる。

太陽が眩しくなり、ペースも一キロ5分50秒台に下がり始める。後方から二人の女性が「今どれくらい?」「30秒台かな、もしかしたら27秒台かも」「うっそ~」と元気そうに言葉を交わしながら抜いていく。二人の「ふくらはぎ」は確かに「5分30秒台!」というエネルギーに満ちていて、そのはじけるような動きを見て、初めて他のランナーの体調が羨ましいと感じると、自分のペースが上がらないことが気になり始める。

隣の男性ランナーが突然「俺、吐きたい」と口にして、仲間だろうか別の男性が「ここじゃない、まだ」と声をかける。僕も心の中で「ここじゃない」と繰り返すが、左側にぴたりと並んでいて、嫌だなと思うもののペースが上がらないし、これ以上落としたくないと思うと自然とぴたりと並んでしまう。すぐ後ろを走っている男性二人がずっとしゃべり続けていて、どうも気になって仕方なくなる。走っているのにベラベラとよくしゃべれるな、それにしてもうるさい。

28、29といつもの馴染みの練習コースに入っていくが相変わらず体の切れがない。30キロ地点ではじめて6分台を示す、船長が待っている31キロ地点での気分とエネルギーの挽回を期待しながら歩を進めるがドンドン重くなる。瞬間的に船長に「梅干だけ」と梅干の持つ力に頼る事にする。オレンジやりんごを噛むことでエネルギーを失いたくない、口に含むだけですぐに効果を発揮できるものがいい。梅干を手にして、船長に「きびしい~」と思わず発してしまう。去年はなんともなかった「こんなのありかよ」という急な角度の橋はまさに「ありかよ~」と叫びたい。梅干は酸味さえ残さず、そのまま疲労を打ち破ることなく無情にも消えていった。その後、32、33と一キロを刻む看板が見える感覚も長くなり、「二回目のフルマラソンは70%がゴールにたどり着けないんだって」と言っていたモティの声を思い出す。「コース見たか?32から37までの海沿いの区間がアップダウンもあってつらそうだよな」とも言っていた。その区間は昨年も35キロから37地点で、海の真横のコースを走るので僕は思わず「ブラボー!」と胸で叫んだ場所だ。「眺めがいいから乗り切れるさ」とモティを励ましたが、33から34、そして35と数字が増えるのだけを何とか確認するのが精一杯で、目の前の海を見る余力はなく、重いな、動かないな、と思いながら手と足を動かす。36キロ地点で水が足にかかり、そのしぶきが一瞬だけ足に元気を取り戻したけど、それも本当に一瞬で、37キロ辺りから突然ゴールが遠くなった。

視界が狭くなる。25キロ辺りで脱落したかに見えた男女もヒョイヒョイと復活している、35キロくらいまでは一緒だったポニーテールの40代くらいの女性は、あんなにきつそうだったのにもう前方遥か彼方に消えてしまった。そのうち、後方からマッチョイズムを声にしたような男性達の太い掛け声が近づいてくる。最後の5キロを過ぎたのだ、掛け声張り上げて一気にゴールまで行こうぜ!と心を一つにしたくなるのも分かる。だけど、もうそんな声を出す力も残っていないんだ俺には。と思うと、急にその声が嫌で仕方がなくなり、聞いているだけで苛立ってしょうがなくなる。その声はしばらくして収まると、「4:00」という看板を掲げた「ペースメーカー」とその周りを取り巻く多数の男性の固まりが、「ゴール一直線」というオーラを発しながら勢いよく抜いていく。4時間はもうだめなんだ、と思ってもどうしようもない。男達の固まりがいなくなると、今度は、右前方に、右足と右腕に刺青を入れた男性が目に入るようになった。その「刺青おとこ」も後ろから見て明らかに疲れきっている。なのに、その疲れ切った肌に刺青がピッタリとくっついて前後している。「なんでこんな時に刺青なんかしてるんだよ!」ともうその刺青が嫌で嫌で仕方なくなる。

行きの時には(往路8キロ地点だった)全く感じなかった短いトンネルの緩やかな坂が視界に入る。今の体ではとても坂など受け入れられない、手だけ動かそう。トンネルを越えたところでカメラを構えた「ねえ撮って!」のお姉さんの方から、ものすご~く申し訳なさそうに「がんばって、ください」と「か細い」日本語が聞こえる。そのか弱さが、僕の今の姿なんだなと何度も耳の中をこだまする。

前方には真っ青な地中海、だがそれさえも目に見えない。顔を上げる力もない。船長と最後は40キロかゴール地点と言っていたが、40キロを過ぎても姿が見えず。左右を探すエネルギーも、前に進むことにとっておかなければと前だけを見る。梅干でも口にしたら少しでも回復するかもしれないとささやかな希望があったけど、このまま最後まで行かなければならないんだ。ゴールは遥か遠くのままで、一向に近づいてくれない。下り坂のはずだけど何も変わらない。腕の力もなくなり、左手の時計がずしりと重くなり、外して船長に渡したいと思っても船長が待っているのはゴール地点。でも一度重いと思ったらドンドンと重くなり、耐えられなくなり時計を外して右手に持ち帰る。左手が宙に浮いているようだ。何のために手足を動かしているのか、いつになったら終わるのかも分からなくなり、空っぽの中をひたすら動かし続けるようになる。帽子も重いな。帽子も投げ捨て、右手の時計も、何もかも投げ捨てたくなる。

左右両側には10キロやハーフマラソンを走り終えた人たちが逆方向に歩いている。「よくやってるぞ」「あと少し」と耳に入るが、全く何も感じない。終わって羨ましいとも、さっきまでのイライラもない。前から照りつける太陽のまぶしい。

突然「博士!」と左側から声が聞こえてきた。海の友だちのお父さんのヨアブだ。横に駆け寄ってきて「一緒に走ったら少しは助けになるか」と声をかけてくれる。船長に会うまではまだまだ遠いと思っていたので、知っている人が突然目の前に現れたのは勇気になる。声は出ない。とっさに、外していた時計と帽子を渡し「これが助けになる」と何とか声を出す。「分かった、じゃあ日曜日、学校に持っていくから」と言うとヨアブは後ろに消えていった。

しばらく歩を進めると、また左側から「博士!」と声が聞こえる。シュロミだ。前日も電話で「お互いがんばろうぜ」と話したばかりの友人だ。彼は10キロ。「フルはすげーな」と言っていた彼にこんな姿を見せなければならないのが悔しく「今年はきつい!」とありったけの力で彼の耳に届ける。届いたかどうかは分からないまま、シュロミは後方に消えていく。

もうないと思っていた給水所が右側に見える。恵の水だ。ペットボトルを何とか手にする。でも飲む力がない。手を顔の上まで持ち上げて、顔を上に向ける力がないのだ。手をぬらし、その手で顔を一度ぬぐう、でも体は何も変わらない。もう動くはずのない体が動いている。何のためかも分からずに動いている。

42キロ地点の看板が目に入る。このまま直進するとハーフのゴール、フルマラソンのゴールは右側に折れていく。地中海に向かいそのまま真っ青な海の真横でゴール、何て素晴らしい演出なんだ、と気持ちいいフィニッシュのイメージを思い描いていたけど、もうそんなことはどうでもいい。変わらずに体を前に進ませる。

ゴールゲートの時計の「4時間05分」という数字が見えて、「去年よりも随分早いんだな」と少し嬉しくなったけど、ラストスパートも、去年のように両手を広げることもできずにとにかく動き続けていると、「博士、博士」と船長が左から手を握ってくれて、初めて「あ~終わったんだ」と分かって、そのまま芝の上で両手を広げて体を止めたら「動かさなくてもいい」という安堵感で一杯になった。

(その後30分間の事は後日)
気持ちが落ち着いて、「42.2キロ」証明シールを手にし、メダルを手にして、海がきれいだなと思いながら船長と一緒に歩いていたら、「あ~ゴールしたんだ。止まらずに走りきったんだ」と、空っぽで辛かった長かった時間を思い出し、そして、ゴールして船長と歩いていることの幸福感が足元から全身一杯に伝わってきて、大きな感激に包まれた。4時間は切れなかったけど、去年は味わえなかった大きな感激と、走りきってよかった、という喜びを走り終わって感じられたことがとてもとても嬉しかった。

つらかったけど、目標は達成できなかったけど、今年のマラソンは初めてのマラソンよりも忘れられない走りになった。止まらず、歩かず、やるだけやった、やるだけやれた!船長ありがとう!

