漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

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90%から40%へ

ガザ境界付近からの中継と、同じ顔ぶれのテレビ解説員、とまらぬロケットの数と増え続ける死者の数、毎日はそんな風にずっと続くのではないかとさえ錯覚していたので、停戦で空気が一気に日常生活に戻り、ハッと夢から覚めたようでもある。

停戦発表直後のチャンネル10では早速独自の世論調査を発表。2月10日の選挙にはなんら大きな影響を与えず、相変わらずネタニヤフがリード。次に「今回の紛争は成功だったか?」の問いに対しては、YesとNoがそれぞれ41%。先週はYESが80%くらいを維持していたのだから劇的に変わっている。続いて、Noと答えた中では、1)ハマスがまだ軍事能力を十分残しているから、2)誘拐されている兵士はそのままだから、3)ガザの市民の犠牲者が多すぎるから、が三大理由。

戦争が終われば「そもそもなんで攻撃開始に至ったのか?」といった「そもそも論」も含め、一気に批判や議論が出るとは思っていたが、何とも分かりやすい数値だ。昨日電話してきた友人(男性)は、「今イスラエル人だ、というのは恥ずかしいぞ」とも。自己存在を否定していたわけではないけど、国際社会の空気を読めばそれが現実だ、というのは十分納得できる一言。

ラジオでは、戦争時にはみんな注意して運転するので事故が少ない、注意力が散漫になる今後は要注意とも。確かに戦時中のほうが何となく引き締まった空気はあったし、停戦となり何となく緩んだ空気が舞い込んでいる気がする。「戦後」はこんなところにもあるのか。

国際社会のニュースからは徐々にフェイドアウトなのだろうが、これからが批判と議論の始まりなのであり、その理解をなくしては今回の紛争が何であったのかも分からなければ、紛争勃発を回避することもできないかもしれないし、運転同様気を引き締めないと。
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日常感覚で、冷静に、

随分たまっていた空き瓶を近くのスーパーに返しに行くことで一日がはじまった。一本は四分の一シケル(約7円)だけど、ちりも積もれば、であるし、何より捨てなくていいのは気持ちがいい。近所のスーパーでは空き瓶とペットボトルの回収の場所があって、そこに立っているおじさんの目の前で回収用袋に「いっぽん、ニホン、、、」と入れていって、最後におじさんから本数を書いた紙切れをもらい、買い物したあとでその紙切れをレジに持っていくと、その分を引いてくれる、というシステム。今日はピタパン5枚一袋プラスアルファ分になった。いい気分である。

そのスーパーのなかに、兵士に贈り物をという趣旨のポスターが貼ってあって、イスラエルの住民から兵士へ贈り物を送ろうというキャンペーンがあった。店員の胸にも「気持ちを兵士へ」とキャンペーンスローガンのステッカーがはってある。野菜が積まれたスーパーの中を歩きながら、ああ、戦争なんだな、ということを切に実感した。この地にいると、日常と紛争の境目は時々あいまいなところがあって、そのことはこれまでも何度か経験してきたのだが、今日スーパーで感じたことは、そういうこととは違った。まだいい表現が見つからないけど、とにかく違った。戦争という響きとは正反対の空間なのに、当たり前のように戦争ということばを受け入れられている時間、その矛盾しているようでいて完結している空間と時間のバランスが今でも不思議でたまらない。

スーパーのサイトにもあった。画面右のハートが出ている赤い四角の枠がそのキャンペーン。
http://www.shufersal.co.il/supersol_he/

レバノンの時にも感じたのだけど、紛争は長引くと報道はどんどん個別の事象にフォーカスするようになって、広い視野で戦争を見れなくなる。読者も視聴者も、単純な勝敗のゲームに引き込まれていくようだ。というのは、なにもここ現地でのことではなくて、いやむしろ、外の方が傾向として強いのではないかとさえ思うときがある。

イスラエル国民91%が攻撃を支持、というタイトルはニュースになっているのだが、イスラエル国外のメディアを斜め読みしていると、「9割支持」の一人歩きの感が見えるので、その世論調査の質問文を一応は確認しておくことは必要があると思うので記しておく。

「11日前、イスラエルに対するロケット発射を阻止することを目的として、イスラエル国防軍はハマスとの闘争を開始したが、その作戦実行についてどの程度支持または反対しますか?」

