漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

  

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

祝「僕の心の奥の文法」!早速見ました!

昨日、東京国際映画祭でイスラエルがグランプリ受賞というニュースを聞き、早速テルアビブの映画館に見に行った。

ニル・ベルグマン監督の「僕の心の奥の文法」(Intimate Grammerヘブライ語も英語と同義で「ディクドゥーク・プニミ」)。個人的には、映画を見た後の感じも含めると、「心の奥の言葉」ともうちょっと踏み込んでいってしまってもいいような気がする。

2002年、ちょうどイスラエルの大学の日本語授業を受け持っていた頃、同じ監督が「ブロークン・ウィング」という映画で、同じ映画祭の同じ賞を受賞したという日本語の記事を、学生達と一緒に読んだことをよく覚えているけど、その時、数字の万の桁に悪戦苦闘する学生が、賞金はドル換算で一体いくらなのかを議論していたことがあったっけ。そう、ベルグマン監督は東京国際でV2!しかも主演女優まで同じ!
僕にとっては東京国際映画祭といえば「迷子の警察音楽隊」!何とも懐かしいです!

この映画は、デビッド・グロスマンというイスラエルを代表する作家が1991年に書いた同名の小説を映画化したということもあって注目度が高く、今回の受賞前から新聞でもラジオでもよく宣伝していたし、とても気になっていたので、いい機会だなと思って夜7時45分からの上映に向かった。

夜だから空いているかな、と思ったらドンドンと人が集まり、小さいながら劇場は一杯になった、やっぱり注目の映画のようだ。

とにかく、主人公の少年が素晴らしい!それに、一つ一つの場面や台詞がとても丁寧で、静かに流れるストーリーに引き込まれながら、同時に、何か胸の中のものがキュルキュルと音を立てているなと思ったらあっという間に終わってしまった。

もう一度見たいなというのが第一の感想。そして、キュルキュルと音を立てていたものがしばらく胸の中で続いていて、もう少し胸に耳をすませば、自分の思春期のこととか、大人になるということとか、そういう僕にとっての「心の奥の文法」を随分と刺激して、いろいろな心の中の反応が起こっていた。

大物作家の書いた小説が原作となっていることもあると思うけど、かなり質の高いヘブライ語の台詞が多かったのと、少年の台詞が時にものすごく早いので、正直、ネイティブでないと「??」と真空になってしまう場面がいくつかあった。でも、映画そのものの芸術度というか、監督の心意気みたいなものはしっかり伝わってきて、とてもいい映画だな、と素直に感じられた。

同じく今年の東京国際映画祭で上映されたらしいイスラエル映画の「パリから5時間」は、昨年イスラエル各地で上映されていて、僕も観たけれども、テレビドラマみたいで、特別何かが残るということは何もなかった、ことを思い出すと、「いい映画だな」と感じられた「僕の心ー」は人にもオススメしたい一作です!
スポンサーサイト

二つのイスラエル映画

イスラエルメディア、映画界は今日のアカデミー賞から目が離せない。
イスラエル映画として初受賞の期待が高い「戦場でバシール」が外国語映画部門にノミネートされているから。私も見たが、今のこのタイミングで絶対みたい映画。
公式サイトはこちら

そしてもう一つ、昨日から岩波ホールで公開となった「シリアの花嫁」。ゴラン高原のイスラエル側に住むドゥルーズ族の女性が、テレビで見たことしかない男性の下、しかも国交のない国境の向こう側シリアへ嫁いでしまう、という実話に基づく映画。小さなお話からゴラン高原、中東、世界へと見終わったあとに徐々に視野が移動していくような感覚を得られるのが素晴らしい!