やるだけやった(その一)

(スタートからの時間軸に沿った改訂版その1)

とにかく完走!という初挑戦だった昨年と異なり、今年は4時間以内、いわゆるサブフォーという明確な目標を立て、船長のプログラムの下で練習を積んできた。とにかく長く走れる体を作ろう!と臨んだ昨年とは違い、ある程度のスピードを体に教え込む練習を導入するため時計と心拍計を身に付け、数字をにらみながら走り、そして記録を書き込むというデータ型へと大きく練習スタイルをシフトさせた。これまでは、自分の体と対話しながら走ってきたので、時計をつけて数字を見ながら走るというのは全く初めてだった。

11月20日に15キロ、2月20日にはハーフとそれぞれ大会にも出場し、週二日から三日の練習も予定通りにこなし、3週間前に30キロプラスを走って練習のピーク、その後徐々に距離を落としながら、体が走りたい!とウズウズするくらいまで疲れを取り去ることをイメージしながら調整。最後の一週間は、パスタとご飯を繰り返し、体内から42キロを走るのだという感触をよみがえらせていく。昨年のように体内や足に炭水化物が溜まっていく感じはないけれど、全身の疲れは取れていき、いつもの左側の足腰の「こり」もとれていい感じだ。「走れるだろうか」という一抹の不安を残した昨年と異なり、前日から随分と胸が高ぶり、楽しみでしかたなくなってきた。野球の試合の前日のように、これまでの練習の成果を発揮する時が目の前に迫ってきたことで、全身が緊張感と高揚感にジワジワ満たされる、あの感触だ。船長と共に、この感覚を味わえることがまずは幸せだと何度も口にする。そんな緊張感と高揚感を抱きながら、前日はまだ外が明るい夜7時過ぎに床に付いた。

午前3時5分に目を覚まし、きな粉にまぶしたもちを二個、ゴマをかけたご飯を二杯食べる。走っている最中に空腹になりエネルギー切れになるほど辛い事はないことを、3週間前の30キロ走で久しぶりに体験したので、食事は多めに取ろうと意識的に噛みながらしっかりと食べる。そして、溜まっていたメールに返信したり、ゼッケンをつけたりしながら徐々に体を覚まし、5時過ぎから最近お気に入りのAvishai Cohenの『Seven Seas』を聞きながらじっくりとストレッチをして心身ともに盛り上げていく。

今年はスタート地点が自宅から3キロ弱なので、スタート一時間前の朝5時半、船長の声援を受けて自宅を出る。いよいよだ。早朝独特の静かな路上を、走りたいという気持ちを抑えながら早足で歩く。同じようにスタート地点に向かう何人かのランナーを目にして、どんどんと気分が高まり、40キロ地点の看板を見て、およそ5時間後に訪れる自分の最後の走りをイメージする。着々と一歩ずつしっかり走っている。

昨年は直前の開催日変更で500名弱だったマラソン参加者は、今年は1300名と多く、スタート地点は随分と賑やかで、朝6時半とは思えないほどボルテージが高く、スタートの号砲を鳴らすテルアビブ市長も興奮気味に「元気ですか~」とまるで猪木、それに対してランナーが「オ~」と応えて益々ムードは高まり、体が「走りたい!」と思うと同時に一斉にスタートのラインを切った。

体調はいい。走り出しは早すぎず遅すぎずいいペースで体が動く。一キロは5分43秒、船長と5分45秒で入れればベスト、と言っていたので理想的な入り方だ。空気も気持ちがいい。緩やかな坂のアレンビー通りに入ると、一晩の仕事を終えて帰る若者がナチュラル・ハイの状態で大声出しながらカツカツと大勢で歩いている。その横をランナー達がが駆け抜けていく。早朝の新宿駅のようだ。朝まで飲んでた不健康そうな若者と、登山の格好をしたすがすがしい中年夫婦が乗り合わせる中央線の車両のようだ、懐かしい。コースは世界遺産「ホワイトシティ」へと向かっていく。三キロ先ユーターンから戻ってきた先頭集団が左手に見える、ケニアからの招待選手だろうか、3名が揃って走っている。その後ろから、薄いピンク色のオーソドックスなウェアに身を包んだ前かがみで走る中年の男性が近づいてくる、去年も走っていたあの彼だ!またこうして同じ舞台で走っているということが嬉しくなる。後ろから「彼はいつも走っている○△だ」という声が聞こえる、有名なんだな。建築中のテルアビブの文化村をユーターンするところで、カメラが付いたおもちゃのようなリモコンヘリコプターが頭上からランナーをとらえているのを見つけ、今年の大会が結構隅々まで行き届いていることを感じる。フルのほかに、4.2キロ、10キロ、20キロと合計約1万9千人がこの街を走るのだ。

あっさりとホワイトシティを抜けて6キロ過ぎから徐々に北上する。船長と海が待っている8キロ地点を目指して自然と足も軽くなる。写真サービス「ねえ撮って!」のお姉さんが僕にレンズを合わせる。「博士!!」と日本語で声をかけられ、思わず「ありがとう」と大声で応える。一度電話で知り合った日本滞在経験者のイスラエル人だ。覚えていてくれたんだ、嬉しいなと思っていると、左前方にチョコンと座った船長と海が目に入る。両手を上に広げ、左右に揺らし、それでも気がつかないので手をたたくと、船長が走って近寄ってきてくれる。前日の入念な作戦会議でお願いをしていたスペシャルドリンクを受け取り、さらにオレンジと黒砂糖を受け取る。その間、船長は数十メートル左横で伴走し、後方のランナーからは「すごいな!」とチームの連携振りを見た羨ましさと感嘆が混じった声が聞こえてくる。一人になって9キロ地点に向かうと、突然の雨!先ほどまで青空だったのに、体にポツポツと粒があたるようになり、それはやがて体を濡らす冷たい雨になった。数分で止んで日差しが出てきたものの、14キロ地点手前で再び急に雲が黒くなると、また雨粒が落ち始め、今度はかなり強い雨脚となって靴も濡らし、体を冷やした。今日は暑くなると思っていたので、意外なところで体が冷えたことと、体があったまったなと思うと冷えるという繰り返しで気を取られながら、一キロ5分30秒前半のペースで走る。足が自然に流れるなら無理に5分40秒に意識しすぎるよりも、5分30秒くらいでもいいなと思っていたので許容範囲だ。幹線道路をただひたすら14から15、15から16と数字を増やすためだけにヒタヒタと走る。距離の表示が2キロ毎のところもあり、ラップが何度かあいまいに表示されるのを気にしないようにしながら、船長が待つ第二のステーション21キロ地点に近づいていく。

ジャズからキッチンへ

我が家のテルアビブライフを豊かにしているのがジャズ・ライブ。若くて、熱くて、それに敷居が低いのがすっかり気に入って、お気に入りのアーティストも何人もいて、随分と出かけている。アーティストはほとんどが20代で、一見、その辺に歩いている兄ちゃんたちだけど、演奏を始めるとグッと会場をひきつける、レベルは高い。ライブ会場には中高生が多数押しかけているし、ある会場のジャムセッションでは、「え~この子が?」というあどけない少年が舞台でギターを奏でたりする。