すなわち、ハマスのロケット攻撃に対して武力を行使したことをどう思うか?という質問。ちなみに対象者は800名。

これまで8年間、イスラエル南部にロケットが飛んできていたにもかかわらず、安全室建設に対する政府の補助金支出が随分遅いなど、認知されずにほとんど放置されてきたという事実があった。そんなロケット攻撃に対して、軍は何度か空爆攻撃をしているが、それでもロケットは止まらなかった。12月に停戦が半年経った後、ロケット発射が増加して、放置するのか、何もしないのか、という政治的プレッシャーが高まった、その中での攻撃が始まった。

今回の戦争で、テルアビブに避難してきたり、多くの国民がすっかり南部に釘付けになったことでロケットの恐怖と言うものが随分広く認知されたことは事実だろう。私がかつて留学していた、ガザから40キロ離れた南部最大の街にまで何発も着弾するとは、さすがに多くの国民も思っていなかった。これまで気がつかなかったことへの反省、そして、気がついたら南部は結構大変なことになっている、という認識。この9割という数値は、そうした南部への意識が高まったことを強く表している。以前にも書いたが、もう一度確認しておくと、開戦前夜の世論調査では、大規模攻撃への支持は48%で、反対は44%だった。

当たり前のことであるが、9割の人が、女性子どもを犠牲にしてでも攻撃すればいい、と言っているのではない。

「イスラエル兵」へのミクロ視点

前線に向かう兵士の新聞の写真や、テレビ映像を見るとき、私が最近関心を持ってみていることがある。普段あまり知り合うことのない、エチオピア出身のイスラエル人や、アラブ系のイスラエル人、それに宗教的に敬虔な人たちが随分多いからだ。

南部の街ベエルシェバではよく目にしたエチオピア出身のイスラエル人は、テルアビブのど真ん中ではなかなか目にしない。エチオピア系は住宅事情や職業の関係で、地方に多いのだな、ということを改めて理解しているのだが、前線に向かう兵士の中にそのエチオピア系イスラエル人が結構いるのだ。「軍隊は人種差別がないから」と積極的に、しかも前線を希望するエチオピア出身の若者が多いのだが、ガザ地上戦に向かう兵士の映像はその傾向をきれいに証明している。

もう一つ、頭にキッパをつけた司令官、祈祷をする兵士が多い。これはイスラエル兵の特徴、でもあるのだろうが、特にその割合が増加しているのはここ最近の特徴だ。今日盛んにテレビで流れていた負傷した兵士の姿や、家族の言葉や髪の毛や全身を覆うような服装にも、宗教的な特徴があるので、やっぱりそうなのかと一人納得する。「短時間しか従軍できず申し訳ない」と発する負傷した兵士の言葉も、宗教的に「この地」を守ることを強く信じているのだからまあそうだろうな、と思う。

ちなみに、ガザからの情報が限定的になる一方、ロケット被害にあった南部住民のインタビューに随分多くの時間が割かれるようになった(かなりワイドショー化している)。しかし、これまで南部の住民は、ガザからロケットが飛んできたのに安全室やシェルターなど国による治安対策が何年もおろそかにされてきた。それが戦争になって国の視点が一気に南に集中するようになった。ごくごく自然で当たり前のことなんだろうけど、どうもその劇的で露骨な変化に私はついていけていない。

新聞を入手するタイミングを逸し、30日の一面紹介はできないので、手短に。

先ほどこのアパートのメンテナンスをしているボアズから、今すぐ近くにいるから家に行くけどいいか?と電話が入る。冬になり、暖房が必要になってつけてみると暖かい空気が出なかったり、雨が降るようになって初めて発見できた雨漏りがあったり、洗濯物が乾かないので乾燥機を使おうと思ったら排気口が接続されてなくて壁にはドカンと穴があいてあるのを発見したり、まあ「いわゆる冬の問題」が諸々あるので頼むよ、と先日電話してたのだが、まずは自分の目で見てみたいというので急遽朝8時半ころやってきた。

暖房はリモコンの操作を変えたら暖かな空気が出たので解決、雨漏りは原因を発見、乾燥機の排気口と壁をパイプでつなげることはできなかったものの、とりあえずそのままだけど雨は入らないので大丈夫だろうという判断、と一応諸問題は解決?した。

帰りがけ、「それにしてもさ、オルメルトは二年半で二回の戦争だぞ。(軍人出身の)ラビンもバラクでもなくて、(弁護士出身の)オルメルトが二回だぞ。しかも事態は見ての通り」ともらした。