こちらの公式サイトはこちら。

最近イスラエル映画を集中的に見ているのですが、まずは上記二つは現在または近日中東京で見れるので機会があれば是非。



アキ・カウリスマキ「過去のない男」鑑賞後感

「迷子の警察音楽隊」のエラン・コリリン監督がインタビューで「好きな映画監督は誰ですか?」と聞かれると真っ先にあげていた「アキ・カウリスマキ」、ようやく念願かなってレンタルビデオで目にすることができた。非常に満足、観た後にしばらくその余韻に浸ることができた。

見終わった後「「迷子-」のルーツを見た感じがしたな~」と船長と口を揃えたが、細かいところでクスクスという可笑しなシーンや、四角く仕切られた画面内を丁寧に静かに埋めた映像など、「なるほど~」と何度も頷くような共通性をいくつも感じた。エラン監督はその他多数の映画監督の名前(ジム・ジャームッシュなど)を上げていたし、当然カウリスマキ作品だけを観ているわけではないのだが、好きな監督として真っ先に上げるだけあって、彼が影響を受けた部分を実感しながらの映画鑑賞は一味違った映画の楽しみだった。

さて、映画は私にとってここまで身近な存在ではなかった。しかし、幸運にもここ約半年の間に出会った複数の優秀な制作者達の視点を通して少しずつ身近な存在になりつつある。そして、いつも思うことが、映画は多くの目に届いていいな、という羨ましい気持ち。学術論文はどれだけの人の手に渡るだろうか。しかも、日本語の論文を読める人は限られている。さらにさらに、映画は1時間半程で完成している。膨大な時間とお金を費やしてつくられた作品を、数百円払ってほんの1時間半ほどで味わうことができる。数百円で購入して1時間半ほどで読みきれる学術著書、、、ないよな~。しかも、映画は一時間半ほどで、まるで別世界に連れて行ってくれるようなパワーもある。事実「過去のない男」を観た後で自宅の外を目にして一気に"現実世界"に戻されるような感覚を得た。

そんな羨ましいな~という思いばかりが映画を観る時には沸いてくるのだが、そんな時にはいつも「研究者は監督、演出、主演、PR、音楽全てを一人でできる、かなり恵まれた仕事である」と言い聞かせるようにしている。ただ、全て一人によって作られたものは、批判や客観視が不足しているだけにかなり危ない、ということも忘れちゃいけないな~ということを最近痛感することが多くなった。研究者が言うから正しい、というヤバイ無批判が結構当たり前に存在している。
文字との戦い、文字での制作、日々文字に囲まれている生活に、映画は大きな刺激を与えてくれるようになった。

今日は抜けるような空!いい天気!久しぶりに会う友人達が遊びに来る!ヤッホ~!

ジェリーフィッシュ公開です!

ジェリーフィッシュ


いよいよ今日から「ジェリーフィッシュ」公開!
天気いいな~、どこか出かけたいな~、でもどこ行こうかな~、という方、是非渋谷まで足を運んでください!今日だけの特典もいろいろありますよ!

公式サイト↓
http://www.jellyfish-movie.com/

『アラブ政治の今を読む』を読む

※かなり長いです。二回に分けるのも読みにくいので、一つにまとめました。(つづき)があった所にはその旨印をつけました。
アラブ政治の今を読むアラブ政治の今を読む
(2004/02/25)
池内 恵

商品詳細を見る

   このブログでも一度取り上げたことのある(『書物の運命』参照:)イスラーム思想史、中東地域研究を専門とする池内恵氏による単著。であるが、一つの論文ではなく、9.11事件からイラク戦争にかけて二年間にわたって新聞や雑誌で掲載された論文やコラムを集めたものなので、厚めの本でありながらどこからでも読み始める事ができる手軽さがいい。
随分前から読みたいと思っていた一冊で、2004年出版なので随分時間差なのだが、ようやく図書館から借りて読んでいる。返した後も読みたいので改めて購入して手元におきたいと強く思う。そういう本である。さらに、この本より前に出版され、度々筆者が言及している『現代アラブの社会思想-終末論とイスラーム主義』(講談社現代新書,2002)も併せて持っておくのがいいと思う。