僕等は外人特権(と我が家ではよく呼んでいる)で、すぐに顔が覚えられるので、そんな少年達やファンだけではなくて、アーティストとも随分と親しくしてもらっている。

その中でも、Yuval Cohenとは、彼が震災前の神戸に滞在して演奏活動をしていたということもあって、ライブのたびに言葉を交わしたり、個別にカフェを共にしたこともあった。若いイスラエルのジャズ界だと兄貴分となる僕等と同世代で、何より波長が合うな~という感じがしていい。

先週のライブの後に「木曜日は僕の子どもの日だから、海ちゃんと一緒に会おうよ」と彼が提案してくれていたので、年末真っ最中(そういうものはイスラエルには存在しないんだけど)の30日木曜日、Yuval Cohenの家に遊びに行くことにした。彼は5歳の双子の父親。二人は年長で、一年生の海とは年齢的にもちょうどいいし、まあ彼の子どもだったらきっと海と気が合うだろうという直感もあった。

その直感はばっちりとあたった。ドアを開け、我が家から持参した紙風船をポンポンと手で弾くと、子ども達は仲良く遊び始めた。

大人たちは、いつものライブの後の高揚感とはちがって、自宅でのんびりと、子ども達の笑い声をBGMに、ワッハッハ、アッハッハと喋っていたらあっという間に時間が経過。

「お、子ども達よ、そろそろオムレツを作ってあげよう、オムレツ欲しい人?」
「は~い」
とアーティストではなく父親の顔をしたYuvalに子ども達が元気に答える。
「大人たちもオムレツでいいかな?」
「じゃあ、、、ありがとう」
夕飯まで一緒に食べようということになったけど、その場がものすごく居心地がよくて、そんなに「わるいな~」という遠慮する気持ちもなく、案外自然と一緒に食事をすることになった。まあ、夕食と言っても、イスラエルの夕食は軽食だし(週末でなければ)、断る理由もない。
そうは言っても、船長と二人で座っているのも落ち着かないので「何か手伝おうか?」
と聞くと、Yuvalはニコニコして「ハカセサンはGood シェフ?」
「まあ、好きだけど」
「おお~すばらしい!じゃあ、ハカセサンお願いします」とサッと手を台所に向ける。
「ここに野菜もあります!ああ~助かった~お願いします!」
僕は、いとも自然に台所に立ち、たまねぎのみじん切りを始めた。
気がつくと、僕と船長が、他人の台所とは全く感じずに「バター取ってくれる?」「冷蔵庫から牛乳とって」とみんなの夕食を準備していた。
「おっかしいな~、何だか変だよな~」と船長と何度も言いながら、台所での身のこなし方とか、手の動きだとかはとても初めて立つ他人の台所とは思えないくらいに自然だった。

すっかり興奮状態の子どもたち三人と共にした夕食は、大笑いの連続で、ものすご~く楽しく、次は是非週末にのんびり会おう!と誓って帰路についた。

ジャズライブからキッチンにまで、初めて会ったときには想像もしなかった方向に僕らはいる。
彼は、妹のAnat Cohen、弟のAvishai Cohen(トランペット)と、3Cohensという兄弟ユニットを組んでいて、今月欧米ツアーに出かける。その前の6日にテルアビブでShai Maestroとライブ。彼のキッチンにたった後で聴く音は違って聞こえるかもしれない、楽しみだ。

テルアビブで走る

12月に入ってもしばらく日中30度などという「冬が来ない」日々が続いていたけど、5日、思わず肩をすぼめて歩くような気温になり、日本から持ってきたヒートテックやタートルを引っ張り出した。そして、先週末は暴風雨が3日ほど続き、海岸沿いのレストランやバーが相当の被害を受けたが、イスラエル、そして、おそらくエジプトやレバノンを覆う大気が、完全に夏から冬へと入れ替わり、最北に位置するヘルモン山では一メートル以上の積雪で、イスラエル唯一のスキー場もオープンした。来る時は一気にくるのだ、友人も「中東だからね~、何でもジワジワじゃないんだよ」と言うので、そうそうと思わず相槌をうつ。

日中は太陽がポカポカと体を温めてくれるけれども、朝晩はコートが必要で、その中でスパッツをはいて、長袖を着てその上にティーシャツを着て走るという格好がちょうどよくなってきた。おとこ連中は、相変わらず、Tシャツと短パンが圧倒的大多数で、女性陣はスパッツもTシャツもきちんとしたランニング用に身を包んでいるので、僕はテルアビブでは、男性では珍しく女性的な格好で走っていることになる。

テルアビブの海岸沿いは、南北に遊歩道が続いているので、地中海を見ながら走るという極めて贅沢なジョギングコースとなっているのだが、もちろん、ジョギング専用ではないので、犬の散歩やら、海岸沿いのホテルに滞在している海外観光客が散歩していたり、といろいろな人達がいるので、そういう人にぶつからないようにしながら走る。

最近は、約10キロくらいを目標にしているので、中心部から南下してヤッフォという旧市街のある街までを往復するのだが、シェラトンやクラウンプラザといったホテルが立ち並ぶ中心地から徐々にアラブ系住民が居住するヤッフォに近づく5キロ程の短い距離を走ると、耳にする言葉が、ロシア語やフランス語、英語から、徐々にアラビア語、アラビア語アクセントのヘブライ語へとかなりクリアーに変化する。帰り道はその逆で、だんだんロシア語やフランス語が多くなり、自宅近くになるとほぼ完全にネイティブのヘブライ語になる。

中心部から北上しても海岸線沿いを10キロ走ることはできるのだけど、ここまで耳に入る音の豊かな変化はない。すれ違うのは、ウォーキング、ジョギング、またはサイクリングの人々が大半で、海外からの観光客がブラブラただ歩くということもなければ、アラビア語を耳にする機会もほとんどない。

テルアビブでも、多くのランナーは音楽を聴きながら走るけど、僕は昔から聴きながら走るのだけはどうもできず、数メートル前を見据えて黙々と歩を進めるだけの、地味な走り方なのだけど、テルアビブで走ると飛び込む言葉の変化が多様でいろいろと刺激を受けるので、それを楽しんでいる。

さらに、お見合いたばかりの若い宗教家のカップルが、微妙な距離を保ちながら夜間の南部の海岸を歩くということを、走るようになって発見するようになった。これもまた面白いのだけど、続きはお楽しみということで。

芸術の秋のあっさり割引

昨日のニュースによれば、昨年の同じ時期の10月からの累積降水量が150ミリだったのに、今年は5ミリしか降っていないという深刻な水不足で、今年の雨季(イスラエルでは冬というけど、僕等からすれば、一年を通じて雨が降る可能性のある数ヶ月なので、雨季と言いたい)はこのまま水不足でしかも高温なのだという。

日本から戻ってきて3週間が経過するけど、目にした雨と言えば、ほんの一瞬「さらさら~」と降った程度で、気温も25度を越えている。朝晩は長袖でなければ寒いけど、日中は半袖短パンで充分という毎日なのだ。「冬はどこへ?」つまりは「雨は降らないのか?」という声がだんだんと真剣に心配する声に変わりつつある。

と、まだまだ夏ではあるけど、来週はテルアビブでピアノフェスティバル、その次の週はエルサレムで「中東のギター」ウード国際フェスティバルと「芸術の秋」満開というシーズンに突入した。

ピアノフェスティバルは毎年気になっているんだけど、知っている人がいないので今年もパス。ウードのほうは、アビシャイ・コーヘンの高校の同級生で、最近も一緒にツアーを回っているアモス・ホフマンというウード奏者(本当はギター奏者)の名前を見つけたので、よしっ!と行くことにする。ちなみに、アモスは、アバテ・ベリフン(Abate Berihun)というエチオピアから20年前に移住してきたサックス奏者で、「中東音楽とエチオピア音楽の出会い」と、おお~と魅力的な響きのテーマでライブをする。ベリフンは今年のレッドシーに出ていたけど、イスラエル人(エチオピア出身だけど、ユダヤ人なので移住してくると自動的にイスラエル人になるんです)だから、イスラエルで見れる機会を待とう!と思っていたのでチャンス到来で、もう一丁よしっ!