昨日のテレビを見ていても、政治家は一体どうしたいと言うのか、何が目的なのか、即刻ひいたほうがいいんじゃないのか、という質問に対して、軍関係者が予定通り展開している、進展していると対応するなど、そもそもこの作戦が正しいのか?というムードが漂いつつある。南部の静けさをもたらすのだ、といっても、ロケットは飛び続けているし、距離も伸びている。

一方テレビのニュースとしては、ロケット被害の映像が多く、直接被害に会った人の話、警戒地域内でも「自営業だから休むわけには行かない」と平静を装う人、「ここでは警報がなくて楽しい」と言うテルアビブなどに疎開してきた子どもの話、シェルターや安全室がディスコや倉庫になっていて使い物にならないといった内容が多い。ガザにはメディアが入っていないということもあって、ニュースの「素材」がないのだろう。時に病院やパレスチナ人記者のレポートが入る程度では、ガザの様子はよく分からない。

今頃(31日10時)閣議で今後の展開を議論しているんだろうけど、昨日の新聞でも戦争は終わりを見極めないとひどいことになる調の内容がハアレツなどには多く、大臣の中にも「地上に入ってどうするんだ」と明言している人もいるし、目的があいまいなことが明らかで、第二次レバノン戦争の反省をふまえてどんな結論を導くのかを注意したい。

12月29日の一面です

昨日、予備役召集の閣議決定がされたので、何人かの友人に「召集されてないよな?」と確認の電話をした。イスラエルは男女とも18歳からそれぞれ3,2年の徴兵期間があって、その後男性は約40歳まで一年間に約35日位は予備役兵として軍に召集される。今回閣議決定された予備役の召集は、その通常予備役とは別に国家が緊急時に召集するものでツァヴ・シモネ(8指令)というより拘束性があるもの。

召集予定者は6700人とも言われているので、友人たちも呼ばれているのではないかと心配したのだが、「まだ今のところここにいるよ」「今メシ食っているところだけど、俺はまだ市民だ」と友人のところには声がかかっていなかった。

以前大学で教えていた時、ある学生がツァヴ・シモネで召集されて試験日に来れないのだけどどうしたらいいか、との相談を受けたことがあった。初めてのことで他の先生と相談し、後日レポート提出するということで穴埋めをすることにした。約一ヵ月後、いつも通りの学生の顔してキャンパスに戻ってきたその学生が数日後に何事もなかったのごとくレポートを提出したのだった。

さて、今日の一面。
ちなみに、報道全体としては、死者やロケット着弾数に加えて、そもそもこの攻撃の最終目標は何なのか、地上戦とは言っても何が目標なのか、ロケット発射停止で十分?それともハマス転覆?それは可能なのか?という議論が徐々に聞こえるようになってきた。大規模作戦開始から三日が経過すると、世論も「来るべき時がきた」という政府説明同調のムードから徐々に離れつつある。誰もが第二次レバノン戦争を引き合いに出すが、これからどうなる?という声は、未だに一日約60発のロケットが着弾している現状をみれば当然だろう。ちなみに、今日は二名(一名はアラブ系イスラエル人)が犠牲になっている。
ということで、紛争時には情報がどんどん古くなるとはいえ、今朝の一面、と思ったのに写真のアップに不具合があるようでできないので、ひとまず文字情報を。


ハアレツ
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写真:ガザ付近で待機する戦車と兵士
大見出し:イスラエル国防軍地上軍をガザ境界に集結;政府は数千人の予備役召集を承認
小見出し:初:アシュドッド周辺(注:ガザから40キロ)にロケット着弾、国防軍はベエルシェバ、ヤブネ住民にロケット攻撃への準備を指示●現時点でパレスチナ人約300名が殺害●政治界は作戦拡大に足踏み