   池内氏の文はとにかく読みやすい。まず、読書を通じて本の底流から感じられる言葉のリズム、それに、自分と社会(学会、国、国際社会等)の距離感がとても馴染みやすい、というか、何ともいえない親近感に基づく安心感がある。それは、同じ年代だからじゃないのか、という単純な理由のような気もするし、丁寧に読めば読むほど、氏の研究姿勢と丁寧な記述が自分の思い描く"目指したい研究者"の姿勢や記述に近く、目標を見つけたようなワクワク感のような気もする。いずれにしても、池内氏の文章は基本的に短く、すっきりしている。
   文字という媒体を使って何を言いたいのか、誰に言いたいのか、という研究者としての基本姿勢がしっかりしているからこそできるのだろうが、何よりこれまでの知の蓄積が相当分厚いことを各所で実感する。同年代でほぼ同じ時期に留学していた彼の文章を目にすればするほど「自分は一体これまで何をしていたのか」という恥ずかしい思いにもなるのだが、それ以上にメモしながらどんどん入り込むような思考の化学反応が激しいので、その反応を忘れないように彼の文章を引用しながら書き留めておきたい。

まず、池内氏の出発点は「まえがき」に明確に提示される:

テロ事件からイラク戦争にかけて、アラブ世界に対する関心は格段に高まった。新聞やテレビで、なんらかのかたちでアラブ世界やイスラーム教にかかわる話題を見かけない日はないといっていいほどである。しかしそれによって理解が深まったかと言えば、かなり疑問である。メディアに溢れるのは断片的な情報にとどまり、往々にして一面的な解釈が幅を利かしている。単なる現地事情の紹介を超えて、情報を取捨選択する基準と、情報を総合して判断するための枠組みや視点を提供することが、本書の目的である(まえがき,7)。

アラブやイスラームに関する情報が断片的なのは何もメディアだけにその原因があるのではなく、大きな原因は日本のアラブ・イスラーム関連の専門研究内部にある、とするところに池内氏の主張に新しさを感じる:

戦争や事件などによって中東やアラブ世界・イスラーム世界に関心が集まるたびに、日本の専門研究者が論壇に登場し「日本人はアラブ・イスラームについて無知だ」「欧米はイスラームに偏見と敵意を持っている。欧米のイスラーム報道はあてにならない」などといった批判が活発に呈されるのだが、宗教・思想・政治・経済・社会を何もかも一緒にして「アラブ」「イスラーム」なる観念的な実体を措定してきたのは、むしろ日本の専門研究者の方である。「アラブ」「イスラーム」に一方的に肯定的な属性を論じてきた点が、研究者の批判する「無知・偏見」に満ちた報道や欧米の議論と異なるところなのだろうが、価値判断が反転しただけで本質主義的な議論であることにかわりはない。「肯定的な本質主義」に沈潜した研究こそ「良心的・真摯」な営みであるという観念が研究者の間で共有され、そのような研究に対しては「感銘を受ける」といった身振りを示すことが「好ましい作法」として半ば強制されてきた(第二章「アラブ認識の視座」:56)

この日本における研究姿勢に対する指摘は本書のみならず『書物の運命』でも『現代アラブの社会思想』でも一貫している。時々覗く「極東ブログ」でもこの本を取り上げているが、その辺りの日本の言論に対する池内氏の指摘を含め「日本の知的レベルが沈没しているなかで、当たり前の知性が目立つという皮肉か」という鋭い言及をしている。参考「極東ブログ」。いずれにしてもこれまでだれも指摘しなかったことを明示したことはやはり高い評価に値するだろう。

私はアラブやイスラーム研究に身を置いたことはないのだが、氏が批判する「肯定的な本質主義」という風潮は外から見ても何となくだが分かる。それは、次のような単純な疑問を私もずっと抱いているからかもしれない。