ウェブでチケットが見つからなかったので、新聞に出ていた電話番号へダイヤル。

「あの~ウードフェスティバルのチケットありますか?」
「え、、、っと(何かを見ている様子)あるよ。いつ?」
「24日」
「どっちよ、二つあるんだけど。中東エチオピア、、、」
「そっちです。」
「何枚?」
「一枚です」
「フ~(いきなりため息)、80シェケル(1800円くらい)」
「あの~The Cardを持っていれば割引って書いてあったんですが。」
「クチャクチャ(ガムをかんでいる様子)、えっと、じゃあ64にしてあげる」
「(カードの番号も確認しなくていいのかと内心思いつつ)ありがとうございます!」

とあっさりと64シェケルに割引になった。チケットは当日窓口でクレジットカードとIDを見せて受け取るという仕組み。これまでも同様に電話でクレジットカードで購入したライブチケットは同じ仕組みで、この時点でチケットを取ったという証拠は何も残らない。これだけ証拠として「書いたもの」が重要視される土地で、当日の当日まで手元に何もないというのは最初のうちものすごく不安だったけど、今ではすっかり慣れた。ちなみに、「The Card」を持ってきてね、とは言っていなかったので、この割引金額はもう確定なのだ!

さて、イスラエルの名俳優で「迷子~」の隊長役を務めたサッソン・ガバイ氏は本当に売れっ子で、舞台を中心に活躍しているんだけど「売り切れ」が多くてなかなかチャンスが訪れない。一度ガバイ氏本人の招待で見た「レインマン」が最後、もう一年半前のことだ。船長と「サッソンさんにも会いたいね~」と言っていたら、ちょうど「15日アンコール公演!」という記事を見つけたので、早速電話をする。

「あの~まだありますか?」
「あるわよ。何枚?」
「一枚です」
「あなた割引の対象?」
「え?」
「学生か兵士か、まあないと思うけど年金生活者?」
「いやどれでもないです」
「あら、そう。でも50%割引してあげる?」
「・・・(驚いて声が出ない)」
「200シェケルのところ100シェケルだけでいいから。クレジットカード番号は?」
と、またまたあっさりと、半額で購入してしまった!値下げには結構な体力を必要とするこの社会で(体力を使えば値下げできるというのもすごいのだが)、昨日と今日は、あまりにスムースに割引が成立した。

ここで生活するときに自分に言い聞かせていることの一つに、「本当に手にするまで、本当に実現するまで」油断しないことというのがある。久々に雨が降ったら雨漏りしてしまって舞台がびしょぬれで、ということだって、全くないわけではない。そういう非常事態にも、何とかかんとかで乗り越えるんだろうけど、とにかく、どんな舞台と音楽になるのか、今からいろいろな意味でちょっとドキドキである。

Red Sea Jazz Festival

遠くの山からモソモソと満月が昇り始め、空がセピア色と紫色が混ざったような色に変わるころ、目の前からは少年達に奏でられたばかりの新鮮な音楽が流れ、それを見守る保護者達の何とも嬉しそうな視線を見ながら、今日はどの会場から始めようか~、とすりきり始めたプログラムをポケットから出し、冷え切ったビールを口にすする、いや~贅沢だな~、楽しいね~、ともう何度口にしても気持ちのよい言葉が家族三人の口から出てくる。

23日から26日までの四日間、僕達の待ちに待った夏休みは、毎日夜7時頃から、そんな風に始まった。友人や同僚から「シャワー浴びたばかりのようなすっきりした顔をしているぞ」「何も言わなくてもどんな時間だったか顔が物語っているよ」と言われたほど、家族で素晴らしい音楽と素晴らしい人と紅海という空間にドップリと浸かってきた。

Red Sea Jazz Festivalという真夏の夜に星空と紅海に囲まれてジャズを聴くというイベントは今年で24年目、昨年からは我らがAvishai Cohenがアーティスト・ディレクターで、すなわち彼推薦のアーティストが世界中から集まるジャズ・フェスティバルになったことで、僕らは「行ってみようか」という大きなきっかけになった。

僕等家族は「根っからのジャズ好き」というわけではない。アビシャイ・コーヘンが好きで、彼の周りにいるイスラエル人アーティストをこの一年追っていたら、結構知り合いのアーティストが増えて、そんな彼等も演奏者にリストアップされるフェスティバルは何だか楽しそうだから行ってみよう!ということになった。毎日7時からの前座を務めた少年達の中にも、我が家のすぐ近くの路上で何度か演奏する姿を見つけていた高校生ジャズバンドが出演していて、僕等は「保護者同然」で演奏を聴くことにもなった。イスラエルのジャズは若くてフレッシュで、それだからこそ熱い!そこにはブランデーもタバコも(いわゆる僕が勝手に抱いているジャズに付随するそういうものが)ないのだ。

6歳の娘も「あ~楽しかったな~」と何度も言うほど、眠くなったら気持ちの音楽を聴きながら寝入り、「ねえ、ギルアドってカッコいいね」というアーティストに翌日直接話しかけたり、気に入ったアーティストの写真を撮ったり、大いに楽しんでいた。そういう、公園に出かけるような気分で毎日遊びにいけるジャズフェスだった。

さて、フリーチケットを手にあっちこっちと聴きに言ったけど、ウァオ!!!!としびれたアーティストは2人(組)。

一人目は6月に初めて本格ライブを見て心を打たれたOmri Mor。まだ26歳の若い若いピアニストだけど、北アフリカのサウンドとジャズをミックスした新しい音は、体の心にまで届いてしばらくしびれちゃうくらいの感動です、あ~また聴きたい!と二日連続で足を運んでしまったアーティスト。地元メディアでも今年のフェスティバルのスポットライト!とものすごく高い評価を受けて、これからも大いに期待のピアニスト!
今回のライブからではないけれどもちょいとおすそ分け、これを生で聴くのは最高です↓



二組目はイタリアからやってきたMusica Nudaというウッドベースとボーカルというデュオ、なのにミュージカルのようなトータルパフォーマンス!とにかく、この名前を聞いたら絶対お勧めです!!!!!!!


ジャズフェスティバルの会場である紅海まではここから車で5時間以上かかるので、途中の砂漠で家族三人テントで一泊したのだけど、ダッチオーブンでつくった鶏、コーヒーそして星空とこちらも最高でした!

最高の夏休みを過ごして、我が家の娘は明日から一年生!イェイ!