イェディオット・アハロノット
Yediot081229.jpg
写真:トンネル破壊で上がる煙、左の小さな写真:(ロケット攻撃から守るために各世帯に設置されている)防御ルームで遊ぶ子ども
大見出し:トンネル破壊(注、エジプトからガザに相当数の密輸トンネルがある)
小見出し:昨日、空軍はハマスの「酸素チューブ」(ガザへの武器密輸トンネルの比喩)を4分間で破壊した;武器密輸の40トンネル●数千人の予備役兵が召集、地上軍はガザ突入に集結●脅威の範囲が拡大:本日ベエルシェバ市民にロケット攻撃の対処方法を指導
なお、ページ上部の赤見出しは、2006年にハマスに拉致されて現在もガザにいるとされるイスラエル兵士が今回の空爆で負傷したとの情報がエジプトで報じられたというもの。結果その情報は誤報であったことが分かったが、この兵士を釈放せよとの政府に対する声は強く発せられている。万一彼に何かが起これば大きな事態の転換点となる。

マアリヴ
Maariv081229.jpg
写真:ガザ境界付近の兵士
大見出し:指令準備完了
小見出し:地上作戦、政府は6800名の予備役兵召集を承認。アシュドッドが戦火、ロケット2発がアシュドッド付近に着弾、ガン・ヤブネにも一発。トンネル爆破、武器密輸トンネル40が破壊
なお、ページ下部は、ロケット攻撃下に晒される南部住民が以北に一時避難できるように支援しているNPOに関する広告。避難を希望する南部在住の住民、また、避難する住民の受入れを希望する国内中央部の住民の仲介をしているようです。

三つの祭の祭の写真アップ

先日エントリーした、三つの祭の祭りの写真が船長ブログにアップされたので、そちらも是非。
やっぱり写真でしか伝えられない空気が感じられると思います。

12月28日今日の一面

今や現地で何が起こっているのか、ということはインターネットで新聞、ラジオから日本でもそのまま同じ情報を得ることができる。しかし、その情報がどう人々の口を伝わっているのか、どう耳に入るのか、また、どう目に入るのか、というのは、やっぱりこの場にいないとわからない。特に新聞のレイアウトというのはネット新聞では伝えられない、情報を伝えようとする人の息吹みたいなものを感じることができる。

ということで、私は新聞記者でもないので、情報を伝えるというよりも、情報がどう伝わっているのかをイスラエルの新聞の一面を紹介するということで。日本の新聞がどの辺りを伝えているのかも感じ取れるかもしれません。

ちなみに、英語版のあるサイトは以下の通りです。
ハアレツ紙
Ynet(イェディオット・アハロノット)
また、NHKのような国営のニュースはこちら

以下一面です。新聞をクリックすると大きくなります。

Haaretz
ハアレツ(内容読者層共に左派的とされていて、見かけが高級な新聞であえて買うならこれを選ぶ)
大見出し:国防軍ハマスに対し奇襲攻撃:1967年以来最大の空爆で約100箇所の攻撃対象が崩壊
小見出し:80機がガザを攻撃、少なくともパレスチナ人225名が殺害。報復としてロケット65発が着弾、ネティボットで一名殺害。バラク国防相:今は闘う時であり、作戦はしばらく継続する:ハマス:降伏しない。
写真:ガザの空爆現場

Yediot
イェディオット・アハロノット(発行部数最大の大衆紙で、私には比較的ヘブライ語が読みやすい)
写真:ガザの空爆現場、左下の小さい枠はロケットにおびえるイスラエル人の子ども
左上の地図:ガザからのロケット射程距離(我が家はずっと離れているのでご安心を)
赤の見出し:イスラエル人50万人が戦火
上の小見出し:ガザに奇襲攻撃:ハマス驚愕、パレスチナ人225名殺害●緊迫する中、ネティボット住民一名殺害●国防軍地上戦突入の体制:"これは始まりに過ぎない"


maariv
マアリヴ(イェディオットよりも一歩踏み込んで丁寧な記事が多い点が気に入ってます)
写真:ガザ空爆現場、右上の小さい枠はロケット弾によるイスラエル人犠牲者
赤の大見出し:戦争の返答
下の小見出し:的確な諜報■見誤った行為■そして準備を整えていないハマスに対する空爆■「Cast Lead」作戦開始:ガザ全域における(ハマス)幹部への爆発でパレスチナ人225名殺害■イスラエル南部にロケット50発着弾、

「三つの祭り」の祭り

毎週金曜日発行される映画やお勧めレストランなどの情報が満載の週刊情報誌(テルアビブ版「ぴあ」)をめくっていると、「三つの祭り」の祭りがヤッフォであるというので家族三人で出かけることにした。三つの祭り、とはユダヤ教のハヌカ、キリスト教のクリスマス、そしてイスラム教の犠牲祭。犠牲祭は二週間くらい前に終わっているけど、ハヌカは真っ最中、クリスマスも24日を皮切りに継続中(ロシア正教は1月1日なので)、ということで、三大宗教の祭りを一気に祝おうというもの。祭りが三つ、とは、盆と正月なんかよりも賑やかで楽しそうだ。

