漂流博士

仕事は仕事、人生は違うところにある。

   OLD »

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ガーナの甲子園でカストロ前議長90歳祝い!?

ガーナに甲子園がある。
ガーナにもそれなりの野球小僧がいるので、2年前日本の支援で球場を整備した、その名が「ガーナ甲子園」。

土曜日、久々に体を動かそうと、ユニフォームに着替えて練習に向かった。土曜日午前中であれば若者が練習している時間だ。
球場に到着すると、なにやら賑やか。テントと折りたたみ椅子の即席スタンドもあるぞ。バックネット裏のフェンスにはガーナの国旗、ん?キューバの国旗も?!
聞けば「カストロ前議長の90歳祝福記念試合」なんだそうだ。

ガーナとキューバの関係は実は深い。
ガーナ国内の医療関係者の多くがキューバ留学経験者、人物交流が盛んなのだ。
普段はあまり見かけないガーナ野球ベテラン組が大勢いる、実は彼らの中にもキューバ経験者が大勢いるんだそうだ。ガーナと野球の接点は実はキューバなのか。

記念試合は、ガーナ若手チームvsガーナ在住キューバ人とキューバ留学経験ガーナ人、そして日本人の混合チーム
急遽僕もキューバのチームでプレーすることになった。

練習だけのつもりだったのに、キューバ人と野球するなんて感無量。
しかも、ガーナ甲子園!う〜ん、気持ちいい!!
cubaatkoshien
スポンサーサイト

ストレッチ

骨折から回復、日常生活を送る上では100%、マラソンや野球をする上では95%の状態。残り5%は、3ヶ月近く動かさなかったために硬直したアキレス腱周辺の筋肉。ストレッチしかない、フーッと伸ばして筋肉に語りかけるように、「そう、怖がらないで、もっと伸びるから。」。これを続けるしかない、でも続ければ何とかなる。

書くこと。それも、遠ざかると硬直する。脳では常に何かを考えている。いざキーボードの前に座ると、脳から指への信号が全くいかない。
おかしい、書きたいことはあんなにあったのに。
流れるような文章、完璧な導入と、ハラハラする展開、、、。どれも結局は頭の中だけの妄想だと激痛を伴いながら納得する。

フーッと、脳から出てくる言葉ともならない言葉を、指でつかめるように神経を集中させる。書かなくても日常生活は送れる、でも書くことでしか味わえない生きている実感や手応えがある。書くためには、書き続けるしかない、でも続ければなんとかなる。

人生初の骨折

リベリアの首都Monroviaから車で12時間、リベリアとコートジボワールの国境に近い茂みの中。そこで実施中の農村開発のプロジェクトサイトに向かって歩いている時、足元を取られ、足首から「パキパキ!」といい音が。何もない、気のせいだと言い聞かせて歩いたけど痛みは止まらない。運動不足の中年が子どもの運動会で無理をして走ったら、ものすごい音がしてアキレス腱が切れた、という話を思い出す。すぐに、自分とは関係ないと言い聞かせる。

13年前まで続いた内戦で村民が逃げていなくなっていた、という近くの村に病院などあるはずもなく、車で2時間ほど行った宿泊拠点Zweduruという町にも病院はない。森の中を抜けてZweduruに向かうまでも、またZweduruからも道は凸凹の赤土の道。舗装された道路に行くまでも8時間はかかる。8時間行ったところで信頼の置ける医者は、まあいない。同行していた人たちに「折れたかもしれない、足が痛くて歩けない」と言うにはあまりにも条件が厳しすぎる現場。結局「大丈夫、歩けるし」そう自分に言い聞かせて森の中を歩き、用事を済ませて何とかZweduruまで到着。

でも、痛みも腫れも引かないので、もうしょうがないと思い同行していたスタッフに告白。リベリアにはまだPKOが展開中で、ZweduruにもPKOの部隊があり、そこに中国のクリニックがあるというのでそこに向かう。中国人男性の医者1名と女性看護師4名くらいがクリニックに。もう閉院間際だったのか和やかに話をしている医師と看護師。看護師の一人が、「あら?」と僕の存在に気がついて「どうしたの?」と聞くので、立ったままの状態で、足をひねって痛いんだけどと伝える。「足首動かせる?」というので、頑張って動かす。そこで動かせないとなったら「おおごと」になるんじゃないかと思ってそこは我慢してグリグリ動かすと、「動かせるなら骨は大丈夫、これ塗っておきなさい」と炎症を止めるクリームをもらう。骨が大丈夫!ということで安心、それにそこにいた中国人女性の看護師が優しく輝いて見えたので思わず両手で握手「謝謝」。

クリニックをでて食事(国連職員専用食堂、それくらいしか食べられるところがないから)に向かい、食事が終わって歩こうとしたら予想以上に痛い。宿に戻る頃には片足でジャンプするのが精一杯。困った。それにそこはシャワーが出ないから、バケツにお湯を入れてもらうバケツシャワー。この足でバケツシャワーはかなり過酷。座り込み、お湯を浴びる、格好からしてもまさに修行。水で濡らしたタオルを足首に巻いて、10分おきに体の角度を変えながら痛くない体制を探しながら寝るものの痛くてなかなか寝れない。しょうがない。

翌日は首都Monroviaまでの移動、といっても舗装されていないオフロード6時間、舗装された道路で4時間の10時間。なので朝6時に宿を出発。オフロードなので車が揺れる、揺れるたびに足がズキズキ痛むので、ハンカチでかかとを覆い、左手でハンカチを引っ張ると比較的マシなことを発見。それでも大きな凸凹を通過する時には思わず「イテテ」と口から出てしまう、そんな6時間移動。途中で食べた焼きプランテーンがおいしくて一瞬気がまぎれる。舗装された道路に出た時の瞬間、それは本当に天国のよう、車が動いても足に響かない、これは楽だ。あと4時間で首都に着く、だんだんと首都に近づいていると思うと、もう痛くないと思い込むのはやめて、クリニックに行ってちゃんとみてもらおうと思うようになってきた。Monroviaは内戦の傷があちこちにあるし、まだまだ発展途上だけど、コートジボワール国境近くの村からしたら大都会、きっとそこに行けばちゃんと見てもらえると思うと気分も楽に。