にっくきアラインも今では

夕方ミミから「明日の夜我が家に来ない?」と電話が入る。
このアパートの管理者である弁護士のアライン、また奥さんのミミから電話が鳴ると一瞬ドキリとする。だいたいは「パリからオーナーが来ていて、部屋を見に行きたいらしいけどいつがいい?」といった住人にはプレッシャーであることがほとんどだからだ。大慌てで大掃除をしなければならないのだ。壁は丁寧に真っ白なのでちょっとした汚れや傷が目立つので、どうしよう、ああしよう、とアタフタする。でもその時は違った。シャブオットという、乳製品を食べるお祭(正確には収穫祭や初果実の祭といったいろいろな名前がちゃんとある)なので、家にご招待してくれるというのだ。

我が家イスラエルに到着してかれこれ二年、すっかりとお気に入りのこのアパートに入居できるまでの始めの二ヶ月間はそりゃもう悪戦苦闘だった。弁護士のアラインという名前も口にしたくない、顔も見たくない、にっくきアラインめ!とまで腹を立て、一度交渉が決裂したのだが、二週間後に奇跡的に復活して最後には歓喜の握手で契約に至ったのだ。その弁護士アラインとは今や会うたびに僕のことを「息子よ!」とギュッと抱擁し、電話では「船長、海は元気か?俺の娘達によろしく伝えてくれよ」を忘れず、昨秋には娘ヒラの結婚式に家族で出席し、アラインの緩む涙腺を目の当たりにしてこちらがジーンときてしまったこともあった。

いつもは彼の弁護士事務所で会っていたので、自宅を訪れるのは初めて。テルアビブ北部の車で5分位の所の一軒家が立ち並ぶ閑静な住宅地。このあたりのゴチャゴチャと集合住宅が立ち並ぶうるささは全くなく、裏庭も芝生がきれいにかりとられて「わお~」の連続。

そこで、アライン、ミミ、息子のオムリ、そして5ヶ月前にフランスから移住したばかりというファビと我が家でミミ特性の乳製品をモリモリ食べた。ちなみに、アライン自身も26歳の時にパリからイスラエルに移住している。なので、彼のヘブライ語はフランス語の響きが混じっている。日本ファミリーとフランス+イスラエルファミリーでの食卓だった。

食事の途中でひょんなことから政治的な話に火がついてアライン、ミミ、息子と家族三人がまったく別の意見で大衝突、ヘブライ語勉強中のファビは「僕は言葉が分からない」と完全に傍観。僕はそれこそ微妙な立場なので、「新たな視点の提供係」を意識するも、何だかそれぞれ言いたいことを言うだけで生産性のない議論になるので、途中から聞き役に徹する。最後はみんな疲れきって自然消滅して、気がつけば11時を過ぎ海は寝てしまい、何だか僕も議論を聞いていただけで疲れきって、帰路につくことにする。

イランへの脅威、アラブへの不信感、犠牲者意識といった、最近の情勢を反映したこの三つの柱が大衆感覚を支えているのだということを帰りの車の中で一人振り返りながら実感する。

それ以上に、イスラエルに来て二年、あのアラインと家族ぐるみでお付き合いなんてあの時は想像もできなかったな、としみじみと思いながら夜のテルアビブの夜行の中を車を走らせた。

スタートへのゴール!

久しぶりの更新でかなり長いです。
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やった~~~!
ゴールまでたどり着けるだろうか、足が動かなくなるといわれている35キロから先のために体力を蓄えておこう、とジッとジッと我慢しながら、4時間17分間走り続け、ゴールのラインを踏んだ瞬間、何故か両手が上がってしまい、残りの体力がドファ~~と真っ青の空に弾け散っていった。

2010年5月14日。僕は生まれて初めてフルマラソンを走った。走りきった。
2月中ごろ、「テルアビブマラソン5月14日に延期」との新聞記事を見た瞬間に、「走ることになる」と直感。当初3月24日に予定されていた二年連続の大会は(僕はそれまで今年もこの大会が開催される事を知らなかった)、イスラエルの盆と正月が重なるような大型連休直前の大規模交通規制が難しいという理由で延期された。大型連休は突然やってくるのではなく、きちんとカレンダーでも手帳でも見ればしっかりと書いてあるのだが、目の前に近づいてこないとそれが実感できないのだ。それでも、バタバタと、ギャーギャーと外野も内野も騒ぎに騒ぎながら、最終的には何とか形にして、すべてが「成功裏に終わる」のである、正確には「成功裏に終わらせる」のだ、ここでは。日本で5月(さつき)は走るのに快適だけれども、地中海沿いとなれば5月ともなるとしっかりと初夏とも言える暑さ到来の頃なので、「マラソンには暑すぎ」「マラソンの調整は半年以上前から照準を合わせるのだから、急に暑い時期に変更されても困る」とランナーからの最もな不満が溢れている、という大会主催者の市役所への批判的な記事を見ながらも、「走ることになる」という僕の直感は全く変わらなかった。こういう直感にはもう従うしかないのだ。

「僕はフルマラソンを走ることになる」という確信を抱えながら帰宅し、「フルマラソンがあるんだって、テルアビブで三ヵ月後に、やってみようと思うんだけど」と船長に言うと、何の迷いもなく「うん、いいと思う」と直球が返ってくる、足並みはバッチリである。最後に、フルマラソン経験がある大学野球部の友人に三ヶ月くらいの準備で臨むのが「現実的」なのか聞いてみる。「練習は一回の中身が大切。やるっきゃないでしょ!」と客観的なサポートを得る。「よし、走ろう!」と一気に決まるものの、何といってもフルマラソンである。家族三人の中で「やってみよう」と一人決断してできる話ではない。三ヶ月間、きちんとしかるべきトレーニングを積み、しかるべき食事をとらなければ成し遂げられるものではない。それに、三人の生活のリズムだって多少なりとも変わるのだ。実際、海が「ね~あそぼ~」と言うのに「ゴメンよ、今日は走るから」と断らなければならない場面が何度もあった。

6歳になった娘の海には、走った時間を記録する「マラソンカレンダー」を管理する係りを任せた。とにかく4時間以上という想像を絶する長時間を走るので、長時間走ることに慣れようということで時間走を基本とした練習になった。走った時間の10分ごとに海が好きな印で記入するということにして、オリジナルのカレンダーを作った。1日に40分走ると、1日の欄に花が4個並ぶという具合に、徐々に花やハートが増えていった。船長は「栄養と食事」を担当。練習後、どんなタイミングで何を食べればよいのか、足の筋肉を作るためにはどのタイミングで何を食べればよいか等を細かく指導。ご飯と味噌汁はシンプルながら欠かせない栄養源となることをトレーニングをしながら再認識すると食卓も変わり、フルマラソン挑戦は家族プロジェクトになった。

あまり激しい練習は体に堪えるし、痛みが出たら続けられないので、無理のない週三回というペースで、徐々に時間を延ばして最終的には3時間30キロくらいを走れるようにして本番に臨むという大まかなプランを作った。20代のときのようにガツガツと体にムチを打つような練習ではなく、長い時間に耐えられる体をゆっくりとつくっていくというイメージで、走りも基本はジョギングのペース以上は走らず、とにかく時間を延ばしていく、そして、走った後の柔軟とクールダウンを入念にじっくりとこなし、ゆっくりと休むこともトレーニングの一環と大事にした。寝る前には船長とストレッチをすることで、走らない日も筋肉がゆったりと力を蓄えながら大きくなっていくような実感をしながら睡眠に着くことにした。

体はイメージどおりに長い時間に耐えられるようになり、恐れていた腰痛や膝下痛もなく一ヶ月に迫った。そして、30キロ走を一週間に2度こなした後から、腰からすねの辺りに変なひっかかりが残り、その後の練習に向かうものの、走れないという状況に陥った。野球をやっている頃から疲れが溜まると痛くなっていた箇所なので「あ、こいつか」と何となく懐かしい気もしたのだが、時間がたってもなかなか痛みが取れずにだんだん焦りが湧く中で、刻一刻とスタートまでの時間が短くなっていった。一週間前になってようやく軽く5キロを走ったものの、何だか怪しいなという足の状態は結局当日の朝まで完全復帰にはならなかった。

フルマラソンは足だけではなく全身運動なので栄養摂取も命。船長栄養士に従い三日前からはパスタ、ご飯、お餅(まあ姉さんありがとう!)のオンパレードで体内に炭水化物を徐々に溜めていく。炭水化物は体に溜まっていくな~という実感がものすごく湧く(少なくとも僕の場合)。二日前に食べたお餅の手ごたえ(腹ごたえ)がよかったので、当日は餅で行くぞ!と決めた。