ヤッフォは行政上はテルアビブの一部であるものの、アラブ人の街で、イスラム教徒とキリスト教徒から成る。きれいな教会もあれば、モスクもある。ここから車で20分くらいなのに、ビーチや若者が集まるカフェが醸し出す"かる~い"空気のテルアビブとは全く違う異国ムード漂う魅力ある街がヤッフォ。我が家がイスラエルに到着直後から二ヶ月間滞在した思い出の地でもあり、雨も上がり少し日差しも見えたのでミニドライブ気分で出かけた。

ヤッフォのメインストリートが約1キロくらい歩行者天国になり、横にはとうもろこしや綿菓子が並んでいたり、デザイナーがアクセサリーを並べた露天などがあったり、その真ん中をかなりの人が繰り出していて、ムードはフェスティバル!三つの祭り、とはいっても、基本はサンタクロースで、ハヌカの象徴のキャンドルもスフガニヤ(ドーナツ)もなければ、犠牲祭のムードもないので、我が家としては遅くちょっと変わったクリスマスとなったが、想像以上の人と垢抜けたムードで楽しかった。

ヤッフォに出かける直前にガザ空爆のニュースが飛び込む。先週かなりのロケットがガザから発射されイスラエル側に着弾していて、止めなければ攻撃する(そういう繰り返しはこれまで何度もあった)、とのメッセージが政府の中から出ていたので、軍事作戦は時間の問題だとは思ったものの、安息日のしかもこれほどまでの規模はかなり驚いた、というのは私だけではなく社会全体的な反応だと思う。今はハヌカで学校が休みなのだが、家にいてもロケットが飛んできて耐えられない、というガザ周辺に住むイスラエル南部からの訴えは、テルアビブで生活しているとブラウン管越しでしか聞こえないのが正直なところ。ここはロケット砲とも空爆とも無縁の生活が流れている。そういう背景での軍事攻撃に、果たしてどれだけの国民が支持するのだろうか。ちなみに、昨日新聞に出ていた世論調査では大規模攻撃反対が46%で、賛成は40%だった。

テレビのニュースを一通り見ていたが、ガザの惨劇の様子が流れ、ガザからロケットが着弾する街から中継レポートがあり(ヘルメットをつけるわけでもなく)、スタジオではテロ専門家、元軍人、国会議員などがインタビューを受けて状況を説明する、というのが主な構成。こんな時には、どんな報道をするのか興味がある。ほんの一例。キャスターはスタジオに来たゲストにストレートな質問を投げかける。「これほどの規模での攻撃は国際社会からの非難は免れない、それを承知の上での攻撃なのか?」と国会議員に問い、「ロケットを打ち込まれ続け危険に晒された国民を放っておける国はないわけであり、当然国際社会からも理解されるだろう」と議員が答えれば、「でも、実際に国際社会からはすでに厳しい声が上がっているではないですか」「(国際社会の理解を得られるなどと)願いたいものです」とピリリと切り返し、すぐに現場にカメラが移動する。もう一つ、お、と思ったのは、第二次レバノン戦争との比較(改善点)に触れることが結構多かったこと。

夜は放送がないので、明日の朝は6時半からニュース再開。(選挙を2月10日に控えた)タイミング、目的、作戦の期間、ロケット阻止の他の手段、その辺りの議論が中心になるような気がします。

"イスラエル"について学べる一冊

イスラエルを取り扱った著書が数ある中で、実際にイスラエルの内部に視線を向け、研究者としての落ち着いた姿勢で丁寧に論じたものは実はあまり多くない。そんな中で、やっぱりこの本は勉強になるな、という一冊は池田明史編『イスラエル国家の諸問題』アジア経済研究所(1994)。

タイトルの通り、国家としてのイスラエルで確認できる多様な事象を政治、紛争(対パレスチナ)、歴史、文化、宗教の各専門家が具体的事例をひきながら、また歴史的事実を丁寧にほぐしながら冷静に論じる。出版は1994年でありながら14年が経過した現在でも十分参考になるほど、その質が高い。特に、なぜ「イスラエル国家の諸問題」なのか、を論じた池田氏の序論は、イスラエルを研究する上で求められる基礎的な知識と視線を丁寧にまとめているので必読だ。