夜7時Monrovia到着。以前、出張中の万一の際に使える医療機関を確認しておこう、と同僚と見学したそのクリニックに足を運ぶ。エボラで壊滅的になったところにやってきたその外資系クリニックは結構こぎれいなので気分は落ち着く。参考用に、と以前撮影したベッドに自分が横になる、全く想像していなかった光景だ。医者は南アフリカとドイツといったか、2名ちゃんとした感じの医者がいたので正直に事情を説明。

小型レントゲンで痛いところを撮影。無口の医者が、リベリア人のスタッフにレントゲンの位置を指で支持する。無言のまま部屋を出て、電気が消えてパシャリ。パソコンにつないで3分後に現れる画像を見て、ちょっと眉間にしわを寄せながら「もう一枚」と痛い場所を真上にした角度で再度撮影。それを3回、足の骨が3枚パソコンに現れる。先生は何度も写真を見比べては時折じっと一箇所を睨み続ける、何もないことを切に願う。「ここだな」、もう一人の医師もやってきて、「これはCrack、間違いない」、くるぶしに亀裂を発見。真横にきれいにはいった線が確かに見えた。骨か、、、。がっかりしたけど、それだけで、というのも靭帯とかアキレス腱とかそういう厄介なものじゃなさそうだということで少し安心。と同時に、人生初の骨折か、とあまり想像していなかった事実がドンと目の前に突き出されて戸惑った。あの瞬間ちゃんと下を見ていれば、いや、ゆっくり歩いてさえいれば、とかすっかり遠くになったコートジボワール国境付近の現場を思い出しながら、してもしょうがない後悔が湧いては消えた。

アクラに戻り(飛行機のタラップの昇降がこれまた痛かった!)、月曜日に整形外科医のいるクリニックで再診療。改めてレントゲンを撮り、同じ場所に亀裂(いわゆる骨折線)を発見。でも、幸いに亀裂が真横であること、亀裂がかなり下の方で負担が小さいこともあり、ギブスはせず、サポーターのような固定器具で固定すれば大丈夫との診断が下された。といっても、その器具はクリニックでも、その近くでも販売していないので、翌日車で30分ほどかけて買いに行くことに。器具をつけたとしても痛くて歩きにくいから、松葉杖を貸して欲しい、とクリニックに頼んで貸してくれたのはいいんだけど長すぎて、脇にいれても全く歩けないので丁寧に返却。それなら、とアクラでは普通に市内で見かける道端の木工職人に頼んだらいいんじゃないか、ということでクリニックの帰りに以前本棚を頼んだことのあるおじさんのところに立ち寄り、「つくれる?」と聞いてみる。つくれるらしいので早速オーダー。それで、地面から脇、地面から握る場所までの長さを図り、オーダーメイド松葉杖を作ってもらった。

人生初の骨折、この広い地球上でおそらくアクセスが最も厳しいあんなところでこんなことになるとは。でも、まあこの程度でよかった。リベリアでは、ある国連機関の代表から「自分もアキレス腱切った時大変だった。痛い時は「Deep Heat」というスプレーがよかったから是非使えばいい」と瞬間冷却スプレーをもらったり、足をひきづってアクラに戻ってきた時には、同僚が引越しで使ったという段ボールを持ってきて、それを看護師資格を持った友人、学校の保健の先生だったという友人、それに周りにいた子供たちの大勢が痛い足首を固定してくれたり、もういろいろな人の助けを受けて、それは本当に嬉しかった。現場はとてつもなく遠く、それに出張先で一人ホテルで過ごした痛かった夜が心細かったのでそういう暖かさは素直に心に沁みた。

アクラに来て2年半。リベリアから戻り家族の顔を見て、家のベッドに横になって「あ〜家に帰ってきたんだな〜、我が家は一番いいな〜」としみじみと実感。茂みの中で足元から響いた音も、Monroviaまでの長い長い道中も忘れないけど、この2年半でガーナにも我が家と呼べる安心できる空間ができたことを幸せに思いながら眠りについたその夜のこともきっと忘れない。

水泳のある人生

最後のブログを書いた一週間後のこと、というのは今から1年と一ヶ月前。いつものようにテルアビブの海岸沿いを走り、7キロ付近を過ぎたあたりで右足のふくらはぎがつっぱり走れなくなった。急に痛くなったのだ。あまりにショックで、トボトボと家に帰ってもその痛みが取れない日々が続いた。

順調に準備を進めていたはずの第3回目のフルマラソンは結局あきらめざるを得なかった。その右足の痛みは、時にモモの裏にきたり、時に膝の裏に来たり、結局痛みは消えることなく、最後まで諦め切れなかったけど諦めざるを得なかった。目の前のことだけを我慢して一生走れなくなるよりも、70歳になっても、80歳になっても走れることのほうが大事だと思っての決断は、僕なりに大人の決断だった。

それから1年以上が経過し、僕等は住み慣れたテルアビブを離れ、日本に帰国して新たな生活を始め、すでに4ヶ月あまりが経過しようとしている。未だその痛みというか右足の変な感覚がすっきりしないまま、長距離を走ることもできず「あ~またマラソン走りたい」と思いつつも時間だけが経過する。振り返れば、マラソンで痛くなるのはいつも左足であって、右足は全くのノーマークだった。今や左足は消しゴムでその痛みをきれいに消したように何も無くて、右足だけにマラソンの足跡のようなものが残っている。

マラソンの代わり、、、と言うわけではないけれども帰国してから今日まで、ほぼ毎日プールに通い、水泳が生活にとって欠かせないものとなっている。

これは僕の中ではかなりの驚きなのだ。なんと言ってもこれまで平泳ぎしかできず、それだって成人になって独自で身につけたものに過ぎない。地元の小学校にプールはなく、中学校でもプールはなく、水泳授業というものを経験したことがなく、結局泳ぎを習う機会が無いままに大人になってしまったのだ。それだけに、泳ぎというものに対する不動のコンプレックスがあって、僕の人生にとって水泳という存在は疎遠のものであって、近づかなくてもいいものでもあった。

ところが、である。今では、毎日夕方にプールに行き、ゴーグルをつけてクロールで25Mを何本か泳ぐという日々を送り、泳がないと「なんか物足りないな」と体が疼くのだ。日本に行ったら水泳をやろう!とか、「絶対クロールを泳ごう!」と決断してプール通いを始めたのではないのに、プール通いは日課となり、泳ぎが生活に密着した。これは僕の人生にとって革命的な変化だ。といっても全然大げさなことではない位に大きな変化だ。