そしていよいよ当日の朝、5時45分スタートなので、朝2時半に起床。そして、お餅をゆでて黄な粉にまぶして三個食べる。船長が「ご飯も食べた方がいいと思う」と言うので、ご飯一杯分をノリの佃煮と一緒に食べる。お腹はいい感じで準備オッケイ。ゼッケンをつけたり、ポカリスエットを作ったりして、船長の声援を受けて4時半に家を出る。タクシーに乗ろうと大通りに向かっていくと、出会ったばかりのカップルだろうか、別れを惜しんで抱き合っている男女が目に入る。週末の夜中のテルアビブだな~と実感。でも、いつも見慣れた街が、別の世界に遠ざかっていくような気分でタクシーに乗りながら会場に向かう、僕は今からこの街を走るんだ。給水所に大量のペットボトルが詰まれたダンボールと、ボランティアであろう集合したばかりのスタッフが目に入り気分は一気に盛り上がり会場に到着した。

二日前の記事によれば、フルマラソン参加者は550名(最終的には470名。他にハーフと10キロがあり、全部で約一万人)。とにかくゴールにたどり着くことだけが目標なので、足が痛くならないことを祈りつつ、自分のペースで走り始める。550人くらいだとドサドサとうるさくもなく、自分のペースを保つことができ、イメージどおりにスタートを切れたことで一安心、足の痛みも「痛い」というよりは「違和感」位で留まっていてくれている。今回のコースで最も面白みのない長い10キロの幹線道路の往復をイメージどおりに終え、徐々に南下しながら市内に向かう。15キロ地点付近で船長と海が目に入る、足を心配していた船長に大丈夫という表情を見せようとする直前、「これ捨てないでって、海が」とスペシャルドリンクが入ったペットボトルを手に渡してくれる。スペシャルドリンクは待っていたので嬉しかったが、それが入ったペットボトルを「捨てないで~」というあまりに日常的な海の要求に「え~、こんな時に限ってそんなお願いかよ~そりゃ無理だよ~」と言うサインを出そうと僕は思いっきり顔をしかめる。しかし、僕の表情を見た船長は「ダメかも」と僕の体調悪しのサインと受け取り、その後ずっと心配することになった。僕の足の方はと言えば、8キロ地点辺りから徐々に変な痛みをあらわし始めていたのだが、痛みの程度は変わらずにずっと同じ痛みだったので、これくらいだったら大丈夫かもという範囲で止まっていた。

マラソンの応援というのはホンの一瞬だ。ペットボトルを手にした瞬間から船長も海もドンドンと背中に遠のいていく。スペシャルドリンクを口にし、その瞬間フッと「持っては走れないので、ここに置いて船長に取りに来てもらおう」と路肩にペットボトルを置いて「お~~」と船長に向かって声を発した。走っているときに「せんちょー」と発するのは結構なエネルギーがいるのだ、自然な体の動きに任せて出せた動物のような「うめき声」を船長が聞き取ったかどうかの確認はできないまま、40分後くらいには戻ってくるのでその時までに見つけてくれるであろうと期待して、ひたすらと南に向かって僕は走り続けた。

正面からは時間差でスタートしたハーフの一群が結構な勢いで向かってくる。暑くなるといわれている地中海の5月半ばのフルマラソンということで、出場選手は昨年の半分位で少数派なのだ。僕は、逆流に立ち向かうように、一人黙々と走った。前方には20メートル先に一人見えるだけで、さらにその先20メートル、とフルマラソンの選手はその時点ですでに散らばっている。

バウハウスが建ち並ぶ世界遺産「ホワイトシティ」のど真ん中でもあるロスチャイルド通りを進み、一つの目標地点である折り返しとなっている20キロ地点を通過し、今度は北上に戻っていく。「フルマラソン半分地点」というポイントを通過しながら、「よし半分」と自分に言い聞かせる。足は何とか、体調の方は元気だ。ちなみに、テルアビブ市内でも結構な繁華街であるロスチャイルド通りであるが、朝8時前のしかも半分週末の金曜日とあって、沿道に応援などというものも存在しない。このマラソン大会には「沿道の応援」というものがないので、ランナーはひたすら自分と共に走るのだ。カフェのテラスに座って新聞を読む中年の人たちも、目の前を横切るランナーよりも、読み物がドッサリと詰まった新聞の週末版をのんびりと読んでいる。その中を僕はもくもくと走る。

街中を抜けて海沿いに出ると、ハーフの一群はすでに過ぎ去り、パラパラと走るフルマラソンランナーの背中だけが目の前の数百メートルに続いている。550人で2時間以上走っていると、前を走る人の背中は覚えられるものだ。高校生が借り出されているのだろう、沿道に腰をかけている交通整理の若者は直接顔を照らす太陽を左手で眩しそうにさえぎりながら、退屈そうに僕らを眺めている。ホームレスは路上に捨てられた大量のペットボトルを大きなワゴンで拾い集めている。回収すれば4本で1シェケル(25円)で換金できるのだ。僕は徐々に近づく25キロ地点に向かって足を動かす。

船長と海がいた場所に戻ってきた。辺りを見渡すも彼女達の姿はない。が、「!」置いておいたペットボトルがそのままではないか!濃い黄色のスペシャルドリンクがピカピカ輝きながら半分くらい残っている。そのボトルの前をこれまで何千人の人たちが通過したのだろうかと想像すると、その濃い黄色はスペシャルドリンクだろうか?と一瞬ためらったが、僕はそれを手に取り口にした。スペシャルドリンクだ!
コースはさらに海に近づきテルアビブ・ポートと呼ばれる、最近ではすっかりお洒落な空間となった場所に突入、そこから26、27キロと自分の知っている最長距離に近づいていく。目の前の背中の数も大きさも変わらずまま、ひたすら足を動かす。僕ら数百人のために道路はしっかりと規制されている。ありがたいことである。

りんごを一かけ口にしながらポートを抜けると、いよいよ今回の「勝負どころ」の海沿いの10キロ往復に入る。27キロから37キロ間は、テルアビブ市最北部の海沿いを太陽に照らされ海風を浴びながら2キロ半、さらに少し内陸に入り、道路だけで住居や店といった生活観が全くなく防風林の間の乾いた道を2キロ半というコース。フルマラソンで、一流選手でさえも厳しいと言われる33キロから35キロ地点が、そんな厳しい条件なので、前日までのイメージトレーニングでは「あ~きつそうだな~」と太陽の暑さと動かなくなるであろう足を想像していたその空間にいよいよ突入した。

「捨てないで」という海の声がどうしても離れずに、空っぽになったベットボトルをお守り代わりと思って握りながら距離を伸ばしていたが、さすがに28キロ辺りで耐え切れなくなり、沿道で退屈そうにしていたスタッフのお兄さんに手渡す。もし僕がお兄さんだったら、そんな風になにやら絵が描かれたペットボトルを無言で手渡されたら結構困るだろうな、と渡した後に気がつきながらも、勝負どころで手に何かを持って走る余裕などないのでしょうがない、と後のことはお兄さんに任せて、僕は自分の走りに集中する。

左手に見える海はきれいなのだが、きれいだとか、走るのを止めて海に入りたいとか、泳いでいる人を見て羨ましいな~とか、不思議な事に、目の前に海があるということにふさわしい感情というものは全く湧かず、ひたすら足を前に進め、目の前の数字が増えていくことだけを考える、29キロあたりから内陸に入り防風林に挟まれ直射日光に照らされた直線道路を再び北上すると、その道路に存在するのは走っている人間だけで、「ガマン」という文字がピッタリの空間に突入したような、ものすごく引き締まった気持ちになる。上からは太陽がギラギラ照らしている。30キロ、31キロ、という数字を通り過ぎながら、段々と進んでいるんだということを全身で感じる。そして「ガマン」道路の折り返し地点で給水、気温25度を越えた中ではとにかく給水が大切、と言い聞かせてすべての給水を満遍なく取る。そして南に向かって足を進めていく、まだしっかりと足は動く。