エルサレムの帰属問題や和平交渉の問題など、ほとんど変わっていないな~or後退しているな~と思ったり、また、正式な交渉相手としてのPLOと交渉しないハマスというパレスチナのねじれの現実から見れば、オスロ合意直後に書かれた記述は新鮮に見えたり、いずれにしても今読んでも十分学べるこの本はありがたい。

ただ、イスラエル、パレスチナ、その周辺を巡る現実はやっぱり大きく変わっているのであって、その変化に準じた著作はやっぱりあってもいいだろうと思う。『イスラエル国家の諸問題』が参考になるのは、その変化に応じた新しい研究成果が日本語でまとまっていないから、とも言えるわけで、、、がんばるしかない。

イスラエル国家の諸問題イスラエル国家の諸問題
(1994/03/07)
池田 明史

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アモス・ギタイ『ラシュミア谷の人々―この二十年』鑑賞後感

日本をはじめ海外ではイスラエル映画の巨匠=アモス・ギタイ、なのだがイスラエル国内ではそこまでの評価も認知度もない。私も「キプールの記憶」(2000)「アリラ」(2003)「撤退」(2006)「ケドマ」(2002)と観た限り全然ピンと来なくて、イスラエル国内のその評価は理解できる、という立場でこのブログでも何度か触れた(参考1 参考2 参考3)。ただ、こうしてブログで語る限り、巨匠と呼ばれている監督の作品を論じるには観ている作品は限られていて単なる「アンチ」みたいでよくないな、という反省の気持ちもあり、また少しでもいいと思える作品に出会いたい強い思いもあった。そこで友人に相談して「これはいいかも」と手渡された『ラシュミア谷の人々―この二十年(Wadi Grand Canyon 1981-1991-2001)』(2001)、これがよかった!

まず、この映画にはアモス・ギタイの「俺の言いたいこと聞いてくれ!」というエゴが見えない。これまで私が観た映画はそれが邪魔でしょうがなかったのだが、『ラシュミア~』にはそれがない、それがいいのだ。うるさくない映像、語られる言葉の一つ一つ、映画を観ながらドンドンとその人物に入り込む。イスラエル北部の都市ハイファのラシュミア谷という同じ地点を1981年、1991年と定点観測の映像を基にしたドキュメンタリーだが、定点観測ならではの時間の流れを人の表情、また発せられる言葉から感じられるところに、ギタイ監督のエネルギーと姿勢、そして映画の魅力を感じた。そして主人公はあくまで登場する人々、その人々が私の目を掴んで離さなかった。

イスラエルはいつ、どこで、誰に話を聞くかで全くと言っていいほど表情が違う。多様性や複合性といった表現でも収まりきらないような、社会のダイナミックさが、その地にかかわるものの面白さでも、難しさでもあると私は常々感じるのだが、『ラシュミア~』は映像も言葉もシンプルで静かでありながら、その面白さと難しさを感じさせてくれる。あえて言えば最後の「おまけ」のようなロシア人移民の部分は要らないと思うのだが、加えた理由をギタイ氏に聞いてみたい箇所でもある。

まずは、アモスギタイ監督作品で「これはいい!」と思える作品に出会えて、少しホッとした。ただ、よく考えると「これはいい!」という私のツボもいつも同じだな、というツボの狭さを痛感した映画でもあった。他人が創った作品を鑑賞して語るのならば、受け容れるツボを拡げる訓練をしたほうがいい、これは映画鑑賞に限らずこれからの課題になりそうだ。

さて、昨日、映画雑誌『Cut』2008年3月号が郵送されてきた。来月公開予定の『ジェリーフィッシュ』のインタビューが2Pにわたって掲載されているのだが、エトガーケレット監督の言葉ほぼノーカットと言えるくらい詳細に掲載されていて嬉しかった。細かい表現の一つ一つ、通訳者としての密かな満足でもある。現在発売中です!