日本に帰国し、進路も決まらない不安な日々の中で、近所のプールに家族で通うことだけは毎日続けることとして日々の日課になっていった。帰国して、失業状態となり、求職手続きなどを進めていくと、帰国前には想像もしなかったプレッシャーや怖さを感じることが多くなった。社会はドンドンと遠ざかり、それでも時間は僕の存在など目もくれずにドンドンと流れていく。そんなことを感じることは初めてだった。そんなつかみどころの無い日々の中で、プールに通い、そこにきているおじさんたちに指導されて、全く泳げなかったクロールが徐々に泳げるようになるということは、「あ、前に進んでいる」と僅かに実感できる貴重な貴重な時間になった。そのうち徐々に「泳げるようになりたい」と真剣に思うようになったけど、最初はとにかく決まった時間にプールに行くという行為が多くの支えとなってくれた。

今日は週一回の休館日。体が疼く。少しでもきれいな泳ぎで、少しでも楽に、いつか遠泳を泳いで見たいと思い、身体を休める月曜日。また明日から新しい一週間が始まる!

3回目へ

3回目に向けて走り出している。
フルマラソン、3月30日朝6時30分発。
去年のようにエネルギーしないこと、そして、4時間をきること。それが目標。

船長コーチの練習メニューで変わったのは、
1 一回の練習で長めに走ること。基本を15キロ、時間があるときは20キロというメニュー。最近では15キロはずいぶん軽く走れるようになり、体が強くなっているのが分かる。足の回復力も早い。それに、ものの付け根が痛くなる例年の悩みが今年はない。靴のバランスをきちんと調整していただいたおかげで体重が外側に逃げなくなったのが大きな成果。

2 4時間で走りきるスピードを体に覚えこませること。4時間で走るためには一キロ5分40秒平均。去年の練習は、そのペースが最高のスピードで、それ以上では走らなかった。ぎりぎり、スレスレでは走りきれない。今年は、5分30秒を最低ライン、15キロ以上走るときも、5分20秒ほどで走る。そして、途中で1キロ5分前半のペースに上げて、それで3キロ走る。ちなみに、今日は4分50秒まで上がっている。

そして、夏からの筋トレで筋肉に「動くんだ、耐えるんだ」という指令を送り込んでいる。去年のペースダウンは完全にエネルギー切れで、筋トレ不足を痛感したので、今年は何としてもそれだけは避けようとつとめている。失敗が一番の教訓である。

スタートまで60日ちょい。今年はコースが街中になって、気分も盛り上がりそうだ!よし!

未来に向かって

長袖シャツにパンツ、そして靴を履いた少年達7人がステージに上がる。6月下旬は充分夏のテルアビブ、歩く若者の「ドレスコード」はTシャツかタンクトップに短パン、そしてサンダルと決まっているので、シャツやパンツ、それに靴に身を包んだ少年達一人ひとりからは、今日はいつもと違うんだという強い気持ちが伝わってくる。トロンボーンの彼の前身ごろと袖にはしっかりとプレスがかかっているのが僕らの席からでもよく見える。テルアビブでそんなプレスのかかったシャツを身に着けているのは弁護士かハイテク系のビジネスマンのマイノリティなので、見ているほうも自然とピリリと引き締まる。

 26日、平均年齢20歳以下のジャズバンド「Organic Sound Unit」のライブがあった。イタマル・シャツというちょうど一年前に初めて耳にしたときから「ググッ」とわれわれのハートを掴んだ若干二十歳(当時は19歳)のサックス奏者が創設メンバーということ、そして、我が家の目の前の路上で演奏していた頃から「うまいな~、でも子どもだよ」と驚いたドラマーのオフリが参加しているということもまた楽しみの一つだった。イタマルはどんな音楽を目指し、どんな曲を書くのか、オフリはどれだけ成長しただろう、と多くの期待を抱きつつ、きちんとワンステージ通じて見てみたいというわくわく感で一杯だった。

管楽器5名、エレキベース、ドラムというユニークな構成の少年達がステージを埋める。そして、躊躇することなく演奏をし始めた音は、自信に満ちた、それでいて新鮮で、真っ直ぐに芽吹いている瞬間を見ているかのような希望を僕らに与えた。「一直線でストレート」そんな勢いと若さに満ちている。彼らは未来に向かって演奏しているんだ。今ではなくて、彼らの視線は完全に未来に向いている。10代ならでは勢いは、今から未来にもう踏み出してしまっているかのような勢いなのかもしれない、と一人ひとりのソロで強く感じる。

音と同時に彼ら一人ひとりの目にも意識が奪われる。舞台に立つことは当たり前だという目、これからもずっと演奏し続けるのだという目、そんな確信が強く感じられたからだ。そして、自惚れではない、絶対の自信。野球をやっていた頃、強いチームを目の前にした瞬間に圧倒される、滲み出す自信。それは練習だけでは身につけることのできない、いわゆる才能が生み出すオーラだ。そして彼らは笑顔を見せながら、楽しみながらそんなオーラを滲み出しながら、彼らの音を奏でる。美しく新鮮なステージに観客も大いに沸く。

そして、イタマル・シャツによるオリジナルの数々。一つ一つの音は自信がありストレートなのだが、曲としての音楽はものすごい幅がある。こんなメロディラインを10代で書いてしまうということを素直に驚いた。そして、何ともいえない郷愁をそそるウェットなサックスの音色、彼自身が持っている音の世界を再び耳にしてジーンとする。


真ん中がイタマル・シャツ(写真は船長)

専門的に音楽を知るわけではない僕らにとって、よい音楽かどうかの基準は、心をつかむかどうかという単純なもの。気がついたら、我をも忘れるような心の震えがあるかどうかだけなのだが、イタマル・シャツのつくる曲も音色も僕らのこころをしっかり掴んでくれた。彼の音楽の世界にしっかりと引き込んでくれたのだ。音楽家が観衆の期待通りに答えることは、観衆が思うほど簡単ではなく、それまでには苦しみがありとても難しいことだということを、過去2年間ライブ会場に足を運んで学んだ僕らは、当たり前のように彼の音楽の世界に引き込んでしまう彼の才能と可能性が素晴らしいことを改めて実感し、ますます希望を感じながら岐路に着いた。