途中、過呼吸で泣いている女性とその両肩を支えている男性を通り過ぎるが、とにかく今日は自分がゴールに向かうだけだと申し訳ないなと思いながらも振り返らずに先に進む。32キロ、残り10キロ、イメージどおりの体力がしっかりと残っていることを体で確認しながら通過。時々、僕とは逆に北上しているランナーとすれ違う際に笑顔を交わしたり、親指を立てあったりしながら、きっとつらいであろう「同志」と励ましあう。33キロ、残り一桁、体はスタート時と変わらずに自分のペースをひたすら刻んでいる。

そして「ガマンの道」をようやく抜けて、海沿いの道に向かう時、目の前に濃い青の海がパ~っと広がってきて思わず心の中で「ブラボ~」と叫んでしまう。34キロ手前のこの辺りで、海がきれいだと思えたらゴールにいけるエネルギーは残っているのかもしれないとイメージしていたので、想像以上に濃くキラキラとした海が飛び込んできて随分と勇気が湧く。が、35キロの壁、35キロを過ぎると突然足が動かなくなるという未知の怖さがあったので、落ち着かせて自分のペースを保ちつつひたすら前へ前へと足を動かす。手を振る力もまだしっかりと残っている。

途中、棄権する選手を複数横に見ながら、右手の海が徐々に遠ざかりながら「勝負どころ」の10キロは終わりに近づいていき、いよいよ残りの5キロとなるハヤルコン・パーク内へ突入する。

こんなのありかよ!という位に急斜面の橋を二箇所続けて渡って、芝生の続く公園内を走る。そんな急斜面の橋も普通に越えられたあたりから、はじめて「いけるかも」という前向きな気持ちが出てくるも、まだ5キロ、何があるか分からない、と「テルアビブ・ジョギング・クラブ」が配っていたオレンジをかじり、座り込んだ高校生スタッフに見守られながら公園の内部の方に向けて冷静にリズムに合わせて足を動かす。

そこからはひたすら直線で二キロ程が続く公園道、前からはすでに随分前にゴールしたと思われるハーフ出場者がスガスガしい格好でズラズラと歩いてきて、「本当によくやってるぞ!」と声援しながら拍手を送ってくれる。大会前日には、マラソン当日が平年以上の暑い日になると伝えられていたし、実際に25度位のいい天気の中でのフルマラソンを走るというのは客観的に見たらそりゃ大変な条件だなと考えると、僕に向かって「よくやってるぞ!」と声援してくれる一人一人の声が本当にありがたく、素直に嬉しいなと思いながら足を進める力にもなっていった。

38キロ。目の前を通り過ぎた自転車の男性が突然「博士!」と声をかけてきた。とっさに左手を挙げる。後ろから戻ってきた男性はイガル。かつて東京で一緒にテレビの仕事をしたジャーナリストだ。「お前が走っているとは知らなかったよ、何キロだ?」僕は一言「42キロ、フル」と応えた。目の前の42キロに向かって走っているのだということを、イガルに伝えようとその一言に込めた。「いい走りだぞ、この条件でいい走りだ。少し伴走するか?」と言ってくれたのだが「いや、大丈夫、あと4キロ」と口にすると「そのまま行けば大丈夫だ、成功を願う」と自転車の音は後ろに遠ざかっていった。

イガルと短い言葉ながら会話を交わすと、体力が一気に減って一瞬呼吸が厳しいなと冷やりとしたので、もう会話はしないようにしようと言い聞かせながら自分の走りを取り戻そうとすると39キロ地点を通過していた。ハーフを終えた選手からの声援はまだ断続的に続いていて、僕だけにかけられているその言葉は本当に一つ一つ体にしみこんでいった。

と、船長と海が目の前に見える。フルマラソンのコースを初めて目にした際に、この辺りからゴールにかけて応援してもらえればかなり力になるな、と思っていたその辺りに、約束をしていたわけではないのに二人で立っている。自然とフォームは自分の理想に近づく。船長が「梅干いる?」と小さな袋を差し出してくれたが、それよりもこの前に進み続けている足を動かす事に専念しようという気持ちを伝えようすると、「いけそう!」と自然と口から飛び出し、その時に初めて実感として「行けるぞ」と体が応えてくれる。

船長と海はそこから自転車で併走してくれる。すぐに40キロ地点、目の前にいた二人を越す足は多少重いものの、イメージどおりのリズムが続いている。後ろから「博士はやいね、博士すごいね」と言っている海の声が聞こえる。きっと40キロ以上なんて、もう意識もうろうでヘロヘロどころかベロベロなんじゃないかと想像していたので、そんな「勇姿」を娘に見せられてよかったな~と急に父親の気分になる。

41キロ、先週家族でゴール地点と集合場所を見てみようと散歩に着た場所だ。一人じゃ行けない、と海がなかなか足が前に行かなかった遊具が左手に広がる。「あ、ここ来たね」と娘の声が聞こえる。そうだ、ここを三人で散歩したっけ。そこを今、僕は走っている。そして、船長と娘が後ろから自転車で後押ししているのだ、今は。途中、船長が写真を撮ろうと先に進みレンズを向ける、僕はできるだけいいフォームをイメージ、そして自転車の後部に座っていた海の手に「タッチ」。

ゴールが左手に見えるようになり、42キロ地点を通過、そこから、陸上競技場の周回のようにグルリと公園を回りながらゴールに向かう。スパートのようなギアチェンジができそうな感じもしつつも、呼吸がちょっと不安だったし、とにかくゴールゴール、と言い聞かせながら、同じペースを保って足を前に進める。二人の選手を抜いて、ドンドンとゴールが見えてくる。残り100メートル、自転車進入禁止となり船長と海は警備員にゴールまでのレーンの侵入を阻止されるのが見えて僕は一人でゴールに向かう、がこのまま一人でゴールは寂しいなと思って後ろを振り向くと、船長が走ってくるのが見える。僕は右手を漕ぐようにして船長がゴール地点の前まで行き、僕の姿を正面から見れる場所に立った瞬間、船長に見守られ、両手を広げてゴール!ついにフルマラソンを走りきった!

家族プロジェクトは大成功!船長と海からは手作りの大きなメダルを首にかけてもらい、さらにイェーイ!
恐れていた暑さと足の痛さにやられる事も、「もう走れない」と思うようなつらい壁もなく無事にゴールにたどり着けた事だけで本当に嬉しかった。走り終わった直後よりも、しばらく経ってから何度も船長と「走ったな~」「やったね~」と言いながら、徐々にフルマラソンを走ったんだなという実感が湧いてくる。船長、海、ありがとう!

帰宅してすぐ「遊ぼう」という海。「いや~走って足が痛いから遊べない」と言うと、娘は「じゃあ何で走るの?」。走りたいから走るんだよ、何故かは分からないけど。
体をじっくり休ませたら、今度はサブ4を目指して、また家族で新たなスタートを切りたいと思う。フルマラソン、しばらく我が家の家族プロジェクトになりそうである。船長、海、またスタート地点を目指そう!

日本文理!