テロ事件直後から、ずいぶん多くのアラブや中東・イスラーム世界に関する書物が出版された。(中略)けれどもそれらを読んでみても、ビン・ラーディンやザワーヒリーといったアラブ人がなぜわざわざアフガニスタンに行って銃を持って駆け回ったり、何やら指令を出して若者を自爆しに行かせたりしたのかが、よく分からないのだ。彼等の置かれた環境や歴史的経緯、特にアメリカとイスラエルの政策を中心とした国際政治上の背景というのがよく解説されるのだけれども、肝心の彼等の内面を突き動かす原動力には触れられていない。「アメリカが悪いからこうなった」と言いたげな議論も多い。主観による善悪の判定よりも、「なぜ・どのように」こんな事件が起きたかという疑問に答えて欲しいものである(48-49)。

確かに、アメリカやイスラエルを含めた地域枠組み的(国際政治的)な「紛争の原因」については活発に論じられるが、内側に目を向けているようで実は向いていないという違和感を私も持っている。これまで漠然と感じていたそのような違和感がほぐされるような感覚、これは「書物の運命」を読んでも感じるのと同様、本書を読んでも感じられる。前回ここで「書物の運命」を取り上げた際には(参照)、私の感想が主で池内氏が何を言っているのか、ということをはっきり紹介していなかったいう反省がずっとあったこともあり(コメントもあった)、私が化学反応を起こす箇所についてまずはきちんと確認しておきたい。

(つづき、と入れていたところ)

さて、イスラエル、は紛争のコンテクストでよく論じられる。特に地理的に遠い日本では紛争のコンテクストが欠かせない、と言ってもいい。じゃあ、その内側は一体どうなっているんだ?なんで紛争が終わらないんだ?という単純な疑問に応じられる議論はまだまだ十分とは言えない。そこに、つまりイスラエルの内側に迫る視点に研究者としての課題があるのではないかと私は思う。イスラエルを支持する、武力行為を肯定する、といった盲目的なシンパを意味するのではない。イスラエル、という空間では一体どんな営みがあり、どんな政策があり、何ゆえそんなことが起こっているのか、と内側に迫る基本姿勢がまだまだ求められていると思うのだ。そして、非難ではなく批判的思考、言い換えれば、イスラエルに存在する言論の舞台で対等に値する議論を組み立てることが必要ではないかと思う。批判は単なる反対を意味しない。日本語の言論でのみ受け容れられる批判はあまり意味がなく、その対象となる現場(の内側)で受け容れられなければ批判としての意味はないだろう。そうした野心を抱く私にとって『アラブ政治の今を読む』を読みながら、希望的な未来への視野、とも言える、若手研究者の姿勢として、私が刺激を受ける部分を最後に紹介したい。

『現代アラブの社会思想』が大佛次郎論壇賞に内定(結果は受賞)したことを受けて『論座』に寄稿した「地域研究は政策決定にどう貢献できるか」に手を加えた「地域研究と思想史にできること」が、「第二章:アラブ認識と視座」の最後に所収されている。池内氏の研究姿勢と今後の目標がよく伝わってくる箇所でもある。

具体的な内容については実際に手にとって読んでいただきたいのだが、基本的な地域研究と思想史の手続きの方法とその重要性については「往還する理念と現実・その対象化」に凝縮されている:

筆者はアラブ世界を対象とする地域研究を、主に思想史の切り口から行なっている。思想史という方法論もまた、極めて不安定なものである。約言すれば、思想史研究者が「理念と現実」の関係という永遠の課題にどれだけ意識的に対処できるか、そこに思想史研究の成否はかかっている(70)

そして、理念と現実について筆者は次のように説明する;

理念は何らかの意味で現実の産物である。理念は現実を何らかの意味で反映しているだろう。しかし特定の理念的体系が現実を表象する透明な媒体であるとは限らない。地域固有の理念的体系は、その地域の現実を理解する重要な手がかりである。しかし、理念的体系はその地域の現実を写し取る鏡ではなく、そのままでは地域の現実を把握する分析概念とはならない(70)