おそらく、現在テルアビブで最も若く完成度の高いバンド。今年で25周年を迎えるレッドシージャズフェスティバルにも登場する予定だ。フェスティバル公式サイト

視聴のみならず、バンド紹介や写真の一つ一つに、自分たちの音楽をつくろうと言う堅実な姿勢が感じられる公式サイトも是非。Organic Sound Unit

やるだけやった(その2)

(「やるだけやった」(その1)の続きです)

気がつけば周りを走る人たちの数が随分減っている。時計は5分30秒台をキープしているのだが、後ろからも抜かれるし、前のランナーもドンドン遠くなるような、自分のペースが落ちているような感じだ。全体の流れがはやいのかもしれない。雲行きは怪しく、また降りそうだ。

それまで空っぽだった沿道も、21キロ地点には固まった50名くらいの応援がありひさしぶりに引き締まった感触で前を見直すと、船長がいる。作戦通りスペシャルドリンクを口にし、りんごとオレンジと黒砂糖と梅干を手にする。「いいペースだよ!」そう言ってもらってはじめていいペースなんだと自信が足に伝わる。僕も「いける」と応える。フルマラソンで梅干はいいと何度も聞いていたが口にしたのは初めて、確かに「ビシッ」とインパクトを与えて、その後「ジワジワ」と疲れていた体が力を取り戻していく、梅干に秘められた力を感じる。直後のラップは5分19秒、ちょっと上がりすぎだなと抑えるが、いい感じ、快調だ。

その後、30過ぎまでの間、唯一走ったことのない、つらつらと長い区間に入る。クロスカントリーのような軽いのぼりとくだりを二度ほど繰り返す狭いコースを数人が重なって走る。23、24と距離を刻みながら、さっきまで違和感程度だった左足が徐々に重くなり、はねる感覚を失い、「前へ」という気持ちと力がかみ合わなくなる。時計は5分29秒でも体調はそれ程快調でもなく、5分40秒を超えていないものの、もうそれ以上ペースが上がりそうもない体と照らし合わせると、徐々に残りが長いなと感じるようになる。

太陽が眩しくなり、ペースも一キロ5分50秒台に下がり始める。後方から二人の女性が「今どれくらい?」「30秒台かな、もしかしたら27秒台かも」「うっそ~」と元気そうに言葉を交わしながら抜いていく。二人の「ふくらはぎ」は確かに「5分30秒台!」というエネルギーに満ちていて、そのはじけるような動きを見て、初めて他のランナーの体調が羨ましいと感じると、自分のペースが上がらないことが気になり始める。

隣の男性ランナーが突然「俺、吐きたい」と口にして、仲間だろうか別の男性が「ここじゃない、まだ」と声をかける。僕も心の中で「ここじゃない」と繰り返すが、左側にぴたりと並んでいて、嫌だなと思うもののペースが上がらないし、これ以上落としたくないと思うと自然とぴたりと並んでしまう。すぐ後ろを走っている男性二人がずっとしゃべり続けていて、どうも気になって仕方なくなる。走っているのにベラベラとよくしゃべれるな、それにしてもうるさい。

28、29といつもの馴染みの練習コースに入っていくが相変わらず体の切れがない。30キロ地点ではじめて6分台を示す、船長が待っている31キロ地点での気分とエネルギーの挽回を期待しながら歩を進めるがドンドン重くなる。瞬間的に船長に「梅干だけ」と梅干の持つ力に頼る事にする。オレンジやりんごを噛むことでエネルギーを失いたくない、口に含むだけですぐに効果を発揮できるものがいい。梅干を手にして、船長に「きびしい~」と思わず発してしまう。去年はなんともなかった「こんなのありかよ」という急な角度の橋はまさに「ありかよ~」と叫びたい。梅干は酸味さえ残さず、そのまま疲労を打ち破ることなく無情にも消えていった。その後、32、33と一キロを刻む看板が見える感覚も長くなり、「二回目のフルマラソンは70%がゴールにたどり着けないんだって」と言っていたモティの声を思い出す。「コース見たか?32から37までの海沿いの区間がアップダウンもあってつらそうだよな」とも言っていた。その区間は昨年も35キロから37地点で、海の真横のコースを走るので僕は思わず「ブラボー!」と胸で叫んだ場所だ。「眺めがいいから乗り切れるさ」とモティを励ましたが、33から34、そして35と数字が増えるのだけを何とか確認するのが精一杯で、目の前の海を見る余力はなく、重いな、動かないな、と思いながら手と足を動かす。36キロ地点で水が足にかかり、そのしぶきが一瞬だけ足に元気を取り戻したけど、それも本当に一瞬で、37キロ辺りから突然ゴールが遠くなった。

視界が狭くなる。25キロ辺りで脱落したかに見えた男女もヒョイヒョイと復活している、35キロくらいまでは一緒だったポニーテールの40代くらいの女性は、あんなにきつそうだったのにもう前方遥か彼方に消えてしまった。そのうち、後方からマッチョイズムを声にしたような男性達の太い掛け声が近づいてくる。最後の5キロを過ぎたのだ、掛け声張り上げて一気にゴールまで行こうぜ!と心を一つにしたくなるのも分かる。だけど、もうそんな声を出す力も残っていないんだ俺には。と思うと、急にその声が嫌で仕方がなくなり、聞いているだけで苛立ってしょうがなくなる。その声はしばらくして収まると、「4:00」という看板を掲げた「ペースメーカー」とその周りを取り巻く多数の男性の固まりが、「ゴール一直線」というオーラを発しながら勢いよく抜いていく。4時間はもうだめなんだ、と思ってもどうしようもない。男達の固まりがいなくなると、今度は、右前方に、右足と右腕に刺青を入れた男性が目に入るようになった。その「刺青おとこ」も後ろから見て明らかに疲れきっている。なのに、その疲れ切った肌に刺青がピッタリとくっついて前後している。「なんでこんな時に刺青なんかしてるんだよ!」ともうその刺青が嫌で嫌で仕方なくなる。