「自分に正直でいる」研究姿勢

読むペースが上がってきて、頭の中のムクムクも随分と活発になってきた。Thesisを最初に決めることの大切さ、それは頭の中がムクムクで一杯になった時に実感する。目の前がムクムクしたもので満ちてくると先が見えない不安に陥る、その時に立ち戻れる一言があるかないか、これは随分大きな違いだ。今回はそれがある、シンプルなそれがあるのがいいペースを保っているエネルギーだ。

最近関心があるのは日本におけるイスラエル研究。イスラエル研究と呼べるほど確立したものはなく、中東研究という巨大な枠の中でこじんまり存在しているのだが、かたやイスラエルについての議論となるととても"こじんまり"ではなく、巨大。でも、日本においてイスラエルについて足を(首も)突っ込んで研究している先生方を見ると何と少ないことか。そういう先生方の仕事がきちんと評価されることもあれば、されないこともある。

研究をする限り評価される成果を出したい。ただ、評価されたい、と大勢の目ばかり考えて作業すると現場から離れていき日本における議論という全く現場とかけ離れた独りよがりの議論に陥りやすい。ただでさえ遠い地のこと、評価など抜きで現場に冷静に密着する視線、そんな大学の授業の概論で聞くような当たり前のことが、実はイスラエル研究で求められているのだな、ということを最近ヒシヒシと感じる。

昨年出会った映画監督2人から学んだこと。創作活動において目指すのは「自分に正直でいること」。それは研究活動においても共通する重要な姿勢、それを何となくだが感じつつある。このムクムクしたものがどこからやってきて、そのムクムクの何を形にするのか、なぜそれを形にするのか、そしてそれを誰に向けて発するのか、そうしたごちゃごちゃのプロセスを丁寧に一つずつ一つずつ自分と向き合いながら、一つのシンプルな出発点は見失わずにすすめていきたい。

こんな抽象的な表現ばかりで申し訳ないのですが、今はまだムクムクの段階なので。それを形にする時にはきちんと署名原稿として責任の所在を明記して発表します。

「ガーダ」鑑賞後感想

偶然ビデオ屋で「ガーダ」を目にして、「お、これか、見てみるか」と借りてきた。「お、これか」とすぐに反応するほど随分この映画に関する広告や記事を目にした。PRはすごい。

映画は1993年頃から2000年頃にかけてガザで取材したテープを元にしている。私は1992-1993、1999-2003とイスラエルに滞在し、1996年から毎年一ヶ月位は滞在して、ほぼ同時期私はその「反対側」にいたことになるので、「どんな映像があるんだろうか」と同じ時期を過ごした者としての関心があった。

「ガーダ」というのは監督の古居みずえ氏が個人的に親しくなったパレスチナ人女性で、結婚前の葛藤や出産の場面と映画の「主人公」として登場するのだが、その辺りの「接近力」、そして女性だからこそできる信頼関係はかなりすごい。注ぎ込んだ時間とエネルギーがよく伝わってくる。また、副題にもなっている「パレスチナの歌」が後半に向けて頻繁に出てくるのだが、これは音色といい、歌詞といい素晴らしい、資料としてもかなり貴重ではないかと思う。

そうした素材の一つ一つは素晴らしい。ただ、全体的な構成については「ジャーナリズム」を主張する映画であるならば、きちんと広い視野での捉え方や補足が必要だろう。

映画の中にイスラエル軍とゲリラとの銃声の中家の中に閉じこもる家族の場面があるのだが、なぜ突然銃声が聞こえなければならないのか、また、またなぜイスラエル軍戦車が出てくるのか、その説明が全くない。「紛争の現場」を描くならば、イスラエル側で起こったテロを一言でも補足しなければ、イスラエル軍の行動とガザの関係は成立しない。

いろいろと刺激を受けながら、映画を見終わって一番に感じたことは「同じだな」というとてもシンプルなこと。銃声が続く中でも、日常生活を続けようとする姿、そして「私たちは戦争中でも普通の生活するんだよ」という声、これは同じ時期に私がイスラエルで滞在した時に全く同じ体験をしている。この映画には出てこない反対側のイスラエルでも、テロが続いても日常生活を淡々と進め、「嘆いてばかりでは日常生活ができない、自分たちは学生として勉強するんだよ」という声、全て同じである。そういう態度や心境こそ紛争の現場の空気じゃないかとさえ私には思う。そして「私たちは平和な生活がしたいだけ」という一言、全く同じ言葉をイスラエルでも頻繁に耳にする。

おそらくこの映画を観た方はそういう私にとっては当たり前のことが不思議に思うかもしれない、紛争の地を強調するのであればそういう当たり前の空気が補足されてもいいと思ったので、あえて。
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