新潟県で高校球児だった者としては何とも嬉しいニュースだ。本当に信じられないくらいの出来事。

日本文理高校決勝進出。船長と二人、朝5時におきてABC放送のネット生中継で準決勝を観戦したが、伸び伸びしている姿を見て本当に胸が熱くなった。

新潟の高校野球は全国でもおそらく最もレベルが低く、いつも初戦敗退、よくて二回戦。とにかく全国レベルというものから大きく離れている、ということを現役中もその後も感じていたので、まさか決勝に進むとは、全く想像を大きく越えている。

もう20年以上前のことだけれども、僕が高校一年の時の対戦相手がまさに日本文理で、当時、吉田篤史という投手(その後全日本、ロッテで先発投手として活躍)を擁してそれなりに注目されていたものの、投手以外は大したことなかったし(でもそこに負けた)、雨の試合とはいえ応援席にはだれもいなかったことをよく覚えている。

そのチームがいまや甲子園の応援席を埋めているのだから、テルアビブなんかにいても興奮しないわけにはいかない。

おなじあの空の下で練習して、同じグラウンドで戦い抜いてきた選手達が、今甲子園の大舞台の頂点に立とうとしている。どれだけ時間がたっても、どれだけ遠くにいても、選手の姿を見るとグッと熱くならざるをえない。

暑い夏の熱い余韻

昨夜の熱い余韻がまだ全身を覆っている。
かなり楽しみにしていたAvishai Cohenのライブ。
どんな言葉を選んでも、あのライブのすごさをうまく言い表せないな、でも、とにかく、本当に、ほんとうにあの空間にいることができて、あの時間を共有できたことはこれからの宝だよ、そんなやりとりを繰り返しながら、船長と僕は全身がまだしっかり覚えているあのライブを思い出しながら語り続け、その余韻を楽しんでいる。

僕と船長はニュー・アルバムを随分聞き込んで、先週ラジオで行われたミニライブもしっかり聞き込んで、かなり耳を鳴らして気分を高めて足を運んだのだが、帰りの道中はフワフワした自分の足ではないような、言葉も出てこないようなそんな「シビレ」がしばらく続いていた。行く前のウキウキ気分など、もうず~っと遥かに飛び越えた、なんだかよく分からないがとにかく圧倒されていた。実際横に座っていた船長は興奮を通り過ぎて、大丈夫か?と思うくらいそこにいるのに意識はどこかにいってしまっていた。

ニューアルバムAuroraの公式サイトはこちら(一曲だけビデオあり)

僕がAvishai Cohenの名前を聞いたのは以前留学していた頃のことで、その当時ボストンに留学していた大学野球のチームメート(今はベルリン)が「イスラエルといえばAvishai Cohenというのがいていいよ」と教えてくれたのだった。その当時はチック・コリアのトリオとしてのアルバムが出ていて、ちょうどその友人をボストンに訪れた時にそのCDを手に入れたのが僕の初のAvishai Cohenだった。その後、さいたま市の小さな図書分室でたまたま船長が「Colors」というソロアルバムを見つけて「お、かっこいい!」と思った、というのが昨年5月に赴任するまでの我が家のAvishai Cohen歴だった。

赴任してこちらで生活をするようになって、ラジオでAvishai Cohenの曲を結構耳にするようになって、イスラエルでも随分名が知られるようになったんだな、と思った。というのは、2003年にイスラエルのかなり著名なテレビ関係者達にAvishai Cohenの名前を言ってもだれも知らなかったことを今でも鮮明に覚えているからだ。Avishaiがイスラエルに帰ってきた最近5年くらいで一気に「ホーム」イスラエルでファンを広げたんだろう。でも、僕は正直なところ、ラジオから流れるAvishai Cohenの歌を初めて聞いた昨年の夏頃は、「フツーの歌」にしか聞こえず、「あちゃちゃ色気づいて余計なことをして」という印象が強かった。

でも、11月、そして昨日とライブにいった今では、もう絶対にあの歌声がないと今のAvishai Cohenの作品は考えられなくなった。あの何ともいえない、かすれ声のようなのに調和している声、そしてそんな声が奏でる「ラララ」に虜になっている。Avishaiの声による歌がなければもう絶対に成り立たず、彼のベースも絶対に不可欠で、そして、Avishaiを挟んで横一列に並ぶピアノ、コーラス、パーカッション、そして今回はウードのメンバといったメンバーが絶対不可欠。ステージに出てきた時から、一緒に新しく楽しいことやろうぜ!と集まった仲間なのかもな~と思ったけど、まだ若いメンバーが、新しいこと、楽しいこと、を求めて作り出しているというものすごい新鮮なエネルギーがとにかくよかった。実際にはそんなにウキウキとした気分だけで曲作り、ステージ作りがされるわけなどなく、文章を書く時のように生みの苦しみをしながらの辛い作業の成果が僕らの目の前にはあったのだろうけど、おそらく僕らを圧倒したのは、そんな生みの苦しみによる達成感ではなく、そんな苦しみはまるで過去であるかのように、もう次を見据えている、次を見つけたくてウズウズしている、そんな想像を絶する前進するエネルギーなんだろうと思う。

アンコールの一曲目、Avishaiが一人で出てきて、さらっとピアノの前に座っていとも楽しそうに弾き語りをした姿に、彼の器のでかさを感じて僕のAvishai Cohenに対するファン度は一気に高まった。惚れたといってもいいくらいの感情だった。しびれたのは僕ら夫婦だけではなく会場全体で、もう、ものすごい興奮で、三回もアンコールして、それでもAvishai達は全部歌ってくれた。総立ちで割れんばかりの拍手のアンコールをして、登場するとスッと座って曲に耳を傾け、曲が終わるとまた総立ちで拍手と歓声、最後はだれからというでもなく観客が踊りだし、、、あ~もう書いているだけで熱くなってくる、しばらくないであろうテルアビブ公演にかけたからこそあったであろう情熱、またシビレてきた。

地中海と夕日

刺青エッセーを書いた大手日刊紙の編集長より「週末家に来ないか」と連絡を受けたので、テルアビブから北に向けて30分ほど車を走らせた。金曜日、それも午後になると完全にお休みモードなのでいつもプップカ、セカセカの道路も快適な空間が続く。

テルアビブ市内を過ぎると空き地とベッドタウンとが交互にやってきて、最も海よりを南北を走る道路が本当にもうこれ以上海に近づけないというくらいの場所に差し掛かったところで、フリーハイウェイを降り西へ。目の前は海一面。テルアビブ市内の海はテトラポットがあって、完全に視界が開けるという場所が限られているけど、今日目にしたそれは正真正銘の海一面。

編集長の家、と言っても「週末だけなんだ」という言わば別荘のようなものだけど、芝がきれいで、窓からはまるで飾った絵のように海が広がっていて本当にきれいできれいですっかりと羽を伸ばした。
彼とは僕が日本にいた時に何度かテレビの仕事をしたのだけど、のんびりと話したことは実はあまりなかったので、芝に寝転んでレモネード飲みながらのんびり話すなんて今回が初めて。我が家の海も家に入るなり、広い庭と目の前の海に興奮したのか大はしゃぎで時間がたつのを忘れた。

夕陽の時間となり、散歩して海に近づくと、ちょっとスノッブな雰囲気のテルアビブとは違った、庶民的な海の光景がそこにあり、そこでものんびりした。
「ここだとアジア人ってやっぱり珍しいんだと思う。テルアビブではそんなことないけど、今日は8割方私をジロジロ見ていた」と船長、車で30分とは言え、それくらい大きな違いがあった。

夕陽は絶景!
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最近のイスラエル社会について編集長との話も盛り上がる!「おそらく、普通の国だったら、新聞記者は、あ~これ書いたら批判を浴びるかも、とびくびくすると思うけど、ここイスラエルは全く逆だね。例えば、英語教育の開始年齢は早いがいいか遅いがいいかという議論があった場合、担当大臣は、子どもの将来を考えるのでも、親の目を気にするのでもなく、どっちの方がメディアの反発が小さいのかによて決める、と言ってもまあ過言ではないな。メディアの方が強いんだ。最近の首相は過去数代、みんなメディアによって辞任を余儀なくされているし、ここは書く者が怖がらないんだ、自由なんだ」
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