行きの時には(往路8キロ地点だった)全く感じなかった短いトンネルの緩やかな坂が視界に入る。今の体ではとても坂など受け入れられない、手だけ動かそう。トンネルを越えたところでカメラを構えた「ねえ撮って!」のお姉さんの方から、ものすご~く申し訳なさそうに「がんばって、ください」と「か細い」日本語が聞こえる。そのか弱さが、僕の今の姿なんだなと何度も耳の中をこだまする。

前方には真っ青な地中海、だがそれさえも目に見えない。顔を上げる力もない。船長と最後は40キロかゴール地点と言っていたが、40キロを過ぎても姿が見えず。左右を探すエネルギーも、前に進むことにとっておかなければと前だけを見る。梅干でも口にしたら少しでも回復するかもしれないとささやかな希望があったけど、このまま最後まで行かなければならないんだ。ゴールは遥か遠くのままで、一向に近づいてくれない。下り坂のはずだけど何も変わらない。腕の力もなくなり、左手の時計がずしりと重くなり、外して船長に渡したいと思っても船長が待っているのはゴール地点。でも一度重いと思ったらドンドンと重くなり、耐えられなくなり時計を外して右手に持ち帰る。左手が宙に浮いているようだ。何のために手足を動かしているのか、いつになったら終わるのかも分からなくなり、空っぽの中をひたすら動かし続けるようになる。帽子も重いな。帽子も投げ捨て、右手の時計も、何もかも投げ捨てたくなる。

左右両側には10キロやハーフマラソンを走り終えた人たちが逆方向に歩いている。「よくやってるぞ」「あと少し」と耳に入るが、全く何も感じない。終わって羨ましいとも、さっきまでのイライラもない。前から照りつける太陽のまぶしい。

突然「博士!」と左側から声が聞こえてきた。海の友だちのお父さんのヨアブだ。横に駆け寄ってきて「一緒に走ったら少しは助けになるか」と声をかけてくれる。船長に会うまではまだまだ遠いと思っていたので、知っている人が突然目の前に現れたのは勇気になる。声は出ない。とっさに、外していた時計と帽子を渡し「これが助けになる」と何とか声を出す。「分かった、じゃあ日曜日、学校に持っていくから」と言うとヨアブは後ろに消えていった。

しばらく歩を進めると、また左側から「博士!」と声が聞こえる。シュロミだ。前日も電話で「お互いがんばろうぜ」と話したばかりの友人だ。彼は10キロ。「フルはすげーな」と言っていた彼にこんな姿を見せなければならないのが悔しく「今年はきつい!」とありったけの力で彼の耳に届ける。届いたかどうかは分からないまま、シュロミは後方に消えていく。

もうないと思っていた給水所が右側に見える。恵の水だ。ペットボトルを何とか手にする。でも飲む力がない。手を顔の上まで持ち上げて、顔を上に向ける力がないのだ。手をぬらし、その手で顔を一度ぬぐう、でも体は何も変わらない。もう動くはずのない体が動いている。何のためかも分からずに動いている。

42キロ地点の看板が目に入る。このまま直進するとハーフのゴール、フルマラソンのゴールは右側に折れていく。地中海に向かいそのまま真っ青な海の真横でゴール、何て素晴らしい演出なんだ、と気持ちいいフィニッシュのイメージを思い描いていたけど、もうそんなことはどうでもいい。変わらずに体を前に進ませる。

ゴールゲートの時計の「4時間05分」という数字が見えて、「去年よりも随分早いんだな」と少し嬉しくなったけど、ラストスパートも、去年のように両手を広げることもできずにとにかく動き続けていると、「博士、博士」と船長が左から手を握ってくれて、初めて「あ~終わったんだ」と分かって、そのまま芝の上で両手を広げて体を止めたら「動かさなくてもいい」という安堵感で一杯になった。

(その後30分間の事は後日)
気持ちが落ち着いて、「42.2キロ」証明シールを手にし、メダルを手にして、海がきれいだなと思いながら船長と一緒に歩いていたら、「あ~ゴールしたんだ。止まらずに走りきったんだ」と、空っぽで辛かった長かった時間を思い出し、そして、ゴールして船長と歩いていることの幸福感が足元から全身一杯に伝わってきて、大きな感激に包まれた。4時間は切れなかったけど、去年は味わえなかった大きな感激と、走りきってよかった、という喜びを走り終わって感じられたことがとてもとても嬉しかった。

つらかったけど、目標は達成できなかったけど、今年のマラソンは初めてのマラソンよりも忘れられない走りになった。止まらず、歩かず、やるだけやった、やるだけやれた!船長ありがとう!

やるだけやった(その一)

(スタートからの時間軸に沿った改訂版その1)

とにかく完走!という初挑戦だった昨年と異なり、今年は4時間以内、いわゆるサブフォーという明確な目標を立て、船長のプログラムの下で練習を積んできた。とにかく長く走れる体を作ろう!と臨んだ昨年とは違い、ある程度のスピードを体に教え込む練習を導入するため時計と心拍計を身に付け、数字をにらみながら走り、そして記録を書き込むというデータ型へと大きく練習スタイルをシフトさせた。これまでは、自分の体と対話しながら走ってきたので、時計をつけて数字を見ながら走るというのは全く初めてだった。

11月20日に15キロ、2月20日にはハーフとそれぞれ大会にも出場し、週二日から三日の練習も予定通りにこなし、3週間前に30キロプラスを走って練習のピーク、その後徐々に距離を落としながら、体が走りたい!とウズウズするくらいまで疲れを取り去ることをイメージしながら調整。最後の一週間は、パスタとご飯を繰り返し、体内から42キロを走るのだという感触をよみがえらせていく。昨年のように体内や足に炭水化物が溜まっていく感じはないけれど、全身の疲れは取れていき、いつもの左側の足腰の「こり」もとれていい感じだ。「走れるだろうか」という一抹の不安を残した昨年と異なり、前日から随分と胸が高ぶり、楽しみでしかたなくなってきた。野球の試合の前日のように、これまでの練習の成果を発揮する時が目の前に迫ってきたことで、全身が緊張感と高揚感にジワジワ満たされる、あの感触だ。船長と共に、この感覚を味わえることがまずは幸せだと何度も口にする。そんな緊張感と高揚感を抱きながら、前日はまだ外が明るい夜7時過ぎに床に付いた。