このような理念と現実の理解は、従来の思想史研究が現実よりも理念を上位におく傾向があり、そのために現実認識が曇ってしまう危険性がある、という筆者の認識に基づいている。アラブ思想には○○のような理念がある、と特定の理念の体系を紹介するのではなく、アラブ思想がアラブ諸国政治や地域政治の展開でどう作られて、それがどう政治発展に影響を与えるのか、という作業の必要性を説く。この辺りは化学反応というよりも「フムフム、なるほど」と私などはひたすら納得しながら読んでしまうのであるが、この論文のメインはあくまで「地域研究と思想史にできること」であって、筆者はさらに書き進む。

地域研究と思想史が踏むべき手順を記してきたが、このような地道な営為を通じて、日本の「論壇」というものにいかほどに貢献をなしうるのか。これは「論壇」が政治的な決定を議論を通じた選択によって行うための場、すなわち「公共空間」を提供する場という意味で機能しうるか、という問題に関わっている(72)

いわば「公共空間」の構築における「縁の下の力持ち」になることが「できること」という。このような「できること」「貢献できること」を明らかにする姿勢を目にすることで、何のために研究という仕事をするのか、という自分自身への問いに返ってくる。その時、私は今後の姿勢を考えつつ「往還する理念と現実・その対象化」に戻るのだが、さらに読み進めると、「理念と現実」の論じ方として「おお!」と反応したくなる箇所にぶつかる:

現実的な国際政治認識と選択肢の提示の必要性を論じることは、理念の力を等閑視するということではない。現在の日本では「理想主義」と「現実主義」があまりにかけ離れて理解されてはいないだろうか(73)

「フムフム」という納得を超えて、大きな化学反応をした箇所である。留学期間を経て私が得た事の一つに、現実と理想は相反するものではない、現実を理解するということは何も理想に反する行為ではなく、そもそも現実と理想を対立的には捉えられない、と感覚的ながら理解したことだった。その感覚を文字として目にしたような感覚であった。「理想主義」と「現実主義」がかけ離れている現状について筆者は述べる:

「理想主義」はイデオロギー的断定に限りなく近くなり、しかも説得力を言論を通じて示すのではなく党派的結束によって維持することを、自明視していないか。他方、「現実主義」は剥き出しのエゴイズムと同一視されたり、現状維持を旨とする官僚的な対応の積み重ねに化されていないだろうか。(中略)両者の対立は、結局のところ、冷戦時代に形成された対立構造が双方において既得権益化して硬直化し、冷戦の終焉にもかかわらず様々な理由から残存しているにすぎないだろう(74)

そして、研究者に「できること」として、「理念と現実」を現実主義と理想主義という文脈で最後に述べて筆者はこの稿を締めくくる:

真の現実主義とは、現実世界の中で理念が果たす役割を認識し、その働きを十分に考慮し、みずから理念の形成と発展に寄与してその地位を確保してゆくものではないだろうか。世界各地で沸き起こる、多種多様な理念の力を把握し、その帰結を見極めることのできる現実主義が、必要なのである。地域研究と思想史がそのような意味での現実主義に寄与する余地は大きく存在する(75)

明確な批判をしつつ、それが単なる不満に留まらず今後の改善策や方向性をきちんと示しているところに、この本を読む心地よさ、そして私が言うのも変だが「若さ」があるように思う。アラブやイスラームについては不勉強過ぎる、と自覚する私でもこの本の読書を通じて様々な化学反応を起こす。それは、何を研究するのか、ということよりも、どう研究するのか、なぜ研究するのか、という当たり前だが研究の現場からはつい見逃されている研究者としての姿勢や心構えについて真正面から発言しているからではないだろうか。そういう意味で、是非手元においておきたい一冊である。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。