午前3時5分に目を覚まし、きな粉にまぶしたもちを二個、ゴマをかけたご飯を二杯食べる。走っている最中に空腹になりエネルギー切れになるほど辛い事はないことを、3週間前の30キロ走で久しぶりに体験したので、食事は多めに取ろうと意識的に噛みながらしっかりと食べる。そして、溜まっていたメールに返信したり、ゼッケンをつけたりしながら徐々に体を覚まし、5時過ぎから最近お気に入りのAvishai Cohenの『Seven Seas』を聞きながらじっくりとストレッチをして心身ともに盛り上げていく。

今年はスタート地点が自宅から3キロ弱なので、スタート一時間前の朝5時半、船長の声援を受けて自宅を出る。いよいよだ。早朝独特の静かな路上を、走りたいという気持ちを抑えながら早足で歩く。同じようにスタート地点に向かう何人かのランナーを目にして、どんどんと気分が高まり、40キロ地点の看板を見て、およそ5時間後に訪れる自分の最後の走りをイメージする。着々と一歩ずつしっかり走っている。

昨年は直前の開催日変更で500名弱だったマラソン参加者は、今年は1300名と多く、スタート地点は随分と賑やかで、朝6時半とは思えないほどボルテージが高く、スタートの号砲を鳴らすテルアビブ市長も興奮気味に「元気ですか~」とまるで猪木、それに対してランナーが「オ~」と応えて益々ムードは高まり、体が「走りたい!」と思うと同時に一斉にスタートのラインを切った。

体調はいい。走り出しは早すぎず遅すぎずいいペースで体が動く。一キロは5分43秒、船長と5分45秒で入れればベスト、と言っていたので理想的な入り方だ。空気も気持ちがいい。緩やかな坂のアレンビー通りに入ると、一晩の仕事を終えて帰る若者がナチュラル・ハイの状態で大声出しながらカツカツと大勢で歩いている。その横をランナー達がが駆け抜けていく。早朝の新宿駅のようだ。朝まで飲んでた不健康そうな若者と、登山の格好をしたすがすがしい中年夫婦が乗り合わせる中央線の車両のようだ、懐かしい。コースは世界遺産「ホワイトシティ」へと向かっていく。三キロ先ユーターンから戻ってきた先頭集団が左手に見える、ケニアからの招待選手だろうか、3名が揃って走っている。その後ろから、薄いピンク色のオーソドックスなウェアに身を包んだ前かがみで走る中年の男性が近づいてくる、去年も走っていたあの彼だ!またこうして同じ舞台で走っているということが嬉しくなる。後ろから「彼はいつも走っている○△だ」という声が聞こえる、有名なんだな。建築中のテルアビブの文化村をユーターンするところで、カメラが付いたおもちゃのようなリモコンヘリコプターが頭上からランナーをとらえているのを見つけ、今年の大会が結構隅々まで行き届いていることを感じる。フルのほかに、4.2キロ、10キロ、20キロと合計約1万9千人がこの街を走るのだ。

あっさりとホワイトシティを抜けて6キロ過ぎから徐々に北上する。船長と海が待っている8キロ地点を目指して自然と足も軽くなる。写真サービス「ねえ撮って!」のお姉さんが僕にレンズを合わせる。「博士!!」と日本語で声をかけられ、思わず「ありがとう」と大声で応える。一度電話で知り合った日本滞在経験者のイスラエル人だ。覚えていてくれたんだ、嬉しいなと思っていると、左前方にチョコンと座った船長と海が目に入る。両手を上に広げ、左右に揺らし、それでも気がつかないので手をたたくと、船長が走って近寄ってきてくれる。前日の入念な作戦会議でお願いをしていたスペシャルドリンクを受け取り、さらにオレンジと黒砂糖を受け取る。その間、船長は数十メートル左横で伴走し、後方のランナーからは「すごいな!」とチームの連携振りを見た羨ましさと感嘆が混じった声が聞こえてくる。一人になって9キロ地点に向かうと、突然の雨!先ほどまで青空だったのに、体にポツポツと粒があたるようになり、それはやがて体を濡らす冷たい雨になった。数分で止んで日差しが出てきたものの、14キロ地点手前で再び急に雲が黒くなると、また雨粒が落ち始め、今度はかなり強い雨脚となって靴も濡らし、体を冷やした。今日は暑くなると思っていたので、意外なところで体が冷えたことと、体があったまったなと思うと冷えるという繰り返しで気を取られながら、一キロ5分30秒前半のペースで走る。足が自然に流れるなら無理に5分40秒に意識しすぎるよりも、5分30秒くらいでもいいなと思っていたので許容範囲だ。幹線道路をただひたすら14から15、15から16と数字を増やすためだけにヒタヒタと走る。距離の表示が2キロ毎のところもあり、ラップが何度かあいまいに表示されるのを気にしないようにしながら、船長が待つ第二のステーション21キロ地点に近づいていく。

ジャズからキッチンへ

我が家のテルアビブライフを豊かにしているのがジャズ・ライブ。若くて、熱くて、それに敷居が低いのがすっかり気に入って、お気に入りのアーティストも何人もいて、随分と出かけている。アーティストはほとんどが20代で、一見、その辺に歩いている兄ちゃんたちだけど、演奏を始めるとグッと会場をひきつける、レベルは高い。ライブ会場には中高生が多数押しかけているし、ある会場のジャムセッションでは、「え~この子が?」というあどけない少年が舞台でギターを奏でたりする。

僕等は外人特権(と我が家ではよく呼んでいる)で、すぐに顔が覚えられるので、そんな少年達やファンだけではなくて、アーティストとも随分と親しくしてもらっている。

その中でも、Yuval Cohenとは、彼が震災前の神戸に滞在して演奏活動をしていたということもあって、ライブのたびに言葉を交わしたり、個別にカフェを共にしたこともあった。若いイスラエルのジャズ界だと兄貴分となる僕等と同世代で、何より波長が合うな~という感じがしていい。

先週のライブの後に「木曜日は僕の子どもの日だから、海ちゃんと一緒に会おうよ」と彼が提案してくれていたので、年末真っ最中(そういうものはイスラエルには存在しないんだけど)の30日木曜日、Yuval Cohenの家に遊びに行くことにした。彼は5歳の双子の父親。二人は年長で、一年生の海とは年齢的にもちょうどいいし、まあ彼の子どもだったらきっと海と気が合うだろうという直感もあった。

その直感はばっちりとあたった。ドアを開け、我が家から持参した紙風船をポンポンと手で弾くと、子ども達は仲良く遊び始めた。

大人たちは、いつものライブの後の高揚感とはちがって、自宅でのんびりと、子ども達の笑い声をBGMに、ワッハッハ、アッハッハと喋っていたらあっという間に時間が経過。

「お、子ども達よ、そろそろオムレツを作ってあげよう、オムレツ欲しい人?」
「は~い」
とアーティストではなく父親の顔をしたYuvalに子ども達が元気に答える。
「大人たちもオムレツでいいかな?」
「じゃあ、、、ありがとう」
夕飯まで一緒に食べようということになったけど、その場がものすごく居心地がよくて、そんなに「わるいな~」という遠慮する気持ちもなく、案外自然と一緒に食事をすることになった。まあ、夕食と言っても、イスラエルの夕食は軽食だし(週末でなければ)、断る理由もない。
そうは言っても、船長と二人で座っているのも落ち着かないので「何か手伝おうか?」
と聞くと、Yuvalはニコニコして「ハカセサンはGood シェフ?」
「まあ、好きだけど」
「おお~すばらしい!じゃあ、ハカセサンお願いします」とサッと手を台所に向ける。
「ここに野菜もあります!ああ~助かった~お願いします!」
僕は、いとも自然に台所に立ち、たまねぎのみじん切りを始めた。
気がつくと、僕と船長が、他人の台所とは全く感じずに「バター取ってくれる?」「冷蔵庫から牛乳とって」とみんなの夕食を準備していた。
「おっかしいな~、何だか変だよな~」と船長と何度も言いながら、台所での身のこなし方とか、手の動きだとかはとても初めて立つ他人の台所とは思えないくらいに自然だった。

すっかり興奮状態の子どもたち三人と共にした夕食は、大笑いの連続で、ものすご~く楽しく、次は是非週末にのんびり会おう!と誓って帰路についた。

ジャズライブからキッチンにまで、初めて会ったときには想像もしなかった方向に僕らはいる。
彼は、妹のAnat Cohen、弟のAvishai Cohen(トランペット)と、3Cohensという兄弟ユニットを組んでいて、今月欧米ツアーに出かける。その前の6日にテルアビブでShai Maestroとライブ。彼のキッチンにたった後で聴く音は違って聞こえるかもしれない、楽しみだ。

テルアビブで走る

12月に入ってもしばらく日中30度などという「冬が来ない」日々が続いていたけど、5日、思わず肩をすぼめて歩くような気温になり、日本から持ってきたヒートテックやタートルを引っ張り出した。そして、先週末は暴風雨が3日ほど続き、海岸沿いのレストランやバーが相当の被害を受けたが、イスラエル、そして、おそらくエジプトやレバノンを覆う大気が、完全に夏から冬へと入れ替わり、最北に位置するヘルモン山では一メートル以上の積雪で、イスラエル唯一のスキー場もオープンした。来る時は一気にくるのだ、友人も「中東だからね~、何でもジワジワじゃないんだよ」と言うので、そうそうと思わず相槌をうつ。

日中は太陽がポカポカと体を温めてくれるけれども、朝晩はコートが必要で、その中でスパッツをはいて、長袖を着てその上にティーシャツを着て走るという格好がちょうどよくなってきた。おとこ連中は、相変わらず、Tシャツと短パンが圧倒的大多数で、女性陣はスパッツもTシャツもきちんとしたランニング用に身を包んでいるので、僕はテルアビブでは、男性では珍しく女性的な格好で走っていることになる。

テルアビブの海岸沿いは、南北に遊歩道が続いているので、地中海を見ながら走るという極めて贅沢なジョギングコースとなっているのだが、もちろん、ジョギング専用ではないので、犬の散歩やら、海岸沿いのホテルに滞在している海外観光客が散歩していたり、といろいろな人達がいるので、そういう人にぶつからないようにしながら走る。

最近は、約10キロくらいを目標にしているので、中心部から南下してヤッフォという旧市街のある街までを往復するのだが、シェラトンやクラウンプラザといったホテルが立ち並ぶ中心地から徐々にアラブ系住民が居住するヤッフォに近づく5キロ程の短い距離を走ると、耳にする言葉が、ロシア語やフランス語、英語から、徐々にアラビア語、アラビア語アクセントのヘブライ語へとかなりクリアーに変化する。帰り道はその逆で、だんだんロシア語やフランス語が多くなり、自宅近くになるとほぼ完全にネイティブのヘブライ語になる。

中心部から北上しても海岸線沿いを10キロ走ることはできるのだけど、ここまで耳に入る音の豊かな変化はない。すれ違うのは、ウォーキング、ジョギング、またはサイクリングの人々が大半で、海外からの観光客がブラブラただ歩くということもなければ、アラビア語を耳にする機会もほとんどない。

テルアビブでも、多くのランナーは音楽を聴きながら走るけど、僕は昔から聴きながら走るのだけはどうもできず、数メートル前を見据えて黙々と歩を進めるだけの、地味な走り方なのだけど、テルアビブで走ると飛び込む言葉の変化が多様でいろいろと刺激を受けるので、それを楽しんでいる。

さらに、お見合いたばかりの若い宗教家のカップルが、微妙な距離を保ちながら夜間の南部の海岸を歩くということを、走るようになって発見するようになった。これもまた面白いのだけど、続きはお楽しみということで。

芸術の秋のあっさり割引

昨日のニュースによれば、昨年の同じ時期の10月からの累積降水量が150ミリだったのに、今年は5ミリしか降っていないという深刻な水不足で、今年の雨季(イスラエルでは冬というけど、僕等からすれば、一年を通じて雨が降る可能性のある数ヶ月なので、雨季と言いたい)はこのまま水不足でしかも高温なのだという。

日本から戻ってきて3週間が経過するけど、目にした雨と言えば、ほんの一瞬「さらさら~」と降った程度で、気温も25度を越えている。朝晩は長袖でなければ寒いけど、日中は半袖短パンで充分という毎日なのだ。「冬はどこへ?」つまりは「雨は降らないのか?」という声がだんだんと真剣に心配する声に変わりつつある。

と、まだまだ夏ではあるけど、来週はテルアビブでピアノフェスティバル、その次の週はエルサレムで「中東のギター」ウード国際フェスティバルと「芸術の秋」満開というシーズンに突入した。

ピアノフェスティバルは毎年気になっているんだけど、知っている人がいないので今年もパス。ウードのほうは、アビシャイ・コーヘンの高校の同級生で、最近も一緒にツアーを回っているアモス・ホフマンというウード奏者(本当はギター奏者)の名前を見つけたので、よしっ!と行くことにする。ちなみに、アモスは、アバテ・ベリフン(Abate Berihun)というエチオピアから20年前に移住してきたサックス奏者で、「中東音楽とエチオピア音楽の出会い」と、おお~と魅力的な響きのテーマでライブをする。ベリフンは今年のレッドシーに出ていたけど、イスラエル人(エチオピア出身だけど、ユダヤ人なので移住してくると自動的にイスラエル人になるんです)だから、イスラエルで見れる機会を待とう!と思っていたのでチャンス到来で、もう一丁よしっ!

ウェブでチケットが見つからなかったので、新聞に出ていた電話番号へダイヤル。

「あの~ウードフェスティバルのチケットありますか?」
「え、、、っと(何かを見ている様子)あるよ。いつ?」
「24日」
「どっちよ、二つあるんだけど。中東エチオピア、、、」
「そっちです。」
「何枚?」
「一枚です」
「フ~(いきなりため息)、80シェケル(1800円くらい)」
「あの~The Cardを持っていれば割引って書いてあったんですが。」
「クチャクチャ(ガムをかんでいる様子)、えっと、じゃあ64にしてあげる」
「(カードの番号も確認しなくていいのかと内心思いつつ)ありがとうございます!」

とあっさりと64シェケルに割引になった。チケットは当日窓口でクレジットカードとIDを見せて受け取るという仕組み。これまでも同様に電話でクレジットカードで購入したライブチケットは同じ仕組みで、この時点でチケットを取ったという証拠は何も残らない。これだけ証拠として「書いたもの」が重要視される土地で、当日の当日まで手元に何もないというのは最初のうちものすごく不安だったけど、今ではすっかり慣れた。ちなみに、「The Card」を持ってきてね、とは言っていなかったので、この割引金額はもう確定なのだ!

さて、イスラエルの名俳優で「迷子~」の隊長役を務めたサッソン・ガバイ氏は本当に売れっ子で、舞台を中心に活躍しているんだけど「売り切れ」が多くてなかなかチャンスが訪れない。一度ガバイ氏本人の招待で見た「レインマン」が最後、もう一年半前のことだ。船長と「サッソンさんにも会いたいね~」と言っていたら、ちょうど「15日アンコール公演!」という記事を見つけたので、早速電話をする。

「あの~まだありますか?」
「あるわよ。何枚?」
「一枚です」
「あなた割引の対象?」
「え?」
「学生か兵士か、まあないと思うけど年金生活者?」
「いやどれでもないです」
「あら、そう。でも50%割引してあげる?」
「・・・(驚いて声が出ない)」
「200シェケルのところ100シェケルだけでいいから。クレジットカード番号は?」
と、またまたあっさりと、半額で購入してしまった!値下げには結構な体力を必要とするこの社会で(体力を使えば値下げできるというのもすごいのだが)、昨日と今日は、あまりにスムースに割引が成立した。

ここで生活するときに自分に言い聞かせていることの一つに、「本当に手にするまで、本当に実現するまで」油断しないことというのがある。久々に雨が降ったら雨漏りしてしまって舞台がびしょぬれで、ということだって、全くないわけではない。そういう非常事態にも、何とかかんとかで乗り越えるんだろうけど、とにかく、どんな舞台と音楽になるのか、今からいろいろな意味でちょっとドキドキである。

再びスタート地点へ

また走り出した。次のスタート地点は4月8日のテルアビブマラソン。それまでに、20日の15キロレース、そして、2月19日は世界最低の地、海抜下400メートルに位置する死海でハーフマラソンを順次走っていこうという計画を立てる。家族プロジェクト第二段の始まりである。

日本も空前のマラソンブームだということを、今回の一時帰国中、あちこちで見たり聞いたりしたけど、テルアビブのランナー人口も結構なものだと思う。ついでに、自転車人口もずいぶん多いのには驚く、日本と比べると本格的な自転車はかなり高価なのに。

さて、日本でちょっと気になったランナーのファッション。テルアビブでは、ランナーのウェアがカッコいい、と言えるのは女性ランナーだけで、男性ランナーは、ランニングにランニング短パンというクラシックなウェアが95%で、上半身裸というのも全然珍しくない。一見したところ、女性は走ることとウェアを選ぶ楽しみを両立させていそうだけど、男性は基本的にマッチョイズムの延長線上にジョギングがあって、ガンガン走って気持ちよくなって、ついでにそんな姿を見られるのも結構すきすき、というナルシスト的なのが多い気がする。

そういうなかで、僕のように、長めのスパッツと結構ぴっちりぎみの上着に身を包み、さらに深めの帽子をかぶって、ガンガン走るわけではなくじっくりとゆっくり走る男性ランナーなんて珍しいなと自分では思うのだけど、実際のところ、どこまでそういう視線で見られているのかはよく分からない。少なくとも、僕は上半身裸では走らないし、そんな姿あまり見られたくはないと思う。

音楽を聴きながら走っている人も多いけど、僕は昔から音楽も聴かないし、基本的に何もしない、とにかく数メートル先を見ながらモクモクと足を動かすという方が好きなので、毎日走る場所を決めて、ジッとしながら走る。

ジッと走っていても、いろいろな感情は敏感に反応しているのだけど、いつも「いいな~」と思うのは、地中海沿いにしばらく長い間走っている時。信号もなく、邪魔になる車もなく、ただ大きく広い海の横を走っているというのはものすごく気持ちがいい。山と湖に囲まれて育った僕にとって、海というのは家族旅行で夏休みにしか目にできない特別なもので、これだけ海に近い場所で二年間生活してもそれは変わらず、その海を目の前に、自分の足で移動していると考えるだけで格別な思いになる。

まだまだ練習を始めたばかりなので、本当の格別な思いはまだまだ先だけれども、それに向けてまたこうして動き出せたということが、まずは嬉しくて。船長、海、また頼むよん!
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。